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風雅の誠(ふうがのまこと)

2024.07.10

 「不易流行」という言葉があります。俳聖(はいせい)松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で会得した蕉風俳諧の考え方の一つです。そのことを、向井去来(むかいきょらい)がまとめた「去来抄(きょらいしょう)」(芭蕉の俳論をまとめた江戸時代の書)で説明していますがその中で、次のような一節があります。

「不易を知らざれば 基(もと)立ちがたく、流行を知らざれば 風新たならず」 (去来抄)

 「不変の真理を知らなければ基礎が確立しない、変化を知らなければ新たな発展がない」という意味です。続けて「両者の根本は一つ」であり「それらは結びついてないといけない」と言われています。
 そして、服部土芳(はっとりどほう)の「三冊子」には、「その根本は、「風雅の誠」(芭蕉俳諧で美の本質をさす)であり、これを追究する精神が、不易と流行の根底にはなくてはならない」と書かれています。「不易ということを知らなければ、本当にその風雅の誠という意味を知っていることにはならない、不易というのは、古いとか新しいとかで価値が決まるものでもなく、物事が移り変わったり、はやったり、廃れたりすることに左右されるものでもなく、誠に時代や環境を超えてしっかり自立してそこにある姿をいうのである。」と。
 すなわち、物事の本質を見極めることが何よりも重要であると言われています。これらは、俳諧に対して説かれた概念ではありますが、学問、文化、社会、ビジネス、人間形成など、さまざまなものに当てはまると言われています。特に最近は、これまでの仕組みや枠組みが変わり、当然と考えられていた物の見方や考え方が劇的に変化するパラダイムシフトの時代であると言われています。人口減少・グローバル化による社会構造変化をはじめ、AIやDXの進展、新たな価値観や多様性の受け入れ、産業界の新しいビジネスモデル創造、働き方の見直しのなど、急速でさまざまな変容に私たちは直面し、大なり小なり連続した判断・選択を迫られています。
 よって、先人が残された経験や生み出された知恵は人類の大きな財産であり、それらに学ぶことが肝要なのです。時代が変わったのにも関わらず、古くからのしきたりややり方にとらわれていると、衰退の一途をたどってしまいますし、一方で変えてはいけない部分を変えてしまうと、すぐさま形は崩れてしまいます。 
 例えば、利益優先の考え方などにより偽装表示や検査不正などをしてしまった組織などは、これまで守ってきた「不易」の部分を欠いてしまったために、信頼を失い、社会に対し大きな影響を与える結果となっているわけです。学校教育で言うなれば、建学の精神やそこから流れる教育方針が「不易」にあたります。その精神を基に、現代の子どもたちの変化を捉えながら、教育を変えていくことが「流行」、そして「両者の本は一つ」として捉えるとともに、「揺るぎない本質をいかに見極めることできるか」が、最も重要であるということになります。
 人間形成で申しますと、私たちにとっての「不易」は「仏の心」であると考えます。私たちや社会がどのように変化しようとも、「仏の心」はいつの時代も変わることがなく、阿弥陀様は微動だにしないのです。このことは私たちの心の拠り所として存在します。常に変化する時代において、お念仏の教えの本質を見失うことなく、日々仏法を聴聞し、感謝の心をもって生活を行うことが大切であると考えます。

2024 Summer KOKA World English Camp ~One Small World~ を開催します

2024.07.10

8月19日(月)、20日(火)、本学園において「2024 Summer KOKA World English Camp」を開催します。2024 Summer KOKA World English Campとは、園児から高校生までを対象に、英語だけの環境の中、2日間にわたりさまざまなアクティビティを通して、異文化交流を楽しむイベントです。
2024年4月に新しく完成した校舎で、アメリカ・中国・オーストラリア・フィリピン・トリニダードトバゴと5つの違った国からやってきたゲストティーチャーたちがそれぞれの国での遊びやゲーム・文化・生活などについて教えてくれます。

園児から高校生の方であればどなたでもご参加いただけます。
各回とも、本学こども教育学科の学生が皆さんをサポートしますので、英語が苦手という方でも安心してご応募ください。

【園児対象】 ※園児対象は申込終了しました。
日 時:8月20日(火)9:30~12:00
定 員:4名
参加費:2,500円

【小学生対象】
日 時:8月19日(月)13:00~16:00
    8月20日(火)9:30~16:00
定 員:20名
参加費:7,000円

【中学生・高校生対象】
日 時:8月19日(月)9:30~12:00
※ご希望の方は午後のプログラム(小学生向け)にも参加可
定 員:10名
参加費:3,000円

