「宗教心というものは お節介かもわからんけれども
他人のいのちが 気になるときや」
藤元正樹
2017.06.19
人間というものはともすれば自己中心的な生き方をするものです。
知らず知らずに人を傷つけたりすることもあります。
親鸞聖人は田舎の人々を「かれら」と言ったのではなく「われら」と名のりました。
そこに共に生きる姿勢が親鸞聖人が顕らかにした
「他人のいのちが気になるとき」であるという宗教心がうかがえます。
宗教心を振りかざす時は、いのちが見失われる時であります。
本当の宗教心は「見失ってきたいのちの発見」であると教えてくれた大切な言葉です。