無限の大悲に乗托して、
安心したものは、自由である。(清沢満之「精神主義」その三)
2001.08.18
果たして、すべてを思い通りにできる人など、この世にいるのだろうか。多かれ少なかれ、我々は、思い通りに生きられない現実の中で、もがきながら日々の生活を送っているのではないだろうか。
妻子を次々と失い、自らも死の床に苦しんでいた清沢満之は、この世には、如意なるもの、不如意なるものがあるといい、不如意なるもの、つまり、意のままにならぬことについては、如来に任すほかはない、と述べた。
諦(あきら)めるという言葉がある。仏教では、これは、単なるアキラメ(お手上げ)を意味するのではない。諦という漢字には、真実(しんじつ)、さとり、の意味があり、真実をあきらかにさとるという意味が込められている。逃れ得ない事実を事実として、あらゆる事実を無限の大悲(如来)に照らされた事実として真正面から受け止めていく生き方、それは、決してアキラメの生き方ではない。立脚地に立つ独立者の生き方である。
事実を事実として、しかと受け止める生き方が出来るならば、何ら不安はないのである。不自由を感じるはずはない。ただ、ありのままを生きる自らがあるのみである。