了義
2025.11.04
仏教とは文字通り「仏の教え」を意味しますが、その教え(教説)の数はどれくらいあるのでしょうか。その多さを形容する言葉として「八万四千の法蘊(はちまんしせんのほううん)」という言葉があり、その教説の内容や長短については形容通り多岐にわたります。また、日本仏教に限りませんが、仏教の宗派(教団)もそれに比例してか数多く存在します。しかしながら、多岐にわたるそれらの教説は、教説間で一見すると矛盾をもつものに見える場合があります。
その典型として挙げられるのが、「一切皆苦」の例です。ある経典(A)では「一切は皆苦である」と説かれる一方で、ある経典(B)では「苦あり、楽あり、中間あり」と説かれます。一見するとどちらかが矛盾しているように見え、仏説が意図するのはどちらなのかという疑問が起こります。
さらに面白い例があります。「諦」という言葉がありますが、現代訳では「真理・真実(Truth)」といったニュアンスで訳されます。有名なものとしては仏教用語の「四聖諦(ししょうたい、四種の聖者の真実)」が挙げられるでしょう。ですが、経典に目を向けてみると、「諦」の数という点では時として様々であり、一貫性がないように思えます。事実、『釈軌論』(しゃっきろん、世親著作)と呼ばれる論書にも諦の数について取り上げている例があります。(詳細については「佛教徒にとってsatyaはいくつあるか」という論文をご参照ください。以下の抜粋も上記論文を参照しました。)
ある経では「聖者の諦は四つである」と説かれ、ある経では「バラモンの諦は三つである」と説かれ、ある経では「諦は二つである。世俗諦と勝義諦とである」と説かれ、ある経では「諦はただ一つである。第二のものはない」と説かれ…(中略)…と説かれるが、こうした性格をもつものが「前後矛盾に対する論難」である。
このように相反する教説を仏教徒はどのように解釈してきたのでしょうか。一方の説だけを仏説として採用し、もう一方を切り捨てたのではありません。一切皆苦の例に戻りますが、AとBという教えがある場合、教説Aを文字通りに解釈し、もう一方Bを文字通りに受け取らず、裏の意味を持つと解釈するという方法を採ってきたのです。この場合、Aの教説を「了義(りょうぎ)」、Bの教説を「未了義」と言います。決して身勝手に解釈していたのではありません。逆もまた然りです。
このような教説の解釈が教相判釈の祖型とも考えられますが、今日、各宗派が数多く存在するのも上述の解釈の歴史があってこそではないでしょうか。(本記事については、「経の文言と宗義―部派佛教から『選択集』へ」という論文を参照いたしました。)
令和7年度 理事長賞表彰を行いました
2025.10.22
10月21日(火)、令和7年度 理事長賞表彰式を行いました。
理事長賞は、本学園の在学生で、学業・文化・スポーツ等において特に優秀な成績を修められた方や、ボランティア活動等で地域に貢献された方を表彰する制度です。
本年度も幼稚園から大学まで多数の推薦が寄せられ、厳正なる選考を行った結果、個人で11名、団体で4団体が選出されました。
阿部理事長から一人一人に賞状と記念品を手渡し、表彰されました。
理事長からは、受賞者の皆さんの活躍が様々なWell-Beingにつながっているという「お祝いの言葉」がありました。
また、受賞者の「お礼の言葉」では、周囲への感謝の気持ちなどが話されました。
受賞者の皆さんのますますのご活躍を期待いたします。




蓮華蔵世界
2025.10.01
ハス(蓮)の学名は「Nelumbo nucifera」(ネルンボ・ヌキフェラ)。ハス科ハス属のインド原産とされる多年性の水生植物です。古来、仏教では睡蓮とともに「蓮華(レンゲ)」と呼ばれ、泥に生え、泥に染まらず、泥の中から美しい花を咲かせることから、清らかな心を象徴するものとして尊ばれてきました。
