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STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING

2026.10.05

 2026年4月、光華学園は創立86周年を迎えるにあたり、建学の精神を現代社会において実装することをめざした新たな目標として「STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING」を掲げ、新たな一歩を踏み出しました。
 今月のことばは、本学園が掲げる「STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING」に込められた願いについてお話ししようと思います。

 永遠でも絶対でもないものにすがり、足ることを知らず、常に他人と比較して不安を抱え、苦しむ存在――。
 これこそが煩悩から逃れることのできない人間の本質であり、「私」自身の姿(凡夫)であったのだとの気づき。
 そして、その気づきによって、私たち人間の本質的な願いとは、お金や地位、成功や賞賛、「好かれたい」といった表面的な欲望そのものではなく、それらの欲望を生み出す「不安から解放され、自分の存在を受け入れてもらいたい」、「安心して健やかに暮らしたい」という願いであり、それが「私」自身の願いでもあったのだと理解するに至る(安心(あんじん)、WELL-BEING)。
 こうした気づきを促すのが、校訓に「真実心」を掲げ、仏教、特に親鸞聖人が明らかにされた真宗の教えを基盤とする光華教育の根幹です。
 「STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING」とは、社会のさまざまな方々とともに、人間の本質的な願いであるWELL-BEINGな社会を目指し、共に歩み続ける(共創する)学園でありたい、という宣言です。

 このように本学園は、仏教精神を体現した人材が人々と共創することによって、不安を和らげ、将来に期待を持てる温かみのある社会を創る、すなわち「Well-Beingな社会を共創する」という願い(STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING)を掲げ、実社会においてその具体化に取り組みます。応援いただければ幸いです。

急がば回れ

2026.09.24

 「急がば回れ」という言葉があります。早く目的地にたどり着きたいときほど、近道や安易な抜け道を探すのではなく、一見時間がかかるように見える王道を歩むほうが、確実で早いという意味です。

 私たちは大きな目標を前にすると、つい要領のよさを求めたり、すぐに成果が出る方法を欲しがったりしてしまいます。しかし、人生において本当に価値のある力は、一歩一歩の地道な継続によってしか培われません。この「一見遠回りに見える地道な歩みこそが力になる」ことを教えてくれる、ある学者のエピソードがあります。

 かつて北京大学で教鞭をとった世界的な碩学、季羨林(き・せんりん)先生です。(中国人ではじめて日本学士院の客員会員になった方です。)先生は当時、政治的・社会的な動乱のなかで、ドイツ留学の経験ゆえに苛烈な迫害を受けました。研究の場を奪われた先生は、明日をも知れぬ不安に包まれながらも、古代インドの長大な叙事詩『ラーマーヤナ』の翻訳に密かに着手しました。世界三大叙事詩にイーリアス、オデュッセイア、マハーバーラタというのがありますが、ラーマーヤナはマハーバーラタと並び、しばしばインド二大叙事詩と形容されます。

 許されたわずかな時間で、一日数行ずつ。気が遠くなるような歩みでしたが、先生は決してやめませんでした。およそ十年後、その積み重ねは全7巻に及ぶ中国語訳の翻訳として実を結びました。奇策に頼らず、「今日できること」を続けたからこその成果であるといえるでしょう。

 今、看護師や管理栄養士をはじめ、国家試験の合格に向けて懸命に机に向かっている学生の皆さんもいることでしょう。覚えるべき膨大な知識を前に、「本当に間に合うのだろうか」と焦りを感じる日もあるかもしれません。

 しかし、命や健康を支える専門職に求められるのは、小手先のテクニックではなく、揺るぎない確かな知識です。今日解いた一問、今日覚えた一つの単語。その小さな歩みは、決して遠回りではありません。