場  所:京都光華女子大学 光耀館(こうようかん)2F教室
申込方法:こちら から申込登録してください
問合せ先:kokaenglish@mail.koka.ac.jp
申込期限:7月31日(水) ※定員に達し次第受付終了

詳細については、こちら からご確認ください。

国宝(こくほう)とは何者(なにもの)ぞ。宝(たから)とは道心(どうしん)なり。          道心有る人を名づけて国宝と為す。  最澄『山家学生式(さんげがくしょうしき)』

2024.06.05

 天台宗を開かれた伝教大師最澄(767~822)は、延暦二四年(805)、中国の正当な天台の教えを相承し、その正式な僧となる戒(円頓菩薩戒)をうけて天台宗第八祖となり、多くの仏典を携え帰国されました。帰国後、日本での天台宗立宗をめざされ、翌延暦二五年、最澄の僧としての活動と桓武天皇の病気平癒祈願の功績として、天台法華宗としての年分度者(毎年国家から得度を許される者)二人を賜わり、南都(奈良)仏教諸宗に並んで、日本天台宗(天台法華宗)の立宗独立が公認されました。最澄はさらに、南都諸宗の経・論の理解を主とし、自己の解脱(迷いの苦しみから解き放たれること)を目的とした自利的・小乗的な宗教的活動ではなく、生きとし生けるものすべては仏に生まれることが出来、成仏しない者はないと説く天台宗の実践的な救済の仏教を実現(大乗菩薩道を行ずる僧の育成)するため、大きな制度改革ともなる比叡山への大乗円頓戒壇設立をめざされました。その活動の一つとして、年分度者の資格に叶う僧侶の養成機関をつくるべく、その制式を作成されました。それが、『山家学生式』(正式には『天台法華宗年分学生式』)です。そして弘仁九年(818)嵯峨天皇へ奏上されました。今月の言葉はその冒頭に認められています。
 国宝とは何か。宝とは道(仏道)を修めようとする心である。この道心を持っている人こそ社会にとってなくてはならない国の宝である。そして、古人の言として、「径寸十枚」(金銀財宝のこと)」があってもこれは国宝ではない。道心を持って「一隅を照らす」すなわち社会を照らす生活をする人こそ国宝である、と述べておられます。さらに、道心有る人のことを「西(印度)では菩薩と称す」といい、その行動は「悪い事は己が引き受け」「好い事は他に与へる」という「己を忘れて他を利する」という行いで「慈悲の極みなり」と評して、国宝=道心の有る人=慈悲の心ある人=一隅を照らす人の養成が目的であることを述べておられます。最澄の大乗菩薩道実現への思いが推察されます。
 光華女子学園の「光華」は、『仏説観無量寿経』にある阿弥陀仏の浄土を表した「其の光、花の如し」の言葉を拠りどころとして名づけられました。この学園で学ぶ一人ひとりが、慈しみの心をもち、華のような光り輝く女性になってほしいとの願いからです。(宗)     

慈悲

2024.05.23

 私たちが生活していく中で、慈悲という言葉はたびたび耳にすることがあります。本学でも校訓「真実心」は「慈悲の心」と言い換えられます。その慈悲について、『歎異抄』もとに考えていこうと思います。「慈悲」とは「慈」の心と、「悲」の心に分けられます。「慈」には、「苦しみを抜いてやりたい」という「抜苦」の意味があります。「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽」の意味があります。「慈悲」とは「抜苦与楽」を意味する言葉なのです。
そして『歎異抄』の第4章に以下のように書かれています。

 

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々 (『真宗聖典』六二八頁)

 

 ここでいう「聖道の慈悲」の聖道とは、自らの努力によって、煩悩を断ち、悟りを得ようとする仏道のことを表しています。これはいわゆる向上心を原動力として、理想を追求する仏道を表しています。そして、その精神によって他者を救おうとするのが「聖道の慈悲」になります。自力を尽くしていくのが「聖道の慈悲」なので、私たちが実践しないといけないと思っている慈悲に似ています。
 それに対して「浄土の慈悲」とは、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏申す身になることによって、苦しみから解放されるということです。阿弥陀仏の本願のすごさを知り、本願を信じて念仏を称えること身になることが必要なのです。
 このように、『歎異抄』の第4章では、慈悲について「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の違いを説明する中で、「浄土の慈悲」の大切さを教えています。私たちは、自分自身の力で浄土に生まれることを願っても、あらゆる煩悩によって妨げられます。そのような私たちが持つ慈悲の心は、相手を選らび、一時的で徹底しないものです。だから、阿弥陀の本願を信じるしかないのです。阿弥陀の本願は誰も、漏らすことなく救ってくださるのであり、どんなことにも妨げられることはないのです。阿弥陀の本願を信じ、念仏を称えることだけが慈悲の心だと親鸞は伝えています。(宗)