真宗門徒が親しむ「正信偈」(親鸞聖人が『教行信証』に記された歌)にも「蓮華蔵世界」(『華厳経』)という言葉が見られ、極楽浄土に象徴される調和に満ちた世界を表しています。仏の仰る私たち凡夫も、日常生活の嘘や怒り、嫉み、妬み、欲望、執着という煩悩の濁水の中で、自覚をもち、蓮華のように清々しく生きたいものです。
京都光華高校は、2026年度、通信制課程を新設します。蓮華に因み、校名(愛称)を「RENハイスクール」と名付けました。極楽浄土に咲く蓮華の「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(『仏説阿弥陀経』)のごとく、一人ひとりの個性を尊び、大切にし、清らかに光り輝く学校を目指します。ご縁のあった生徒の人生が、在校中も卒業後もWell-Beingなものとなるように、「蓮華蔵世界」の学校創り、共創社会・同朋社会の実現に向けて精進します。
「光華キッズなフェスタ」を開催します
2025.09.24
この度、11月1日(土)に“こどもと「絆」を深める日”をテーマとした地域連携イベント
「光華キッズなフェスタ」を開催します。
当日は、本学園の幼稚園~大学の学びを活かした遊びやブースの他、
子どもたちの健やかな発達に繋がるよう陸上体験やフットボール教室等も実施し、
”ワクワク感みなぎる”一日となるよう準備を進めております。
イベントの詳細はこちらをご覧ください。
小さなお子様(幼児~小学生)が楽しめるイベントとなっておりますので、
ご家族やお知り合いの方をお誘いあわせのうえ、ぜひご来場ください。
私には自分より愛しい者が他に誰もいない
2025.09.05
9月の「今月のことば」は、『相応部経典』に収められている「マッリカー経」からの引用です(中村元『神々との対話I』pp.169-170, 片山一良『相応部』第1巻, pp.313-314)。古代インドに存在したコーサラ国には、パセーナディ王という王がいました。王妃の名はマッリカーといい、夫婦そろって釈尊に帰依し、仏教教団を保護したと伝えられています。
ある日、パセーナディ王とマッリカー妃は高楼に登って語り合っていました。そのとき、王は妃に「そなたには、自分よりもさらに愛しい者が他に誰かいるかね」と尋ねました。王は、妃から「王様、私にとって何よりも愛しいのはあなたです」という答えを引き出し、互いの愛情を確かめ合いたかったのでしょう。古代インドの注釈者も、そのように解釈しています。しかしマッリカー妃は、自分の心に正直に「私には、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もおりません」と答えました。そして妃が「王様はいかがですか」と問い返すと、王もまた「私にも、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もいない」と率直に答えたといいます。
仏教では、人は誰しも強い自己への執着を抱いていると説かれます。「私が」「私の」と、自分を中心に物事を考えてしまうのです。私たちは自分に執着し、自分の欲望や感情に振り回されながら生きています。「子どものためなら命を捧げられる」と思ったとしても、我が子だからこそそう思えるのかもしれません。そう考えると、マッリカー妃の言葉は、誰もが認めざるを得ない事実を示していると言えるでしょう。人間にとって、自己ほど愛しいものはないのです。
釈尊は、この二人のやり取りを踏まえて、次のように説かれました。「あらゆる方向に、心で探し求めても、自分よりもさらに愛しい者を得ることはない。このように、他の人々にとってもそれぞれの自己は愛おしいものである。それゆえに、自己を愛する者は、他者を害してはならない」。つまり、自分が自分を大切に思うように、他者もまた自分を大切に思っている。そのことに気づき、相手を傷つけずに生きなさいと説かれたのです。
