「第二の誕生」
2018.05.07
昔、ある青年がいた。小さいときに父親を病気で亡くしてから、母親が反物の行商をして彼を育ててきた。
大学4年生になったとき、彼はとても有名な会社の就職試験を受験して、難関を突破し一次試験に合格した。そして二次試験の面接で、彼は社長さんからこんなことを言われた。
「君はお父さんを早く亡くして、母一人子一人だね」
「はい、そうです」
「それじゃね、今日帰ったら、お母さんの体をどこでもいいから洗ってあげなさい。明日続きをしよう」
青年はぶつぶつ文句を言いながら家に帰った。だが、落ち着いて考えてみると、やはりどうしてもあの会社には入りたい。 そうや、おふくろは毎日、反物の行商をして歩いているんやから、足が汚れているだろう。足なら簡単に洗えばすむ。
「お母さん、お帰りなさい。実は今日会社の面接に行ったら、変な社長がお母さんの身体を洗わんと面接のつづきをせんと言うんや。だから済まんけどお母さん、洗わせてくれ」
「そう、それじゃ、しょうがないわね」
青年は母親の足を洗おうと思って、何気なく母親の足をにぎった。しかし、それから彼は化石したように動けなくなった。
彼がにぎった母親の足は、真っ黒に汚れた、石のように硬いごつごつした足だった。その母親の足を握ったとき、その青年の胸に何とも言いようのない熱いものがこみあげてきた。
父親が亡くなってから、どんな思いで、彼のことを育ててきたのか、今まで愚痴一つ言わなかった母の、真っ黒な、石のような足が、すべてを物語っていた・・ついに青年は耐えきれなくなって、お母さんの足を握ったまま、男泣きに泣きつくした。
青年は翌日、会社に行って社長にこう言った。
「社長さん、私は今までだれ一人からも、親の恩ということを教わりませんでした。社長さんにはじめて親の恩ということをわからせていただきました。そして私は今まで、自分の力だけで生きていると思っていましたが、母や、私の周りの大きな力に支えられ、生かされているのだということがよくわかりました。
私はこの会社に採用されてもされなくても結構です。でも生涯、母親を大事にしていきたいです。そして、自分も人のために生きられるような人間になりたいと思います」
人間には一生の間、二回の誕生がある。一回目はお母さんのお腹から生まれる、生き物としての誕生。
そしてもう一回は、親の恩を通じて、さらに大きないのちに目覚めていくとこと、それこそが「第二の誕生」である。
(竹下哲『いのちに目覚める』東本願寺伝道ブックス22より)
「学園花まつり」を開催しました
2018.04.20
4月19日(木)、本学園において幼稚園から大学・大学院までの全設置校の在籍者が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。
この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、お釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」を園児~学生はもとより教職員を含めて、今一度自分自身を見つめなおす機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。
本学園では、小学生マーチングバンド、中高吹奏楽部、大短吹奏楽部、中高バトントワラー部による演奏パレードや、小学生が引く白像の行進、中高軽音楽部や中学校3年生による讃歌を取り入れた音楽法要的な内容で行ないました。また、真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、どんな状況にあっても周囲の方や自身の尊い命を大切にしてほしい、とお話いただきました。
当日は、中学・高校正面玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生や来校された方々に自由に甘茶を灌仏していただけるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。
【各校園「学園花まつり」の様子はこちら】
●大学/短期大学部
●小学校
「天上天下唯我独尊」
2018.04.12
釈尊が誕生した直後に発した言葉として伝えられている、誕生偈の一節です。この言葉は、つまり「この世に自分より尊い者はいない」を意味します。強烈な言葉であるがゆえに、後半の「唯我独尊」は、転じて「ひとりよがり」や「うぬぼれ」を意味する言葉として一般に用いられています。もちろん、そのような用法は適切ではありません。そこで「本来の意味」が問題になるのですが、「本来の意味」として「すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている」などと解説する仏教書もみられます。今回は、この言葉を少し考察します。
