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慚なくして慧なし

2023.11.08

 耕作するバラモンとブッダとの対話を記録した経典があります(『ブッダのことば』岩波文庫,pp. 23-27)。自ら田を耕すバラモンはブッダに対して,あなたも耕作をしてそこで得たものを食すべきだと言います。ブッダは,自分も耕作者であると答え,次の詩頌を説きます。

信仰が種子。苦行が雨。知恵(慧)が私の軛(くびき)と鋤(すき)。慚(恥を知ること)が轅(ながえ)。意が結び綱。念が私の鋤先と突き棒だ。・・・精進は私の軛をつけた役牛であり,安穏の境地へと運び,引き返すことなく行く。行って憂い悲しまないところに。

 

 ここでブッダは信仰を種子に例えます。種子が芽を出し実をつけるには,土を耕しその土を潤す雨が必要なように,たゆまず心を耕し続けることがなければ,信じる気持ちも実を結ぶことがないことが示されています。

 詩頌では「恥じを知ること(慚)」が轅に例えられます。轅とは,牛を使って耕作する際に牛の首にあてる横木(軛,慧に例えられる)につなぐ棒で,これによって牛をコントロールし鋤をひかすことができます。そのことから注釈書は「慚なくして慧なし」と説明します。

 「慚愧に堪えない」などと定着していますが,慚と愧はそれぞれ,自身と教えに照らして自らの過失を恥じ入り,善なるものを尊重すること(慚),他者に照らして自らの過失を恥じ入り,悪行をさけること(愧)を意味します。では,恥じ入ることと心を耕すことはどのように関わるのでしょうか。

 

 聞(学び,知識)を誇り,どちらがより多く,より人を惹きつける法話ができるかを競う二人の出家者をブッダが諫める経典が残されています(片山訳『パーリ仏典 相応部』4巻,pp. 246-249)。二人は,これまで熱心に教えを聞き,多くの知識を身につけてきたのでしょう。そのための努力が彼らに慢心を起こさせ,「安穏の境地」という目的ではなく,知識の量を誇り他者からの称賛を求める気持ちにさせてしまいました。

 この経典から,心を耕すには,信や努力だけでは十分でないことがわかります。『スッタニパータ』の例えでいうならば,収穫を得るために土を耕そうと種子や牛を用意しても,轅がなく牛が気ままに動くならば,せっかく植えた種子も潰され,土も荒れるということでしょうか。心を耕していくには,目的を確かめ続けること,そしてその目的から今の自分のあり方を振り返ることが必要です。自分を振り返った時に,目的に照らし未だ不十分な自分に気づき,その目的を示してくれるものを尊重する気持ちが生じる。そのような気持ちが「慚,恥を知る」と言われています。

 

 11月は浄土真宗では報恩講の季節です。光華女子学園では,11月7日に学園報恩講を務めますが,11月21〜28日の東本願寺報恩講でも境内に出展をする予定です。お近くにおいでの際にはぜひ光華のテントにおいでください。教えに照らされて聞法する機会を共にすることができましたら幸いです。(宗)

令和5年度 学園長賞表彰式を行いました

2023.11.07

10月31日(火)、令和5年度 学園長賞表彰式を行いました。

学園長賞は、本学園の在学生で、学業・文化・スポーツ等において特に優秀な成績を修められた方や、ボランティア活動等で地域に貢献などをされた方を表彰する制度です。

今回は、個人で4名、団体で5団体、特別表彰で1団体が表彰され、学園長から表彰状と記念品が贈られました。
学園長からは受賞者一人一人にあたたかい言葉が贈られ、また、受賞者からは今後に向けた力強い宣誓がありました。入賞者の皆さんのますますのご活躍を期待いたします。

 

 

学園報恩講・追悼法要をとり行います

2023.11.07

保護者のみなさま

 

2023年度 慶讃記念 学園報恩講・追悼法要をとり行います。
今年度の学園報恩講は、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の記念の法要となります。特別企画も用意しておりますので、Live配信にてご覧ください。Live配信は終了しました。ご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

●報恩講は、宗祖親鸞聖人のご命日をご縁に、聖人のご恩を報謝し、み教えを改めて聞思する集いで、本学の建学の精神を具現化する宗教行事の中でも最も大切な行事です。
また、追悼法要は、前年の報恩講以降にお亡くなりになられた本学園の卒業生や教職員等、有縁の方々を偲ぶ集いです。

 

●YouTube配信は、「慶讃記念 報恩講法要」のみです。なお、配信時間は、午後1時50分頃からの予定ですが、その前の「追悼法要」終了時間によって多少時間が前後することがございます。