2024年度「学園花まつり」を開催し、終了後には学生考案の健康カレーが振舞われました

2024.05.08

4月19日(金)、本学園において幼稚園から大学、大学院までの全設置校の各校園が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。

 

この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、またお釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」について園児・児童・生徒・学生と教職員が自分に問いかける機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。

 

晴天に恵まれたこの日は、小学生マーチングバンドや中高バトントワリング部等によるパレードから始まり、小学生が引く白象の行進、中高吹奏楽部・軽音楽部・聖歌隊による讃歌を取り入れ、華々しい雰囲気で法要が行われました。

 

 

 

当日は、東本願寺の公式キャラクターである鸞恩(らんおん)くん、蓮(れん)ちゃん、あかほんくんが登場し、みんなでお釈迦様のお誕生をお祝いしましょう!と呼びかけました。また、学園花まつりの後、光華幼稚園に登場した鸞恩くん達に園児たちは大喜びの様子でした。

 

真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、「八功徳水(はっくどくすい)」という仏語についてわかりやすく説明してくださりました。水には心を清らかにする「甘」「冷」「軟」「軽」「清浄」「不臭」「飲時不損喉」「飲已不傷腸」の八つの役割があり、水を飲む時や手を洗う時、お風呂に入る時になど、この八つの役割を思い出し心を清らかに日々過ごしてほしいと語られました。

 

 

当日の様子は、保護者や一般の方へ向けてYouTubeにてライブ配信を行いました。また、各校園の玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生が自由に甘茶を灌仏できるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。

 

学園花まつり終了後、園児・児童には「子どもも大好き!あまくておいしいココナッツスパイスカレー」、生徒・学生・教職員には「アレルゲン対応トマトツナカレー」が振舞われました。本学園では、学園花まつり当日に、お釈迦さまのお生まれになったインドを代表する食事であり、また老若男女に好まれる日本の国民食である「カレー」を全ての校園の在籍者(学生~園児)、教職員へ提供しています。

 

 

このカレーは、”学園花まつり”をカレーを食べる日にし、楽しくお祝いをしようとの企画で、昨年、本大学 健康栄養学科で管理栄養士や栄養士を目指す学生に対して行われた、「老若男女の健康を考慮したカレー」をコンセプトとした「健康カレーレシピコンテスト」で子ども向けの部、一般向けの部でそれぞれ最優秀賞を受賞したカレーです。いずれもアレルギーにも対応したカレーとなっているため、アレルギー体質の方も安心して食べることが出来ます。

 

■「健康カレーレシピコンテスト」の詳細はこちら

 

同じ時間、同じ場所で皆が笑顔で同じカレーを食べ、光華女子学園の一人一人の心の繋がりを感じる一日となりました。

 

 

 

「学園花まつり」を開催します

2024.04.12

4月19日(金)、本学園にて「学園花まつり」を開催いたします。

学園花まつりは、仏教をお開きになったお釈迦様の誕生をお祝いする日で、「釈尊降誕会」といいます。お釈迦様の誕生は4月8日ですが、本学園では4月中旬に園児・児童・生徒・学生・教職員が一堂に会してお祝いします。

当日の様子はオンライン配信する予定です。ぜひご視聴ください。

 

学園花まつり

日 程:4月19日(金)

時 間:10:45~11:30

 

配信URL:https://www.youtube.com/live/nv9nBKi-S8s?si=ek50aZXMx-IsRv74

視聴方法:配信時間になりましたら、お手持ちのPC、タブレット、スマートフォンなどで上記の配信用URLへアクセスしてください。なお、無断での録画・転載は固くお断りいたします。