 急がば回れ――目の前の「今日の一歩」を信じて積み重ねていくことこそが、合格、そしてその先の未来へ続く一番の近道です。

凡夫であることを忘れないということは念仏の智慧なのです

2026.08.24

 凡夫とは、ボンブと読みます。
 仏教で言う凡夫とは、貪(むさぼり・執着)、瞋(怒り・嫉妬)、痴(愚痴・無知)という自分の力では制御しきれない煩悩に惑わされ続ける迷い多き私たちのことです。あるがままの私たちは弱く愚かな存在です。
 にもかかわらず、日々の私たちは、「自分が正しい」と思い込み、その正義がぶつかり合い、争いの根にすらなっています。
 このような善人たる私たちが、自らを見つめ、省み、悪人ともいうべき本当の自分の姿に気づかせてくださるのが、お念仏の世界です。
 あるがままの私を、それでよいのだよと受け入れ、そのまま救ってくださる阿弥陀如来の慈悲を顧みて、ただただお念仏申すことこそ真宗の智慧なのです。

 私のものさしで問うのでなく、私のものさしを問うことの大切さを、「南無阿弥陀仏」のお念仏が気づかせ、教えてくださいます。

 おのおのが凡夫であることを自覚しつつ、自らの未来を追求し、共に豊かな人生・社会を創造していきましょう。
 「STAY BONBU, CO-CREATE WELL-BEING」

2026 Summer KOKA World English Campを開催しました

2026.08.19

Well-Beingな社会の共創を目指す本学園では、「仏教とは本来、グローバルな視点を持つものであり、グローバル化が進む日本において、さまざまなルーツを持つ方々とともにWELL-BEINGな社会創りを目指す第一歩はコミュニケーションとの考えのもと、日常的な英会話力の獲得に力を入れています。

 

その一環として、8月3日(月)・4日(火)に「2026 Summer KOKA World English Camp~One Small World~」を開催しました。今年で4回目の開催となる本イベントでは、園児から高校生までの総勢45名を超える参加があり、2日間にわたりAll Englishの環境の中でさまざまなアクティビティや異文化交流を行いました。

 

今回は、6人のゲストティーチャー(アメリカ・中国・オーストラリア・フィリピン・トリニダードトバゴ)に、それぞれの国の文化に触れることができるアクティビティを実施していただきました。

 

参加者たちは10名程度のグループに分かれてアクティビティに取り組み、体を動かしながら英語を使ったり、ゲームやお絵描きを通して異文化に触れたり、世界のお菓子を味わったりと、楽しみながら積極的に参加していました。

 

 

また、本学 こども教育学科の学生もサポーターとして参加し、各グループのリーダーとして活動をサポートしながら、参加者と一緒に楽しい時間を過ごしました。

 

 

2日間にわたるプログラムの最後には、小学生はチームごとに英語で劇などの出し物を披露し、中高生はゲストティーチャーの出身国についてスライドを使って英語でプレゼンテーションを行いました。終了時には一人ひとりに修了証が手渡され、笑顔で2日間のプログラムを締めくくりました。

 

2026 Summer KOKA World English Camp ~One Small World~ を開催します

2026.07.07

8月3日(月)・4日(火)に、本学園において「2026 Summer KOKA World English Camp~One Small World~」を開催します。2026 Summer KOKA World English Campとは、園児から高校生までを対象に、英語だけの環境の中、2日間にわたり異文化交流を楽しむイベントです。
当日は、世界5か国(アメリカ・中国・オーストラリア・フィリピン・トリニダードトバゴ)から集まったゲストティーチャーのもと、それぞれの国での遊びやゲーム・文化・生活などについて教えてくれます。
英語に不安をお持ちの方でも、本学の大学生がファシリテーターとしてサポートしますので安心してご参加ください。
夏休みは、光華学園でミニ英語キャンプを楽しみましょう!

