心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。中村元訳(『真理のことば』37)
2002.09.18
心の教育ということが言われて久しいが、掛け声のみあって、実をあげたという例を寡聞(かぶん)にして耳にしたことがないのは、私だけだろうか。行為には身・口・意(心)の三業があり、それぞれに善悪があるが、その基本は心(意)であるから、心を問い直すのは自然なことである。
しかし、釈尊の言葉を見る限り、心が一般に考えられている行為の基本にとどまらず、生死の問題と関係していることが読み取れるであろう。しかも、心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろうと言うのであるから、そうできなければ、生々死々(輪廻(りんね)転生(てんしょう))は果てしなく続き、生老病死の四苦から逃れられないという含みがある。生(誕生)と死という、私たちの意志や努力ではどうしようもないと思われる出来事が、自分の心と深く関係していることが分かるであろう。心というものが、心理学の狭い理解を超えて、私たち自身の存在といかに深く関わっているかを示す典型的な例と言える。
さて、仏教は心を真心と妄心の二相に分けるが、妄心とは、文字通り、妄(みだ)りに起こる心という意味である。といっても、私たちが普通に心と呼んでいるものであり、心理学が扱っているのもこの心なのだ。もちろん、私たちが今生きているのは妄心であり、その心ゆえに私たちは徒(いたずら)に生まれ、徒に死を繰り返しているのである。一方、真心(真実心)とは、その妄りに起こる心を制し、生死の絆を離れ真実の世界へと帰っていく人々をいう。親鸞は彼らを<正定聚(しょうじょうじゅ)不退(ふたい)の人>と呼んだが、もはや再び生死の陥穽(かんせい)に落ちることのない人という意味である。(可)