※本学宗教行事となりますので、一般の方につきましてはオンライン配信でご視聴ください。

光耀館

2024.04.02

 今月のことばは、2024年3月に竣工した「光耀館」の名称についてお話ししたく思います。
 光華女子学園は真宗大谷派の宗門関係校で、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えを大切にしている学園です。浄土真宗が拠り所とするお経は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3つですが、この度竣工した新棟に「無量寿経」にでてくる「光耀」という2文字を頂戴し、「光耀館」と名づけました。
 親鸞聖人は無量寿経を釈尊の「出世本懐の経」として大切にされましたが、このお経は上巻と下巻に分かれています。上巻には法蔵菩薩が48の願をたて、それが成就して阿弥陀仏(無量寿仏)となり浄土を創られたこと。そしてその浄土の姿が説かれていますが、この浄土の姿を説かれた箇所に「光耀」がでてきます。「光耀」の2文字がでてくる箇所を要約すると「浄土には光り輝く樹々がありその枝からは宝の瓔珞が垂れていて、さまざまな色に変わりながら光っている。また浄土の空にはさまざまな宝で飾られた網が覆いめぐらされていて、そこから宝の鈴が垂れている。これらの宝の飾りは、まばゆく光り輝いている」という内容ですが、この光輝くというのが「光耀」の2文字です。因みに、すでに別の建屋の名前として「清風館」という建物がありますが、この「清風」も「光耀」の続きに出てきます。この浄土(西方極楽浄土)の姿とは、阿弥陀仏の働きを表したものであり、阿弥陀仏の大悲を光として表しています。
 また親鸞聖人の著書である「浄土文類聚鈔」に、「それ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す」とあります。これは「そもそも何ものにも碍えぎられない阿弥陀仏の輝きは、世の人の苦しみを滅して、安楽のさとりをあたえる」という意味です。このように「光耀」とはまさに阿弥陀仏の大悲そのもののことと言えます。
 今回竣工したこの新棟には、新たに設置した作業療法専攻や本学が長きにわたり養成してきた管理栄養士や栄養士を育成し、定員規模が120名という本学最大の学科である健康栄養学科の施設を中心に、全学部学科の学生が利用できる一般教室やフィットネスを整備していますが、建物のコンセプトは「Well-Being Tree」です。本学はこれからの時代における建学の精神の具現化の方向を「人々の健康と温かく優しい未来社会の創造する健康未来創造キャンパス」と定め、それを本学が提案するWell-Beingの実現としてブランド構築を図ろうとしています。今回の作業療法専攻や歯科衛生学科の設置、また看護福祉リハビリテーション学部の開設などもそうした「健康未来創造キャンパス構想」の一環です。
 さきほども述べた通り、阿弥陀仏のはたらきである「光耀」とは、樹々も宝もそれぞれがそれぞれの輝きを発し、打ち消しあうことはなく輝いている様子のことです。まさにそれぞれが個々の個性を発揮しつつ、それが見事に調和しているWell-Beingな状態といえるのではないでしょうか。その「光耀」を冠するこの新棟で学ぶ学生さんが、真実心を校訓とする本学の教育を受け、自分も他者も輝く一人の人間であることに気づき、同朋として歩み、Well-Beingな未来を創造して欲しいと願っています。(宗)

「アサガオと 夜の冷たさ、闇の深さ」

2024.03.01

 受験シーズンが終わろうとしています。
 「孤独との戦い」
 これが、誰もが抱く受験勉強に対するイメージではないでしょうか。
 絶対合格できるという保証がない中、地道にコツコツと積み重ねる努力。
 報われないかも知れないという不安に苛まれながら一人で格闘する受験生の姿に、私たちは、ひたすら応援をするばかりです。

 

 さて、こんな言葉があります。
 「冷たい夜と闇の濃さのなかこそ朝顔は咲くのだ」
 かつてベストセラーとなった『大河の一滴』の一文です。
 浄土真宗に関する著作の多い五木寛之さんの言葉ですので、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 また、五木さんは、別の文章で、
 「24時間、光をあてっぱなしにしていただけではアサガオの蕾は、ついに開きませんでした。アサガオの蕾は朝の光によって開くのではないらしいのです。逆に、それに先立つ夜の時間の冷たさと、闇の深さが不可欠である」(『生きるヒント』) と記していらっしゃいます。

 

 冷たく深い闇に闘いながら、春を迎えた受験生の皆さん。
 第一志望校に合格した皆さん、本当におめでとうございます。
 一方、残念ながら、第一志望校には合格できなかった皆さん、「足は大地に、目は星に」。しっかりと前を向きましょう。
 たとえ第一志望校でなくとも、そこが、ご縁のあった場所です。美しい花園です。そのご縁のあった場所を大切にしてください。
 全ての受験生の皆さんが、やがて自己の人生を振り返られた時、愛する母校として胸が張れるように、充実した学生生活を四月から始められんことを、心より念じ申し上げ、最後に、次の句を贈ります。

 

 春風や闘志いだきて丘に立つ(高浜虚子)    (宗)