一心

2023.10.11

 2023年9月23日から10月8日の期間、第19回アジア競技大会が中国・杭州で行われました。各競技の選手による熱戦が繰り広げられ各国の応援にも熱が入り、感動とパワーをいただきました。さて、選手たちはよく「強い心で挑みます」とか、「最後はここの勝負です」と胸を差して心意気を現したりしますが、勝利の大きな要因の一つに、技術や体力もさることながら、最終は挫けない心を持つことが大切であることは、競技に取り組んだ方には体験的によく理解できることだと思います。心というのは、競技の世界でもそうですが、全てのことの原動力となるわけです。
 一方でその心は、私たちの体にいつも強く存在しているわけではありません。誰もが日常の生活や仕事において、事がうまく進まない、他人と比べて劣っている、思いが伝わらず相手との関係がうまくいかないなどが原因で、心が折れたり、自信を無くしたりし、その弱さが自分そのものと一体化してしまい、どうしようも抜け出すことができなくなったりします。これは決して特別なことではなく、日常的に繰り返し起こっていることですが、これらのことをどのように捉えたら良いのでしょうか。
 浄土真宗の経典「仏説阿弥陀経」※に「一心」という言葉が出てきます。一般的に「心を一つにする」「一つのことに集中する」などを意味しますが、仏教とりわけ浄土真宗では「自分の分別の心(自力)を捨てて、阿弥陀如来(他力)にこの身全てをお任せする(真実の信心)」という意味を持ちます。
 ここで、その教えの中にある「分別の心を捨てる」にフォーカスしてみます。分別とは一般的に「道理をわきまえていること」「物事の善悪・損得などをよく考えること」と良い意味で使われますが、仏教的には「比べる心」を意味し、その存在によって競争や格差を生み出し、迷いや苦悩をもたらすとしています。
 即ち、私たち人間のその小賢しい分別心は、国籍・民族・文化・能力等の違いを盾にして、自分と自分の世界を絶対化し、差別や対立を生み出すものであり、他人や自分をも傷つけることになるような、そんな心は捨てなさいと説かれているのです。
 日常的に心に降りかかる辛さやストレスの根源は、私たちの中にある「分別心」なのです。所詮人間の力はたかが知れています。たとえ人より能力が高くてもいつも上手くいくわけはなく、競争に勝ち続けることはいずれできなくなるのです。だからこそ、比較優位や競争上位のみを求めることよりも、そのような価値基準から離脱することが肝要です。もちろん精一杯ベストを尽くすことは大切で、それを否定するものではありませんが、私たち人間には限界があり、周りの人々の協力が必要なのです。
 できないことを思い詰めるより、比べることを止めそのあるがままを受け入れ、そしていっそのこと、ほかの力に頼る方が良い、そうすることにより、この身が幾分か軽くなるのではないでしょうか。
 まとめますと、「分別」とは比較する心、私の中に存在する自己中心的な固執を生み出すもので決して良くはないもの、「一心」とは、阿弥陀様に全てをお任せする信心(真実信心)であると言えます。
 変化が多く慌ただしい日常ではありますが一度立ち止まって、これらの言葉の本意について、考えていただけましたら幸いに思います。

※「仏説阿弥陀経」は、浄土真宗の根本経典「浄土三部教」の一つ。お釈迦様が一番弟子で智慧第一と言われている舎利弗(しゃりほつ)に対し、一方的に極楽浄土のありさまと極楽浄土へ往く方法を説かれているもの。その経典の中で「一心不乱に仏を念ずれば、臨終の際には必ず阿弥陀様がお迎えに来てくださる」と説かれています。(宗)

譬(たと)えば、高原の陸地には蓮華(れんげ)を生ぜず。 卑湿(ひしつ)の汚泥(おでい)にすなわち此の華を生ずるが如し。(『維摩経』「仏道品」)

2023.09.06

 この言葉は、あらゆるものが平等であって差別のないという「空」思想に基づいて、在家者を重視し「利他」の立場で仏道修行する大乗菩薩道を説いた『維摩経』にあります。インドでは蓮華は最も美しく、浄土を荘厳する清々しい花、仏の道を歩む菩薩を象徴する花とみなされ尊ばれてきました。その蓮華は誰もが理想とし、望むような高原の陸地には生ぜず、だれもが避けたくなるようなじめじめした汚泥の中にこそ生ずるのだと言っているのです。「高原の陸地」とは、私は煩悩や苦悩を自らの力でという「自利」に生きる人々をさし、「卑湿の汚泥」は、それとは逆に、煩悩や苦しみが尽きず矛盾に満ち満ちた中で生活する凡夫の我々をさしています。

