All posts by kokagakuen

「悪口」

2018.09.10

職場でもプライベートの場でも悪口をいう人が必ずいます。おそらく自分に自信がなく、不満を抱えやすい人なのかもしれません。口を開けば悪口ばかりいう人とその一方で悪口を言わない人もいます。そこで、今月は「お釈迦様と悪口男」というお話を紹介させていただきます。

あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい。」男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせる為の作戦を練っていました。
ある日、その男はお釈迦様が毎日、同じ道のりを散歩に出かけていることを知りました。
そこで、男は散歩のルートで待ち伏せをして、群衆の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。「釈迦の野郎、きっと俺に悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない。」そして、その日が来ました。男はお釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。弟子たちは悔しい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様に尋ねました。それでも、お釈迦様は、ひと言も言い返すことなく、黙って、その男の悪態を聞いていました。男は一方的に、お釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。どんな悪口を言っても、お釈迦様がひと言も言い返さないので、男はなんだか虚しくなってしまったのです。その様子を見て、お釈迦様は、「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は、一体誰のものだろうか。」こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら、贈ろうとした者のものだろう。分かりきったことを聞くな。」男はそう答えてからすぐに、「あっ!」と気付きました。お釈迦様は静かにこう続けられました。「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを、少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことは、すべて、あなたが受け取ることになるんだよ。」(出典:変わりたいあなたへの33のものがたり)

お釈迦様は、固くて強いこころで相手の悪口をすべて聞き、心で受け止めながらも言葉では言い返されませんでしたが、こころで相手にメッセージを送られました。私たちも自分自身のこころを強く持つ努力が必要です。同時に「他人は自分を写す鏡」という言葉がありますが、他人の言動を見て思うことは、自分が他人にそのように見られているということです。つまりは、他人の言動で自身の反省点を気付かせてくれたことに感謝することが大切なのではないでしょうか。(宗教部)

「とも同朋」

2018.08.03

親鸞聖人の言葉に「同朋・同行」があります。同朋とは阿弥陀如来の本願を信じて浄土往生を願う人々のことであり、同行とはその本願をともに聴き、その教えを生活の拠りどころとして生きるということです。この「同朋・同行」とは、真宗の教えに帰依し、その教えを拠り所としている人々のことを指しているのではなく、生きとし生けるもの全ては阿弥陀如来のはたらき(他力)によってひとしく平等に救われる身であり、これこそが自然のはからいである。このはからいに目覚めていきましょうという呼びかけではないでしょうか。今月はこの「同朋・同行」について考えたいと思います。
有名な『歎異抄』の第6条に、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉があります。これは「門徒を自分の弟子と思えばいいか、それとも如来・聖人のお弟子と申すべきか」という質問に対して答えられた一文で、親鸞聖人の「全ての人々は阿弥陀如来のはたらき(他力)によって平等に救われる身を歩んでいるのであり、そこに師弟という関係は存在しません。自分が皆さんを救うことができるのであれば師ということになるでしょうが、皆さんが救われるのは阿弥陀如来のはたらきによって自ずと定まっているものであり、私の力ではありません。私たちは、そのはたらきに目覚め生きている同朋です」という思いが込められています。
また、親鸞聖人の御消息の第5通に、「としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにても候わめとこそおぼえ候え」という一文があります。現代語に訳しますと「数年来、弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、友達や同じ念仏の法につらなる朋友ともまごころをもって互いに親しむようになること、これこそが本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないでしょうか」ということになると思います。ここには、「友達や仏教の教えである念仏の法につらなる朋友同士であっても、人と人がつながると、そのつながり・関係が苦しくなりストレスを抱えることもあるでしょう。その時は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のこと、即ち、私たちは同朋であると気づいていなかった昔を振り返り、皆がこの厳しい世の中を互いに助け合い、励まし支え合いながら他力を光として生きていきましょう」という親鸞聖人の励ましを感じます。
近年、組織や団体内でのさまざまなトラブルが起こり、社会問題となっています。また、会社や地域、さらには家庭内での人間関係に疲れ、ストレスを抱える人々も増えています。こうした時代にこそ、「一人ひとりは「とも同朋」であるということに目覚め、相互に敬いながら生きていきましょう」という親鸞聖人のお示しくださった考えを大切にする必要があるのではないでしょうか。(宗教部)

「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(愚禿鈔)