 

◆開催日時
【園児対象】 ※年長のみ対象
日 時:8/3(月)10:00~12:00
    8/4(火)10:00~12:00
定 員:30名
参加費:5,000円

【小学生対象】
日 時:8/3(月)13:00~16:00
    8/4(火)13:00~16:00
定 員:42名
参加費:7,000円

【中学生・高校生対象】
日 時:8/3(月)10:00~12:00
    8/4(火)10:00~12:00
定 員:12名
参加費:5,500円

 

◆開催場所
京都光華大学 光耀館(こうようかん)2F教室

 

◆申込方法
こちらから申込登録してください
※お申込みいただいた後、振込先をメールでご連絡いたします

 

◆申込期間
7月2日(木)~7月24日(金) 7月27日(月)
※申込を7月27日(月)まで延長いたします。
※定員に達し次第受付終了
 

◆問合せ先
kokaenglish@mail.koka.ac.jp

 

詳細については、こちらからご確認ください。

すべての衆生を仏の知へ向かうように励ます

2026.07.02

 この一節は、「迦葉品」(Kāśyapaparivarta)で示される菩薩の四つの道の一つです。他にも、すべての衆生に対して「平等の心があること」「平等に教えを説くこと」「正しい行いを実践すること」が示されています。このように「迦葉品」では、菩薩とはどのような存在であるかが説かれています(長尾雅人『大乗経典9 宝積部経典』2003、p.23)。

 大乗経典では、菩薩という理想像が描かれるようになりました。菩薩とは、「菩提を求める衆生」という意味を持ち、菩提とは、仏陀の悟りを指します。菩薩は自らの悟りを求めるだけでなく、すべての衆生とともにその菩提を目指す存在として描かれています。

 菩薩の歩みは、仏との出遇いから始まります。大乗経典では、その仏との出遇いが重要なテーマとなっています。そして、菩薩自身が仏と出遇い、仏道を歩み始めたように、衆生にも仏と出遇い、その教えを身に受け、自らの歩みに生かしてほしいと願い、はたらきかけます。そのため菩薩は、衆生と仏との出遇いの機縁をつくる存在として描かれています。

 冒頭の「迦葉品」の一節も、衆生が仏と出遇い、仏の教えに触れる道を歩むことができるように、人々を導く菩薩の姿を説いたものです。菩薩は、生きとし生けるものの能力や境遇をはかることなく、仏の教えを伝え、一人でも多くの衆生が仏と出遇えるようにはたらきかけを続けます。

 このような菩薩像を、単なる教義上の理想だと捉えてしまうこともできますが、私たちの人生経験の中にも、その姿を思わせる人との出遇いがあります。迷ったときに進むべき道を示し、真実を伝え、自分の生き方を見つめ直すきっかけを与えてくれる人との出遇いです。私にとって、そのような存在の一人が恩師です。最終講義の際、「教員は菩薩行をしなければならないのだ」と語られた言葉が、今も心に残っています。大乗仏教の菩薩の姿に触れるたびに、その言葉の意味を改めて考えさせられます。私自身は、そのような菩薩の姿には程遠いと感じていますし、なれるはずもないのですが、それでも、誰かが仏と出遇えるように、仏の教えを伝えていくことの意味を改めて考えさせられるのです。

今 今 今(木村無相)

2026.06.30

 

先月の初め、闘病の末、父が亡くなった。お盆やお正月にさえもろくに会ったことのない息子3人が亡くなる前日に集まり、入院中の父と面会した。自らの病状を知り、死を悟っていたであろう父。息苦しそうに細く弱々しい声で口にしたのは、「お前ら兄弟3人で力を合わせて、生きろよ。」と。結局これが父と交わした最期の言葉になった。

父は40余年に渡り公立中学校に奉職した。休みの日には家庭にはおらず、クラブ活動に熱心に指導し、幼少の頃に私自身もそのクラブ活動に随分ついて行かされた。学校一筋だった為、テーマパークに連れて行ってもらったことは無し、旅行に行ったことは無し。それ故に自分の家庭と友達の家庭を比較し、愚痴や不満をぶつけたこともあった。

しかし、兄弟3人とも父が中学校で指導していたクラブ活動に没頭し、現在は、3人とも父と同じ奉職についている。知らず知らずのうちに父の「今を生きていた」瞬間瞬間に憧れをもち、自ずから同じ人生を歩んでいることに身の不思議を感じる。数年前、名古屋の東別院で聴聞したご法話の言葉を思い出す。