ここで示されているのは、他者への想像力です。自分さえ良ければいいという自己中心的な心に気づき、他者の立場から物事を見ること。これは社会の中で他者と共に生きる私たちに欠かせない姿勢でもあります。人は皆、自分を愛しく思うものですが、その自分本位の見方を少し離れ、他者に寄り添う心を育んでいきたいものです。
2025 Summer KOKA World English Campを開催しました
2025.08.22
Well-Beingな社会の共創を目指す本学園では、「仏教とは本来、グローバルな視点を持つものであり、さまざまなルーツを持つ方々とコミュニケーションをとることで、自己理解が深まり、多様性と向き合う一歩が始まる」との考えのもと、グローバル教育に力を入れています。
その一環として、8月4日(月)・5日(火)に「2025 Summer KOKA World English Camp~One Small World~」を開催しました。今年で3回目の開催となる本イベントでは、園児から高校生までの総勢60名を超える参加があり、2日間にわたりAll Englishの環境の中でさまざまなアクティビティや異文化交流を行いました。
今回は、6人のゲストティーチャー(アメリカ・中国・オーストラリア・フィリピン・トリニダードトバゴ・スコットランド)に、それぞれの国の文化に触れることができるアクティビティを実施していただきました。
参加者たちは10名程度のグループに分かれてアクティビティに取り組み、体を動かしながら英語を使ったり、ゲームやお絵描きを通して異文化に触れたり、世界のお菓子を味わったりと、楽しみながら積極的に参加していました。


また、本学 こども教育学科の学生もサポーターとして参加し、各グループのリーダーとして活動をサポートしながら、参加者と一緒に楽しい時間を過ごしました。

2日間にわたるプログラムの最後には、小学生はチームごとに英語で劇などの出し物を披露し、中高生はゲストティーチャーの出身国についてスライドを使って英語でプレゼンテーションを行いました。終了時には一人ひとりに修了証が手渡され、「See you next year!」の挨拶とともに、笑顔で2日間のプログラムを締めくくりました。

夏季休業日のお知らせ
2025.08.08
本学園では、8月9日(土)~8月17日(日)の期間、夏季休業日といたします。
同期間中は各部署における窓口対応や電話応答ができませんのでご了承いただきますようお願いいたします。
また、郵送物やメールでのお問い合わせ等につきましても、8月18日(月)以降のご対応となります。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。
「濁世の目足」(『浄土文類聚鈔』)
2025.08.05
「濁る」で思いつくのが、日本語の濁音(だくおん)である。「かき(柿)」と「かぎ(鍵)」や「ふた(蓋)」と「ぶた(豚)」ように濁点「〝」の有無によって全く別の言葉になってしまう学びは、小学校を入学したての「ひらがな学習」の一環として1年生は、国語の教科書に学んでいく。
たまたま道を歩いていると、お寺の掲示板が目に止まった。「口が濁ると愚痴となる」と・・・。「誰の言葉だろう」と気になり、検索してみると、この言葉には続きがあった。
口が濁ると愚痴となり/意志が濁ると意地となり/才が濁ると罪となり/徳が濁れば毒となり/
戒が濁れば害となり/本能が濁れば煩悩となり/報恩が濁れば忘恩となる。あな恐ろしや人の濁りは!