 

 親鸞聖人もその著『教行信証』に引用して「これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開道せられて(菩薩によって往生の道が開き示され)よく仏の正覚(悟り)の花を生ずるにたとふ。」言葉とされています。また、親鸞聖人は阿弥陀仏の極楽浄土のことを「蓮華蔵世界」(『正信偈』)とも表され、この世界に至れば、真実に目覚めることができ、煩悩泥の中にあって苦しむこともなくなり、「真如法性を証する(真実そのものに目覚めること。即ち、仏になる)」(同偈)と説いておられます。

 

 光華「其の光、花の如し」本学の校名です。校名の如く光り輝く華のように生きる人間になってほしいとの願いから名付られました。校訓の「真実心」は御仏の心のことを言い、「慈悲の心」と言い換えることが出来ます。「思いやりの心」「寄り添う心」「他者への配慮」「共に支え合う心」と言うこともできるのではないでしょうか゛蓮華の花に象徴される人のような生き方です。

 

 昭和二六年、千葉県の検見川の縄文遺跡から出土したハスの実は、翌年、植物学者で「ハス(蓮)」の権威であった大賀一郎博士によって発芽育成に成功し、「大賀ハス」(「古代ハス」「縄文ハス」とも)と名付けられて全世界に広がりました。大賀博士がその後提唱された「ハスは平和の象徴なり」の言葉を、今まさにかみしめなければならないのではないでしょうか。因みに、本大学の池にも育成されています。(宗)

防災訓練を実施しました

2023.08.29

8月28日(月)、教職員を対象に防災訓練を実施しました。

 

防災訓練は毎年実施しており、大きな地震や火事が発生した際、キャンパスにいる学生生徒等を安全に避難誘導し、被害を最小限に抑えることを目的としています。

 

当日は、震度7の地震および火災が発生したことを想定した避難訓練を行い、その後は右京消防署職員の方による消火訓練、救護活動訓練、防災・消防設備の専門業者による避難器具体験を行いました。

 

教職員一人一人が防災訓練を通して学んだことを日頃から意識し、有事の際に適切な判断・行動ができるようにしてまいります。

 

 

 

 

 

 

 

2023.08.28

 今回書かせていただくのは、生老病死である四苦の1つである「生」についてです。

 

 親鸞聖人は、四苦について『教行信証』の中に「豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。」と『安楽集』より引用している。どれだけの権力や財力を持ったとしても、その立場や生き方に関わらず、私たちの誰もが決して避けることのできないものであることということです。

 

 この生老病死の中で、老と病と死に対する苦のイメージは掴みやすいと思いますが、生に対しての苦のイメージは、なかなか考えることがないかもしれないですね。生まれた時から苦しみが始まっていると考える時は、なにかのきっかけが必要なのだと思います。

 生まれることが苦しみでるということだが、生まれてから楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、それらが存在しないと言っているわけではありません。

ただ、それらの楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことはいつまでも続くわけではなく、さらにそれらポジティブな感情が大きければ大きいほどネガティブな感情、つまり苦しみを生み出すのです。

 

 そんな生老病死という避けられない苦しみを乗り越えるために、仏教は教えを説いています。

そんな四苦から改めて仏教に触れてみてはいかがでしょうか。(宗)

「学園報 vol.59」の誤りに係るお詫びと訂正について

2023.07.27

平素は本学運営に多大なるご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、今般、作成・発行いたしました学校法人光華女子学園「学園報 vol.59」において、保護者会役員の方のお名前の字に誤りがありました。
関係各位に多大なご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げますとともに、今後はこのような誤りがないよう十分に注意してまいります。

 

●p12 あけぼの会 役員名簿

【誤】
副会長 長川 律子 様
会 計 湊 智巳  様

 

【正】
副会長 中川 律子 様
会 計 湊 知巳  様

 

改めてお詫び申し上げますとともに、今後とも本学運営にご理解・ご協力賜りますようよろしくお願いし申し上げます。

和順館

2023.07.14

 今月はことばではなく、小学校と中学校の校舎として2022年3月に竣工した「和順館」の名称についてお話をしたいと思います。

 

