今月のことば

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平成15年11月のことば

止観の法によって彼岸に達したならば、
 すべての束縛は消え去る。中村元訳(『真理のことば』384)

今日、先進国の一員であるわれわれは、かつてないほど自由を享受し、誰もが一度しかない人生を悔いなく、幸せでありたいと願う。が、それだけのために宗教など必要ないし、だからこそ多くの人々は宗教に何の関心も示さないのだ。
それはともかく、宗教、なかでも仏教は、われわれ人間が、今いる此岸(生死輪廻する世界)から彼岸(涅槃の世界)に渡ることを勧め、そこに至る方法(法)を説いているのであり、人として生まれ、悔いなく生きるかどうかではなく、人間の在り方そのものを問い、かつ如何にして生死の縄目から自らを解き放ち、真の自由を獲得するかを問題にしているのだ。つまり自由には、われわれの恣意的な行為が、善悪を問わず、永くわれわれを生死の絆に繋ぎ止めることになる自由(不自由と言うべきか)と、親鸞や空海が言う、真理に適(かな)って、自然に計らわれていく真の自由(彼らはそれを「自然法(じねんほう)爾(に)」、「法(ほう)然(ねん)の有(う)」と呼ぶ)の二つがある。
それでは、何がわれわれをして生死輪廻に繋ぎ止めているのかというと、意外にも、われわれが心と呼んでいるものであり、世々生々に迷いを深めるだけではなく、ややもすればわれわれを三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に至らしめる根源に心があることをわれわれは知らない。禅・浄の思想家たちが心を「第一の怨敵」とする理由がここにある。
そして、心は見るもの、聞くもの、何に触れても即座に反応し、われわれは良くも悪くも心に巻き込まれてしまうが、その心を除き、真理に目覚める方法として、古来、仏教が用いてきたのが「止観の法」であったのだ。つまり、心を止めて彼岸に根付き、真理を観照するもう一つの眼(慧眼(けいがん))が開かれる時、すべての束縛は消え去ると。(可)

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