仏教とは文字通り「仏の教え」を意味しますが、その教え(教説)の数はどれくらいあるのでしょうか。その多さを形容する言葉として「八万四千の法蘊(はちまんしせんのほううん)」という言葉があり、その教説の内容や長短については形容通り多岐にわたります。また、日本仏教に限りませんが、仏教の宗派(教団)もそれに比例してか数多く存在します。しかしながら、多岐にわたるそれらの教説は、教説間で一見すると矛盾をもつものに見える場合があります。
その典型として挙げられるのが、「一切皆苦」の例です。ある経典(A)では「一切は皆苦である」と説かれる一方で、ある経典(B)では「苦あり、楽あり、中間あり」と説かれます。一見するとどちらかが矛盾しているように見え、仏説が意図するのはどちらなのかという疑問が起こります。
さらに面白い例があります。「諦」という言葉がありますが、現代訳では「真理・真実(Truth)」といったニュアンスで訳されます。有名なものとしては仏教用語の「四聖諦(ししょうたい、四種の聖者の真実)」が挙げられるでしょう。ですが、経典に目を向けてみると、「諦」の数という点では時として様々であり、一貫性がないように思えます。事実、『釈軌論』(しゃっきろん、世親著作)と呼ばれる論書にも諦の数について取り上げている例があります。(詳細については「佛教徒にとってsatyaはいくつあるか」という論文をご参照ください。以下の抜粋も上記論文を参照しました。)
ある経では「聖者の諦は四つである」と説かれ、ある経では「バラモンの諦は三つである」と説かれ、ある経では「諦は二つである。世俗諦と勝義諦とである」と説かれ、ある経では「諦はただ一つである。第二のものはない」と説かれ…(中略)…と説かれるが、こうした性格をもつものが「前後矛盾に対する論難」である。
このように相反する教説を仏教徒はどのように解釈してきたのでしょうか。一方の説だけを仏説として採用し、もう一方を切り捨てたのではありません。一切皆苦の例に戻りますが、AとBという教えがある場合、教説Aを文字通りに解釈し、もう一方Bを文字通りに受け取らず、裏の意味を持つと解釈するという方法を採ってきたのです。この場合、Aの教説を「了義(りょうぎ)」、Bの教説を「未了義」と言います。決して身勝手に解釈していたのではありません。逆もまた然りです。
このような教説の解釈が教相判釈の祖型とも考えられますが、今日、各宗派が数多く存在するのも上述の解釈の歴史があってこそではないでしょうか。(本記事については、「経の文言と宗義―部派佛教から『選択集』へ」という論文を参照いたしました。)
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