「京都光華ウクライナ支援チャリティーコンサート」を開催します
2022.12.14
12月17日(日)にウクライナ人道危機救援を目的とした「京都光華ウクライナ支援チャリティーコンサート」を開催いたします。
本コンサートは、在日ウクライナ大使館にご後援いただき、公益財団法人 京都日本語教育センター 京都日本語学校のご協力のもと、京都府に避難されているウクライナ人女性アーティスト2人をお招きし、学生生徒・地域の方々と戦争と平和ついて考えていくことを目的としています。
当日は、音楽家、女優として活躍されているカタリナ・トカチェンコ氏によるソロ演奏や画家、アーティストとして活躍されているユリヤ・ボンダレンコ氏によるウクライナに関するご講演の他、本学園の学生生徒ともご共演いただきます。
どなたでもご参加いただけますので、お気軽にお申込みください。
【開催日時】 2022年12月17日(土) 16:00~18:00(15:30会場)
【場 所】 本学園 光風館 講堂
【主 催】 学校法人光華女子学園
【後 援】 在日ウクライナ大使館
【協 力】 公益財団法人 京都日本語教育センター 京都日本語学校
【申し込み】 https://forms.office.com/r/xuVvZGUWyh
詳細はこちらをご覧ください。
予が如き頑魯の者、あに敢てせんや。
2022.12.05
この言葉は、平安時代中頃の僧で、日本浄土教の祖と言われる源信僧都(九四二~一〇一七)の言葉で、その著『往生要集』の「序」にあります。そこには源信僧都が著した念仏往生の指南書ともいうべき『往生要集』撰述の趣旨が述べられています。当時、源信僧都は僧侶の中で「学徳」の第一と評される僧でした(『続本朝往生伝』)。その僧都が、自らのことを「予が如き頑魯の者」(私のような頑なで愚かな者)と表わしたのでしょうか。
僧都が生きた時代は日本が末法の時代に入るという末法元年(永承七年、一〇五二)を前に自然災害、疫病の流行、争いの頻発など、人々の生活は悲惨な状態で、まさに末法の世の到来を実感させる時代でした。「序」には「濁世末代」と述べられています。このような時代であるから人々は、往生極楽の教えや修行を自らの「目足」とし、求めて精進していました。しかし、顕教といい密教といいその教法は一つではなく、いろいろの修行法もあり難しい選択でした。智力に優れ、精進を怠らず実行できる人は自力で往生極楽することも可能であるかもしれないが、「予が如き頑魯の者」には精進に堪え目的を達すること(往生極楽すること)が出来ない。と、自らを含め多くの人々の現実を理解されたのです。そうして源信僧都は、これまで学び修めてきた教法の中から、阿弥陀仏の本願念仏による救済を頼むことを勧められました。『往生要集』はこのようにして撰述され「この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披(ひら)いてこれを修むるに、覚り易く行い易からん。」と述べておられます。源信僧都は本文「正修念仏」のの中に「大悲倦き(ものうき)ことなくして常に我が身を照らしたまう。」と述べられ、阿弥陀仏の大慈悲の光明は、遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てることはない。「頑魯の者」である私もまたかの摂取の光明に照らされてある。と、感激の言葉を述べておられます。
この源信僧都の「頑魯の者」は、自らを見つめ自らに名乗られた法然上人の「愚痴の法然坊」、親鸞聖人の「愚禿親鸞」の名乗りを思い出します。 二〇二二年十二月
※親鸞聖人は源信僧都を、お釈迦さまの説かれた念仏をとなえることによって阿弥陀仏の浄土に往生するという本願念仏の教えを正しく伝えてくださった印度・中国・日本の七人の高僧の六番目・第六祖として尊崇されています。
無碍の道
2022.09.02
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ
おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」 (『光華抄』)
これは、光華女子学園を創設された 故大谷智子お裏方のお手製の歌です。
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ」と仰っていますが、ともすれば、私たちは、日常生活で身に付けた知識に溺れ自惚れたりして、分かったつもりになっていることが少なくありません。
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」
お裏方は、そうした私たち一人ひとりの中に知らず知らずのうちに生まれた濁った心や思い上がった姿を戒めて下さっているように思われます。
蓮如上人も、御文の中で「あながちに もろもろの聖教を読み ものを知つたりといふとも 一念の信心のいはれを知らざる人は いたづらごとなりと知るべし」と仰っています。
私たちは、親鸞聖人の仰る「無明の闇」((煩悩に囚われ、真実の智慧の明るさのない世界)『教行信証 総序』)に窮しているのかもしれません。善悪や優劣などの相対的な価値観に右往左往し、科学的・近代的な価値観こそが絶対的な智慧であると未だに盲信しているのではないでしょうか。
もちろん、その恩恵は多分にあり、感謝の念も不可欠であることは言うまでもありません。しかしながら、そこにあるのは、やはり「無明の闇」と言わざるを得ません。近代文明がもたらした光の底にある陰。例えば、この夏の異常な暑さに見られる地球環境問題や新型コロナウィルス感染とその対策、さらには核や原発の問題、ウクライナ侵攻等々。形而下の利益を求めるが故に果てしなく続く人間中心社会が生み出した「無明の闇」です。
お裏方は冒頭の歌のように「おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」と願われ、親鸞聖人は「無碍(障りの無い)の光明は無明の闇を破する恵日なり」と断言されています。
浄土真宗の「光」とは「阿弥陀如来」、「いのち」そのものです。本学園の名称の一部ともなっているこの「光」が、ご縁ある皆様の「いのち」そのものを照らし、「無碍の道」として、豊かな人生を歩まれんことを心よりお念じ申し上げます。 (宗教部)