はじめにこの言葉が出てくる文脈を、パーリ語で残される「希有未曾有経」(『中部』第123経)から紹介すると、「私は世間で最上の者である。世間で最勝の者である世間で最高の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」となっています。最後の一節から、この言葉は明らかに、誕生したばかりの釈尊が、後に悟りを開き(つまり、輪廻から解脱し)仏陀となると宣言したものであり、したがって、仏陀となる自分を尊いと言っています。
仏陀の生涯を語る仏伝は、最初からまとまった形で作成されたものではなく、初期経典で断片的に語られる種々のエピソードから抽出され整理されて成立しました。それらの諸経典や仏伝を分析した研究では、誕生直後に釈尊を占ったアシタ仙人の称賛の言葉(「スッタ・ニパータ」:『ブッダのことば』, pp. 149-152)や、悟った直後に釈尊が初転法輪へと向かう途上で出会ったウパカへの返答(『律蔵』「大品」:『仏教かく始まりき』, pp. 57-67)がソースとなり、仏伝において誕生時の釈尊自身の言葉とされたと推測されています。したがってそこには、仏伝作者たち、そして当時の仏教徒たちの釈尊の教えに出会った喜びと、釈尊への崇敬の念が刻まれているといえます。
確かに釈尊の悟りとその後に説かれた教えは、人が自分の尺度で他者や物事を計り、自分の存在を確かめようとすることが苦しみの原因となることを明らかにしています。したがって、誰と比べることもなく、ありのままの自分に充足する、つまり「自分と自分以外の者のいのちはそれぞれに尊い」ということが、釈尊の誕生偈でも意味されるのだと解釈することはできるかもしれません。しかし、誕生偈の文脈からは明らかにずれますし、「釈尊がそのような傲慢なことを言うはずがない」と、仏伝作者たちが釈尊誕生時の産声に重ねた思いを「傲慢」と取ること自体が、「自分の尺度」なのかもしれません。
わかりやすさが求められる昨今ではありますが、仏典に対しても、日常においても、「自分の尺度」を押し付けず文脈を丁寧に辿る粘りも大切なのではないでしょうか。
「天上天下唯我独尊」
2018.03.05
釈尊が誕生した直後に発した言葉として伝えられている、誕生偈の一節です。この言葉は、つまり「この世に自分より尊い者はいない」を意味します。強烈な言葉であるがゆえに、後半の「唯我独尊」は、転じて「ひとりよがり」や「うぬぼれ」を意味する言葉として一般に用いられています。もちろん、そのような用法は適切ではありません。そこで「本来の意味」が問題になるのですが、「本来の意味」として「すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている」などと解説する仏教書もみられます。今回は、この言葉を少し考察します。
はじめにこの言葉が出てくる文脈を、パーリ語で残される「希有未曾有経」(『中部』第123経)から紹介すると、「私は世間で最上の者である。世間で最勝の者である世間で最高の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」となっています。最後の一節から、この言葉は明らかに、誕生したばかりの釈尊が、後に悟りを開き(つまり、輪廻から解脱し)仏陀となると宣言したものであり、したがって、仏陀となる自分を尊いと言っています。
仏陀の生涯を語る仏伝は、最初からまとまった形で作成されたものではなく、初期経典で断片的に語られる種々のエピソードから抽出され整理されて成立しました。それらの諸経典や仏伝を分析した研究では、誕生直後に釈尊を占ったアシタ仙人の称賛の言葉(「スッタ・ニパータ」:『ブッダのことば』, pp. 149-152)や、悟った直後に釈尊が初転法輪へと向かう途上で出会ったウパカへの返答(『律蔵』「大品」:『仏教かく始まりき』, pp. 57-67)がソースとなり、仏伝において誕生時の釈尊自身の言葉とされたと推測されています。したがってそこには、仏伝作者たち、そして当時の仏教徒たちの釈尊の教えに出会った喜びと、釈尊への崇敬の念が刻まれているといえます。
確かに釈尊の悟りとその後に説かれた教えは、人が自分の尺度で他者や物事を計り、自分の存在を確かめようとすることが苦しみの原因となることを明らかにしています。したがって、誰と比べることもなく、ありのままの自分に充足する、つまり「自分と自分以外の者のいのちはそれぞれに尊い」ということが、釈尊の誕生偈でも意味されるのだと解釈することはできるかもしれません。しかし、誕生偈の文脈からは明らかにずれますし、「釈尊がそのような傲慢なことを言うはずがない」と、仏伝作者たちが釈尊誕生時の産声に重ねた思いを「傲慢」と取ること自体が、「自分の尺度」なのかもしれません。
