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「念仏もうさるべし」『蓮如上人御一代記聞書』

2018.01.12

あけましておめでとうございます。

今月のことば「念仏もうさるべし」。このことばは、蓮如上人が京都の勧修寺村の道徳という人に語ったとされることばの一節です。1493年の元旦、蓮如上人の元を訪れた道徳は、蓮如上人に「あけましておめでとうございます。」と新年の挨拶をしました。すると蓮如上人は、「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。」と言葉をかけたと伝えられています。これはおそらく新年の修正会のお参りに道徳が来た時の出来事。普段より親交があった二人、蓮如上人が道徳の年齢を知らなかったはずはありません。「念仏もうす」とは仏の教えに触れること。このことばの意味は、単に年齢を問うものではなく、儀礼的に挨拶をした道徳に、日常に追われていないか?常に仏の教えに向き合って我が身を振り返っているか?と改めて問うものだったのだと思います。

私達は、忙しさに追われ、生きる意味や何を拠り所としてどのように生きていくのか等と我が身を振り返る時間を持つことを忘れがちです。蓮如上人は元旦の今、気持ち新たに自分の生き方を見直しなさいと伝えているのだと思います。

当時、道徳は74歳、蓮如上人は79歳。時は無限にある訳ではありません。明日が今日と同じように続くと思いがちな日常、そんな気持ちで日々を送るのは時が空しく過ぎるだけ。一日一日を大切に、生きる目的や拠り所を改めて見つめ直しましょうという晩年の蓮如上人からのメッセージなのではないのでしょうか。(宗教部)

二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。(『涅槃経』親鸞聖人『教行信証』信巻所引)

2017.12.04

この言葉は、お釈迦さまの入滅前後の事跡や説法等が記された経典『涅槃経』に説かれた言葉で、「二つの尊い教えがあり、よく人々を救います。その教えの一つは慙、もう一つは愧です。」の意味です。親鸞聖人もその主著『教行信証』の「信巻」の中に引用されています。

 

同経典によれば、父王を殺して王となった王舎城の阿闍世が、自ら犯した罪の重さに恐れおののき、心身ともに病にかかります。父王を殺した事実はどのような理屈で補っても、また重臣たちのどのような慰めをうけても阿闍世の心は癒えず、犯した罪を悔いる念(おも)いが消えることがありませんでした。

そうした中、釈尊を敬い、教えをよく聞いた名医耆婆(ぎば)が阿闍世王に「王さま、自ら犯したことに自らを追いつめ苦しむのは、王さまに慙愧の心がある証拠です。その心がある限りあなたは人間として救われていくのです。」と説きました。「慙」も「愧」も「羞恥」「はじる」という意味です。

 

さらに同経典には、「慙」は自ら内に向って、また仏法に照らして自らをはじること、「愧」は他者に対して、また世間の法に照らして自らをはじることだと述べ、「無慙愧は名づけて人とせず。」と記しています。慙愧の心は人間として備えなければならない最も大切な心であると説いているのです。

 

人は日常の中で、信頼を裏切ったり、誤って傷つけたり種々過ちを犯します。さらには、そのことに気づかないのみか慢心さえ起こしてしまうことがあります。わたしたちは、そのような自らの現実をどのように受け止めているのかが問題ではないでしょうか。常に自らの行った事柄への振り返りが必要であり、その根底には「慙愧」の心のあることが大切であるのではないでしょうか。(宗)

 

(註)白法とは、仏の正しい教え、清浄な教え、尊い教え。

よく聞く

2017.11.13

今月の言葉は、「よく聞く」という言葉です。

私自身、子供の頃から先生や両親から人の話はよく聞きなさいと言われてきました。

当たり前のことですが、それをできないのが人間です。

自分にとって大事な話だと思うと相手の目を見て、体を傾け、相槌をうって、メモをとり、さらに自分にとって都合の良いように解釈したりします。

逆に興味のない話だと態度では聞いているふりしても全く記憶に残らなかったり、左から右へ受け流してしまいます。

つまり、自分にとって「必要」「大切」と感じたことはよく聞き、自分にとって「不要」「不都合」な話は聞きたくないと思うのが私達人間ではないでしょうか。

先日ある方が、「人間、歳を重ねると自分のことばかり話し、人の話を聞かなくなる。その話を聞いていると段々自慢話になっていく。つまらない話だ。」と仰られていました。恐らく無意識のうちに聞くより話すことが優先するのでしょう。

人間は口が一つなのに、耳は二つありますが、それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだそうです。

では、なぜ「聞く」ことが大切なのでしょうか。人の話を聞くのは、結構なエネルギーと集中力が必要です。真剣にこの人と関わりたい、この人が何を感じ、何を考えているのか、心で受け止めたい、聴きたいと感じていないと、「聞く」ということはとても難しいことです。しかし、人の話をよく聞いた分、その人との人間関係や信頼関係が生まれてくるのだと思います。

浄土真宗は、「聞の宗教」と言い表すことがあります。「聞法」「聞思」などと使われていますが、親鸞聖人の「聞」についての解釈は、浄土真宗の要を示されたものとしてよく知られています。「聞く」は、音や声を耳に受けること、話などを情報として受け入れることですが、「聴く」とも表記されることがあります。この言葉の使い分けは、音や言葉をただ単に「きく」場合は「聞」を使い、注意深く内容を理解しようと思って進んで「きく」時には「聴」を使うようです。

このことは、『蓮如上人御一代記聞書』の中に「ただ仏法は聴聞に極まることなり」、つまり「ただ仏法は聴聞に尽きるのである」と示されています。

仏法とまでは言いませんが、やはり人間は人の話を聞くことは大切です。ただ「聞く」のではなく、心から「聴く」姿勢が大切だということです。

皆様におかれましては、今一度「きく」姿勢について見つめ直していただければと思います。(宗)

継続的な募金活動、今年度も。―対人地雷撤去・震災被害支援のために―

2014.10.15

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2014.08.01