 

先往くものは我が前を往き 我が道を照らし 私を照らす光となる。

 

今月の言葉は、木村無相さんの「今 今 今」には続きがある。それは、「たった今死んでも生きがいはあったのか」という言葉が続く。私の受け取りではあるがこの言葉は「あなたは今日という日を満足し、満足したと言える生き方をしているのか」と日常の歩みが問われているような気がする。私達は、誰もが人生は一度しかないことを知っていながらも、日頃の目の前の事に一生懸命で、気がつけば月日が経ってしまっていることはないだろうか。もしそうだとしたら人生を空しく過ぎる人になっているのかもしれない。

 

「今 今 今 たった今死んでも 生きがいはあったのか」

 

日頃の雑多な出来事に囲まれ、世間の価値に振り回され、ふと違和感を感じた瞬間も今まで無視してきた何とも言えないこの感覚。「生きがいはあったのか」は「本当に大事なものに出遇ったのか」と問われているのかもしれない。

今思えば父の最期の言葉「生きろよ」は、「今 今 今」を「しっかり生きろ」と叱咤激励の言葉だと確信している。そして生涯、私を立ち止まらせる言葉して私の中で響いていく。

生きているんだ

2026.05.18

 今月のことばは、先日私がみたとある映画で目に飛び込んできた一言「生きているんだ」です。とてもシンプルでわかりやすい言葉ではありますが、何を以って「生きている」とするのか、また「生きる意味とは?」など様々考えさせられる一言でした。

 忙しい毎日の中で、私たちは「生きる」ということを、つい当たり前のように受け止めてしまいます。朝起きて、通勤・通学、仕事や勉強、人間関係に追われながら、一日を終えていく。気づけば、「今日も無事に過ごせた」という実感よりも、「やらなければならないこと」に心を奪われていることがあります。

 しかし、少し立ち止まってみると、私たちは今、確かに「生きているんだ」という事実に支えられていることに気づかされます。

 浄土真宗では、人は決して一人だけの力で生きているのではなく、多くのご縁によって生かされている存在であると教えられます。食べ物や自然、家族や友人、名前も知らない誰かの「はたらき」によって、私たちの暮らしは成り立っています。そして何より、阿弥陀さまのはたらきに包まれながら、私たちは今、この命を生きています。このように考えられれば「生きている」ということ自体が、かけがえのない出来事なのだと感じることができます。

 私たちは時に、「もっと頑張らなければ」「もっと立派にならなければ」と、自分を追い込みます。失敗を責め、人と比べ、「今の自分では足りない」と感じることもあります。しかし、浄土真宗の教えは、そんな私たちに「そのままのあなたでよい」と呼びかけています。うまくいく日も、そうでない日もある。迷い、悩み、不安を抱えながらでも、それでもなお、私たちは生きているのです。

 「あるがまま」とは、何もしなくてよいという意味ではありません。弱さや不完全さを抱えた自分自身を否定せず、まずは「今、ここに生きている」という事実を受けとめることではないでしょうか。苦しいことや悲しいことも生きてこそ見える景色であり、誰かの優しさに触れることも、新しい出会いに心を動かされることも、生きているからこそできることです。

 日々の慌ただしさの中で、自分が「生きている」ということを見失いそうになる時、一度深く息をして、「ああ、自分は今、生きているんだ」と静かに確かめてみたいと思います。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光『仏説阿弥陀経』

2026.04.02

 1940年の創設以来,女子教育ひとすじに歩んできた光華は,2026年4月より共学化します。西京極の地で86年の歴史を刻んできた光華にとって,大きな節目となるこの春。「今月のことば」に光華の礎をなす『阿弥陀経』の一節を選びました。