結局、誰の言葉かは分からなかったが、小学1年生で習う濁点「〝」の有無によって全く別の言葉になる学びは、幼少の時を超え「ドキッ」と我が身の胸に突き刺さった。
今月の言葉「濁世の目足」は親鸞聖人の言葉である。親鸞聖人は濁世の中で、生きられた方である。
地震や大火などがあいつぎ、さらに飢饉や疫病などのために、死者が都にあふれ、その死臭が人々の不安をいっそうふかいものにしていた。誰も彼も、悲しみや苦しみに耐えながら、その日一日を生きぬくことに精一杯であった。『宗祖親鸞聖人』(東本願寺)
現代社会における濁世とは何か。様々な社会問題が複雑に絡み合い、人々の生活が困難になっている状況を指す言葉として使われることが多い。例えば、貧困、少子高齢化、環境問題、格差、紛争など、多岐に渡って挙げられる。濁るということは、大事なものが見えにくくなるということである。水槽の水が濁れば、中の魚も見えない。あらゆる情報の中で、世間の価値に一喜一憂しながら、煩悩を抱える私は、世の中の濁りは中々見えないし、濁っていることにも気がつかないのである。
「濁世の目足」とは、先の見えない不安な世の中を歩んでいくための、目となり、足となるということ。濁世の中におって、本当に正しいものを見る目をいただく、そして厳しい現実を歩む足をいただく。親鸞聖人は、その目と足を、お念仏の世界だと教えてくれる。どんな時代や境遇においても、世間の価値に振り回されて生きる私を受け入れながら、仏の教えに聞き、目と足をいただいていきたいものである。
第5回 英語教育フォーラム ~つなぐ・つなげる・つながる 明日の英語教育~を開催します
2025.08.02
9月7日(日)、本学園において「第5回 英語教育フォーラム」を開催します。
本フォーラムでは、各分野の第一線でご活躍中の登壇者をお迎えし、それぞれの登壇者が今一番大切にしたいと考える英語教育の視点についてご講演いただくとともに、本学園の一貫英語教育の実践も報告させていただきます。
「明日の英語教育を考える 〜つなぐ・つなげる・つながる〜」をテーマに、多様な観点から英語教育の現在と未来について考える機会にしたいと考えております。校種、ご専門を問わず、学校現場の先生方、将来教員を目指す学生、子どもをもつ保護者の方、広く英語教育に関心のある方など、ぜひご参加ください。
日 時:2025年9月7日(日)13:00~17:10
会 場:光華女子学園 光風館(五条通り南側小中高敷地内)
実施方法:対面およびオンライン(YouTube限定公開)
※限定URLは9月4日(木)にご登録のメールアドレスへお送りします。
講 師:早川 優子 氏(文部科学省 初等中等教育局 外国語教育推進室)
泉 惠美子 氏(関西学院大学 教育学部副学部長・教育学研究科 教授)
バトラー 後藤 裕子 氏(ペンシルバニア大学 教育学大学院 言語教育学部 教授)
コーディネーター:田縁 眞弓 氏(京都光華女子大学 こども教育学部 教授)
申込方法:こちらからお申込みください。
詳細については、こちらからご覧ください。
<お申し込みに関するお問合せ>
学校法人光華女子学園 学園運営部
E-mail:kokaenglish@mail.koka.ac.jp
TEL :075-325-5216(平日9:00~17:00)
「こうじゃないといけない」が人を傷つける
2025.07.31
情報化社会の中で様々な意見を受け取り、また発信しやすくなった世の中で、その反面、自分の意見と異なるものや新しいものを受け入れられず、人々がぶつかり傷つけ合うような場面を見聞きします。SNS上での炎上や誹謗中傷などはその主な例であると言えます。
「こうあるべきだ」「これだけは譲れない」など、それぞれの「良い」とか「真っ当」言わば「正しさ」がぶつかり合っています。世界各地で絶えない紛争や政治的対立も根底にあるこの心理が大いに影響しているのではないでしょうか。
「正しさとはなにか?」に答えを求めようとする行為そのものが、非常に危険なのではないかと感じます。私たちは自分の「普通」「当たり前」にこだわり、それ以外のものを認めることが苦手です。仏教では、「こうでなければならない」という思い込みや期待のことを「執着」と呼び、苦しみの原因とされています。永続しないもの(無常)に価値や意味を固定しようし、執着が生まれ、そのことが期待や不安、失望を誘発し、心が乱されます。
私たちはつい、自分の価値観こそが正しいと思い込みがちですが、仏教は「諸行無常」、すべてのものは移り変わると説きます。固定観念に執着せず、他者の考えや立場を受け入れる柔軟さを持つことが、争いや傷つけ合いを減らす第一歩になるのではないでしょうか。「正しさ」を競い合うのではなく、違いの中に学びを見出す心のあり方が、現代社会においてますます求められます。「こうじゃないといけない」を一度脇に置いて、違いをそのままに認め合う姿勢こそ、心の平穏と調和ある社会への鍵であると、仏教の教えは私たちに示してくれています。