 無量寿経の三毒五悪段の後半部分に「天下和順し日月清明(にちがつしょうみょう)にして、風雨時をもってし災厲(さいれい)起こらず。国豊かに民安し。兵戈(ひょうが)用いることなし。徳を崇め(あがめ)仁(にん)を興し、務礼譲(まつりごとらいじょう)を修す。」という一説があります。この五悪段は初期の経典にはなく、後に中国で加筆されたのではないかと言われておりますが、和訳は、仏が遊行するところは「天下はおだやかに治まり、日月の光はさやけく、風雨はほどよいときに訪れ、天災や疫病も起こらず、国は豊かに民は安らけく、兵器を用いることもなく、徳を尊び仁を盛んにし、礼儀に厚く人に護るという心をつとめて養うようになった」(中公文庫(山口益訳))ということです。

 

 天下和順は多くの人々の願いであり、実際にそうなれば素晴らしいことだと思います。しかし、私たちの願いである天下和順を、私たちが自らの力で実現することができるのでしょうか。誰しもが和順を願う一方、無明の闇(むみょうのあん)に包まれる私たちは自らの「我」の中にある和順に捉われ、その和順に反することを他者の責任、社会の責任、時代の責任とし、時に排除しようとし、時に妬み嫉み、時にあきらめるなどしてしまいます。

 

 現代に至るまで世界中でさまざまな紛争が起き、その都度それを教訓にいかに防ぐかという人間の知恵が積み上げられてきました。その結果、グローバル化が著しく進み、大きく進歩したかに見えるこの21世紀において、まさか今回のロシアによるウクライナ侵攻が現実に起こるなど多くの方が思わなかったのではないでしょうか。縁が満ちれば私たちの誰しもがロシアになってしまうという現実を、改めて気づかされた次第です。自分のことしか見えていない私たち。我に捉われ、縁が満ちれば善にも悪にもなってしまう存在の私たち。願っても願っても、自らの知恵では和順足りえない私たち。こうした無明の闇のなかにいる私たちの姿に気づくことができれば、一歩を踏み出す前に踏みとどまり、さまざまな争いを回避し、和への一歩へと歩みを変えることができるかもしれません。

 

 蓮如上人御一代記聞書に「信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐべきなり。・・・また信なければ、我になりて詞もあらく、諍ひもかならず出でくるものなり・・・」という言葉があります。信を得る、すなわち凡夫であることの自覚が和への第一歩です。そしてこの信は、仏の本願の光を受け、仏のはたらきに頷くことによってはじめて得ることができるのです。

 

 2022年3月、小学校と中学校の児童、生徒が学ぶ新校舎が竣工しました。隣にあるのは仏さまの本願の働きを意味する「光」を冠する光風館という建物です。先ほども触れたとおり、今この瞬間にもロシアによるウクライナ侵攻という世界を震撼させる事態が続いています。この新校舎で学ぶ未来ある子どもたちが、仏さまの光に触れることで無明の闇を破り、自らを見つめ、一人ひとりが本当に大切なことに気づかれることを願っております。子どもたちが同朋としての歩みを踏みだし和らぎのある生活を過ごされることを、そして子どもたちが創る世界が「和」のある世界となることを念じ、校舎名を「和順館」といたしました。(宗)

紫陽花や きのふの誠 けふの嘘           正岡 子規

2023.06.01

「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」

 

正岡子規の俳句です。
紫陽花には、同じ株の花が、薄紅色から上品な青や紫に変化していくものがあります。

 

その変化ゆえか、紫陽花の花ことばは「無常」です。

 

昨日はまこと(真実)だと思っていたことが、今日はうそ(偽り)になってしまう。
人の心の移ろいやすさやはかなさを、子規は紫陽花に託したものだと思われます。

 

確かに、私たちは日々の暮らしの中で、昨日まで信じていたものに、今日突然裏切られたり、昨日まで大丈夫だと思っていたことが、今日は呆気なく崩れ落ちたりするような経験をすることがあります。

 

私たちは、生老病死の営みをとおして、生まれては消え、来ては去って行くことやものに狼狽し、苦悩する存在です。他との関係や比較という相対に左右される存在なのです。

 

この世はまさしく「きのふの誠 けふの嘘」、
「諸行無常」そのものです。

 

しかし、近代真宗教学の先駆者、清沢満之師は、生きることにおいて、「絶対他力の大道」という思想を貫かれました。絶対的に揺らぐことのない阿弥陀如来の本願力の道を迷わず歩むことの尊さや大切さを説かれました。
そこには自由と安らぎの境地が開かれます。
その境地に生かされ、希望と感謝をもって、人生を確かに歩んでいくのだぞと、師から呼びかけられているように思われます。(宗)