わかりやすさが求められる昨今ではありますが、仏典に対しても、日常においても、「自分の尺度」を押し付けず文脈を丁寧に辿る粘りも大切なのではないでしょうか。
「 遠く宿縁を慶べ 」『 教行信証 』「総序」
2018.02.03
標記の言葉は、宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」にある言葉です。阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申すことになったのは、親鸞聖人ご自身の力によるものではなく、遥か遠い過去からの因縁があってのめぐり遇いであり、真実の教えに出遇うべく願われ続けてきたという大きな因縁を知り、その因縁の不思議さと感動とともに深い慶びのこころを表白された言葉であると言えます。親鸞聖人はかかる因縁を「宿縁」といただかれました。今こうして真実の教えに出遇うことができたこの時点より以前のすべての仏縁を宿縁と受け止められました。
真実の教えをいただくということは、どれだけ時間を費やして努力しても極めて難しいことです。それがやっと今、ここに出遇うことができたことは思いがけず偶然としか言いようがない出来事であり、人生を根底から変える決定的な出遇いを果たし遂げることができたこの宿縁には深く慶ばれる他なかったのだと思います。この言葉の次には、「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」と記されています。
親鸞聖人にとっての決定的な出遇いとは、二十九歳の時のよきひと(師)である法然上人と
の出遇い(=真実の教えとの出遇い)であり、それまでに教えを求めて迷い重ねてきた苦しくて困難であった道程のすべてがこの出遇いに導く尊いご縁であったと受け止められました。この出遇いを通して自らの本当の姿が顕かになり、煩悩具足の凡夫である自分のために常に照らし続け、呼び続けてくださる大きな願いがかけられていることに気付かれました。
私達は、現在の生活を当たり前のこととして感動もなく過ごしているのではないでしょうか。また、支え続けられているご縁の大きなはたらきがあることを忘れ果てているのではないでしょうか。今、あらためて当たり前のことを尊いこととして受け止め直すこと、そして、幾多のかけがえのない出遇いの一つ一つが人生にとってどのような大きな意味を持つのかを自分自身に問い直す必要があると思います。
釈尊からの仏縁のつながりと私の思いを超えて無限の過去からの数限りないご縁のはたらきがあったことを思う時、「遠く宿縁を慶べ」という親鸞聖人のお言葉が迷い続けている私のこころに強く響いてきます。
ただ今、数限りないご縁、無量無数の出遇いによって起こった事象が、自分自身にとって都合の良い縁であっても都合の悪い縁であったとしてもそのありのままをご縁として受け入れて、向き合い、そのすべてが今の自分を成り立たせている宿縁であったと慶ぶことができたならば、仏教の根源的な課題である「生死出ずべき道」が必ず私達の前にきりひらかれてくるのではないでしょうか。(宗教部)
「念仏もうさるべし」『蓮如上人御一代記聞書』
2018.01.12
あけましておめでとうございます。
今月のことば「念仏もうさるべし」。このことばは、蓮如上人が京都の勧修寺村の道徳という人に語ったとされることばの一節です。1493年の元旦、蓮如上人の元を訪れた道徳は、蓮如上人に「あけましておめでとうございます。」と新年の挨拶をしました。すると蓮如上人は、「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。」と言葉をかけたと伝えられています。これはおそらく新年の修正会のお参りに道徳が来た時の出来事。普段より親交があった二人、蓮如上人が道徳の年齢を知らなかったはずはありません。「念仏もうす」とは仏の教えに触れること。このことばの意味は、単に年齢を問うものではなく、儀礼的に挨拶をした道徳に、日常に追われていないか?常に仏の教えに向き合って我が身を振り返っているか?と改めて問うものだったのだと思います。
私達は、忙しさに追われ、生きる意味や何を拠り所としてどのように生きていくのか等と我が身を振り返る時間を持つことを忘れがちです。蓮如上人は元旦の今、気持ち新たに自分の生き方を見直しなさいと伝えているのだと思います。
