一切皆苦(いっさいかいく) 「四法印」
2005.07.18
仏陀が発見されたこの世の理法とは、「一切は無常であり無我である」という、 厳然(げんぜん)とした事実そのものでした。この理法を日常の生活の原理として我々が生きるならば、そこに 貪欲(とんよく)や 瞋恚(しんに)や 愚痴(ぐち)といった煩悩は、生じないはずです。
しかし現に自らの一生を見渡す時、やがて老いたり病んだり死んだりすることに対して、心穏やかな者は一人もいないことも、また事実です。むしろ老病死の苦を 隠蔽(いんぺい)して、刹那の日々を享楽的に過ごしているのが、我々の実際だと言えます。
老少不定(ろうしょうふじょう)と言われる各人の死期に直面した時、初めて我々は生きていることの意味を 真摯(しんし)に考えざるを得ないと言えるでしょう。
ゆえに仏陀は「一切はみな苦である」と感じ取る、個別の苦を介してしか真実の理法には出会い得ないということを、第三番目の真理として掲げられるのです。(太)