青の蓮は青の光を放つ。

 この一節は,極楽浄土の池に咲く蓮の描写です。青・黄・赤・白,それぞれの色の蓮が,おのおのの色の光を放つ情景が描かれています。
 極楽浄土は苦しみのない安らぎの世界,わたしたちの理想の地です。そこでは青は青として輝く — 当たり前のようでいて,その描写は,いまのわたしたちのあり方を問い返しています。

 わたしたちは,知らず知らずのうちに身につけた「ものさし」で自分や他者を計り,傷ついたり傷つけたりしています。「自分はこういう人間」「あの人はこういう人」と決めつけて,自分自身のことも,目の前にいるその人自身のことも見ずに,立場や色眼鏡に囚われている。そうして,本当は自分が何に安心し,何を求めているのかさえ気づけずに,どこかで不安や不満を感じながら日々を過ごしています。
 そういうわたしたちに,いま手の届く,目に見えるものだけを見るのではなく,「青は青として輝くことができる」世界を考えてみなさいと阿弥陀経は語りかけます。その世界に思いを向けるとき,わたしたちは自分の中の「ものさし」に気づき,それを手放しながら,自分自身を見つめ直すことができます。自分を見つめるからこそ,「わたしは何に安心し,何を求めているのか」という問いが生まれます。この問いが,わたしがわたしの色で輝くことを可能にします。
 光華は,自分自身への問いを大切にしてきました。この春からは,その問いの場に男子生徒や男子学生も迎え,ひとりひとりの色で輝き合える場へと,新たな一歩を踏み出します。

 創設の年1940年,日本は戦争の中にありました。女子教育には,戦地に出た男性に代わって社会を支える「銃後の守り」が求められる時代でした。
 今また戦争の影が日常をおびやかし始めています。ここで学ぶ者たちが,時代や空気に飲まれることなく,ひとりの人として誠実に人生や社会に向き合えるように。そのために光華が,安心して自分自身を見つめられる場であれるように。これが阿弥陀経を礎とする光華の使命です。2026年春,共学化を機に,あらためてここから歩み始めます。
なお,2015年12月にもこの一節を紹介しています。「今月のことば」HPでご確認ください。

「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」『仏説阿弥陀経』

別れ

2026.03.12

 3月は、別れの季節といわれます。卒業や転勤、人事異動など、「さよなら」と向き合わされる時期です。そして時に死別もそうですが、寂しさや不安、後悔が胸にせり上がり、「もっとこうしておけばよかった」と心が揺れやすくなります。

 浄土真宗の教えは、そうした別れの中で「何を拠り所にして生きるか」を静かに示してくれます。まず、別れによって露わになるのは、この世が「無常」、すなわち移ろいゆく世界であるという事実です。人間関係も、仕事も、健康も、永遠ではありません。

 しかし親鸞聖人は、この無常の世を嘆くだけでなく、「だからこそ阿弥陀如来のはたらきに目が開かれていく」と受けとめました。※「自分の力ではどうにもならない」と知らされる だからこそ、阿弥陀如来の救いの働き(本願・慈悲)が見えてきて、気づき受け取れるようになっていく。

 浄土真宗では、私たちの力や努力ではどうにもならない別れや死の現実を、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀如来のよび声に照らされて受けとめていきます。別れの悲しみが消えるわけではありませんが、「どんな私であっても決して見捨てないいのちのはたらきが、すでに私を抱いている」という安心が、悲しみの底を支えてくれます。

 また、亡き人との別れについては、「もう会えない存在」ではなく、「先にお浄土へ往き、仏となって私を照らし続けている存在」としていただきます。阿弥陀如来と同じく、亡き人もまた、私を仏法へと導くはたらきをしているといただくのです。

 別れの季節は、出会いの意味を味わい直すときでもあります。「ともに過ごした時間は決して無駄ではなかった」と、仏縁として受けとめ直すことができたとき、別れは単なる喪失ではなく、これからの生き方をたずね直す大きなきっかけとなります。悲しみを抱えたまま、「南無阿弥陀仏」ととなえつつ歩むところに、浄土真宗の別れの味わいがあります。