当時、道徳は74歳、蓮如上人は79歳。時は無限にある訳ではありません。明日が今日と同じように続くと思いがちな日常、そんな気持ちで日々を送るのは時が空しく過ぎるだけ。一日一日を大切に、生きる目的や拠り所を改めて見つめ直しましょうという晩年の蓮如上人からのメッセージなのではないのでしょうか。(宗教部)
二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。(『涅槃経』親鸞聖人『教行信証』信巻所引)
2017.12.04
この言葉は、お釈迦さまの入滅前後の事跡や説法等が記された経典『涅槃経』に説かれた言葉で、「二つの尊い教えがあり、よく人々を救います。その教えの一つは慙、もう一つは愧です。」の意味です。親鸞聖人もその主著『教行信証』の「信巻」の中に引用されています。
同経典によれば、父王を殺して王となった王舎城の阿闍世が、自ら犯した罪の重さに恐れおののき、心身ともに病にかかります。父王を殺した事実はどのような理屈で補っても、また重臣たちのどのような慰めをうけても阿闍世の心は癒えず、犯した罪を悔いる念(おも)いが消えることがありませんでした。
そうした中、釈尊を敬い、教えをよく聞いた名医耆婆(ぎば)が阿闍世王に「王さま、自ら犯したことに自らを追いつめ苦しむのは、王さまに慙愧の心がある証拠です。その心がある限りあなたは人間として救われていくのです。」と説きました。「慙」も「愧」も「羞恥」「はじる」という意味です。
さらに同経典には、「慙」は自ら内に向って、また仏法に照らして自らをはじること、「愧」は他者に対して、また世間の法に照らして自らをはじることだと述べ、「無慙愧は名づけて人とせず。」と記しています。慙愧の心は人間として備えなければならない最も大切な心であると説いているのです。
人は日常の中で、信頼を裏切ったり、誤って傷つけたり種々過ちを犯します。さらには、そのことに気づかないのみか慢心さえ起こしてしまうことがあります。わたしたちは、そのような自らの現実をどのように受け止めているのかが問題ではないでしょうか。常に自らの行った事柄への振り返りが必要であり、その根底には「慙愧」の心のあることが大切であるのではないでしょうか。(宗)
(註)白法とは、仏の正しい教え、清浄な教え、尊い教え。
よく聞く
2017.11.13
今月の言葉は、「よく聞く」という言葉です。
私自身、子供の頃から先生や両親から人の話はよく聞きなさいと言われてきました。
当たり前のことですが、それをできないのが人間です。
自分にとって大事な話だと思うと相手の目を見て、体を傾け、相槌をうって、メモをとり、さらに自分にとって都合の良いように解釈したりします。
逆に興味のない話だと態度では聞いているふりしても全く記憶に残らなかったり、左から右へ受け流してしまいます。
つまり、自分にとって「必要」「大切」と感じたことはよく聞き、自分にとって「不要」「不都合」な話は聞きたくないと思うのが私達人間ではないでしょうか。
先日ある方が、「人間、歳を重ねると自分のことばかり話し、人の話を聞かなくなる。その話を聞いていると段々自慢話になっていく。つまらない話だ。」と仰られていました。恐らく無意識のうちに聞くより話すことが優先するのでしょう。
人間は口が一つなのに、耳は二つありますが、それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだそうです。
では、なぜ「聞く」ことが大切なのでしょうか。人の話を聞くのは、結構なエネルギーと集中力が必要です。真剣にこの人と関わりたい、この人が何を感じ、何を考えているのか、心で受け止めたい、聴きたいと感じていないと、「聞く」ということはとても難しいことです。しかし、人の話をよく聞いた分、その人との人間関係や信頼関係が生まれてくるのだと思います。
浄土真宗は、「聞の宗教」と言い表すことがあります。「聞法」「聞思」などと使われていますが、親鸞聖人の「聞」についての解釈は、浄土真宗の要を示されたものとしてよく知られています。「聞く」は、音や声を耳に受けること、話などを情報として受け入れることですが、「聴く」とも表記されることがあります。この言葉の使い分けは、音や言葉をただ単に「きく」場合は「聞」を使い、注意深く内容を理解しようと思って進んで「きく」時には「聴」を使うようです。
このことは、『蓮如上人御一代記聞書』の中に「ただ仏法は聴聞に極まることなり」、つまり「ただ仏法は聴聞に尽きるのである」と示されています。
仏法とまでは言いませんが、やはり人間は人の話を聞くことは大切です。ただ「聞く」のではなく、心から「聴く」姿勢が大切だということです。
皆様におかれましては、今一度「きく」姿勢について見つめ直していただければと思います。(宗)