如来には、諸法に対する師の握り拳はない

2024.02.05

 釈尊が入滅された日を2月15日として、光華女子学園でも「涅槃会」と呼ばれる法要が執り行われます。2月の「今月のことば」は、釈尊がクシナガラで入滅されるまでの数ヶ月間の旅路を伝える『大般涅槃経』(『ブッダ最後の旅』岩波文庫、p.64)からです。齢80歳を迎えた釈尊は、阿難をともない、王舎城を立ち、最後の遊行に出かけられました。

 

 その道中、釈尊は、ベールヴァ村で阿難と二人、人生最後の雨安居に入ります。そこで今までにない激痛に襲われ、生死の境をさまよいます。しかし、今はまだ入滅の時ではないと考え、勇気によって病から回復されたと経典は伝えます。阿難は、小康を取り戻した釈尊の姿を見て、まだ教えを聞くことができると安心します。しかし、そのような阿難に対して釈尊は、私はすべての教えを説き終えたと語ります。「阿難よ、私は、内にも外にもなく法を説き示した。阿難よ、如来には、諸法に対する師の握り拳はない」と言われたのです。「師の握り拳」とは、古代インドにおいて師から弟子に伝えられる隠された奥義を指す言葉です。釈尊は、この教えは他者に説かないでおこう、この人には説かないでおこうというように、出し惜しみした教えなどないと、阿難に伝えたのでした。その後有名な「自らを灯明とし、自らを拠り所とし、他を拠り所とせず、法を灯明とし、法を拠り所とし、他を拠り所とせず住するがよい」という「自灯明法灯明」の教えが示されます。

 

 阿難は、長年釈尊のそばで仕えていましたが、釈尊の存命中には、さとりを開くことができなかったと伝えられています。『大般涅槃経』では、頼っていた師が病に倒れ、拠り所をなくし、人生の足場が崩れていく感覚になる阿難の姿が描かれ、迷いの中にいる私たちは、その姿に親近感を持ちます。しかし、釈尊は、頼るべきは、自己と私の説いた教説(法)であり、釈尊自身ではないのだと阿難を諭したのです。

 

 全てを包み隠さず伝えたという釈尊の教説に触れるとき、それをしっかりと受け取り、聞けているのだろうかと、私たち自身が問われていると言えます。年明けから悲しいニュースが続き、心の痛みを感じる日々ですが、自らのなすべきことから目を逸らさずに、これで良いのか悩みながら、歩んでいかねばと思います。

くらべず あせらず あきらめず  (竹中智秀)

2024.01.04

 新しい年をお迎えしました。「一年の計は元旦にあり」というように、これから過ごすであろう1年間の目標や計画は、新年のスタートとともに決める人も多いでしょう。家族が集まって一年の目標を言い合ったり、学校が始まれば、学習や生活の目標を書いて掲げたりすると思います。

 

 目標としては、仕事において望んだ地位に就きたい、今よりもっと綺麗になりたい、趣味や語学をもっと上達させたいなど、何かを目標にしてそれに向かうことはさらなる上を目指すという点で素晴らしいことです。ここで留意しなければならないことは、「あの人より偉くなって出世したいから」「あの人よりも輝いて綺麗でいたいから」のように、誰かとの比較が目標のベースになっているのなら、目標を達成するのは難しいかもしれません。

 

 親鸞聖人が大切にされた『仏説無量寿経』という経典の中に「無有代者」という言葉があります。「代わる者有る事無し」と読み、「私という存在は他に代わる者は無い」という意味です。誰にも変わることのできない唯一無二の存在が私であるということです。唯一無二の存在であるので他人と比較する必要がないのですが、「比べるな」と言われても、つい比べてしまうのが我達かもしれません。勝手に競争をしてイライラし、自分の思い通りにならなかった状況にイライラする。自分と他人を比べる必要なんてないのに、比べることで苦しみを抱えてしまうことがあるかもしれません。

 今月の言葉、「くらべず、あせらず、あきらめず」は、日常の生活で「くらべて、あせって、あきらめて」いる私の心を立ち止まらせる言葉です。

 

 「如来の摂取不捨(えらばず、きらわず、見すてず)の心を学び、真実、自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを、他人とくらべず、あせらず、あきらめず、していこう」

 

 「いのち」は、私が私としてのありのままを受けとめて、選ばず、嫌わず、見捨てないという願いを持っています。だから今、この一瞬一瞬自分にできることを精一杯し、自分らしく生きようという呼びかけの言葉ではないかと感じます。私たちは誰のためでもない、自分のために生きるのです。目の前の自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを素直にしていく姿勢を大切にしたいものです。(宗)