2018.07.03

この言葉は、親鸞聖人が著した『愚禿鈔』(真宗聖典p423)の言葉で、「私の心は、外見では賢く振舞っているが、その中身は煩悩にまみれ、愚かである」という意味です。

親鸞聖人は自らを煩悩だらけの愚かな凡夫として「愚禿釈親鸞」と名乗りました。愚は愚者の自覚、禿は破戒僧(戒律を破った僧侶)、釈は釈尊の弟子を表し、愚かな僧侶であるからこそ釈尊の弟子でいられることを表しています。
親鸞聖人は仏教を学んでいく中で、自分が自分のことをいかに分かっていなかったかということを知り、自分の愚かさに気づいていきました。

私たちは、つい自分を良く見せようと、本当の自分を隠して、理想の姿を装ってしまうことはないでしょうか。そうしているうちに、偽ることに疲れてしまったり、時には本来の姿を隠している自分に嫌気がさしてしまうこともあるでしょう。

「今を生きることに目を背けないで 決してきれいなことばかりじゃないだろう」(本学テーマソング)

生きていると、楽しいことばかりではありません。悩み、苦しみ、ときには辛く悲しいときもあります。人間関係がうまくいかず、誰かに腹を立てたり、そねみ妬むこともあるでしょう。しかし、そんな自分を隠して、誤魔化してばかりいると、本当の自分の姿がわからなくなり、自分を見失ってしまいそうになります。偽った自分を見逃さず、しっかりと見つめてほしいのです。

「ゆっくりでいいよ、でもあきらめないで、決して自分を嫌いにならないで」(本学テーマソング)

自分自信を見つめるということは、自分を悪く評価するということではありません。自己と向き合う中で自分の弱さや傲慢さに気づき、落ち込んだり、反省したり、苛立ちを覚えることもあるでしょう。しかし、決して自分を嫌いにならないでください。ありのままの自分を知り、それを受け止めていく。そうやって自分自身と丁寧に向き合い続けていくことが大切なのです。

親鸞聖人のこの言葉は誤魔化し続けて本当の自分がわからなくなっている私たちに、一人ひとりの生き方が問われているのではないでしょうか。(宗教部)

「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」(善導)

2018.06.04

 自宅には少なくとも1つは鏡があるのではないでしょうか。私たちは、出かける前にはどんなに急いでいても1度は鏡の前に立ってみないと不安なことはありますね。これから人前へ出るのですから、まず服装は?髪型は?お化粧は?というように1度鏡を見て確認しなければ安心はできないものです。鏡も見ずにさっと家を出ることができる人はよっぽど自分の容姿に自信があるのかもしれません。私は完璧。いつも大丈夫。しかし、この大丈夫という言葉が一番危ないのではないかと思います。鏡は外面の姿を映し出すものとして使われます。
 しかし、残念ながらいくら高価な鏡でも自分の心を映し出すことはできないのです。鏡を見て身だしなみは整えますが、自分の心を見ることがあるのでしょうか。自分の心は見えませんし、実はありのままの自分の心は見たくないものです。

 今月の言葉は、中国の僧である善導が『観経疏』の中で「お経は鏡のようである。」と記されています。つまり、お経の教えは自分の心を映し出す鏡であると・・・。お経とはお釈迦様が私たちに説いて下さった真実の教え、いうなれば、現代の私たち対してのメッセージです。
 お経という鏡は、普段は上手に隠している、本心とか本性というのがあぶり出されてきます。。。自分が見たり聞いたりしたものは絶対に間違いないという、根拠のない自信で自分は決して間違わない、間違っていないと思って暮らしているのが私たちです。すると一生、相手を責めることで終わってしまいます。自分のことには気がつくことがないのです。ですから、私たちは、他人のことはよく見えるのですが、自分のことはなかなか見えません。だから、私たちには生活の中に教えという「鏡」が必要なのです。
鏡を見るときには自分の都合の良い面しか見ません。あるいは、人から良く見えるように体裁をしっかり整えます。そのような見方で鏡(経)を見て、映った自分の姿を見ても、私の本当の姿は見えて来ないのです。鏡は、私の姿を映し出すと共に、私を照らし出してもくれます。「鏡」の喩えは、光に照らされている私であるということを表現されているわけです。

私たちが自分をしっかりと見ようとする時には、見るための鏡が必要であることを確かめましたが、お釈迦様によって明らかにされた教えが、私たちの内面を見る鏡となるのです。その鏡で自分をしっかりと見て大事な教えとして次の世代に伝え、またその喜びをさまざまに表現することが3500年もの間、脈々と続き、現在に至っているのです。
経は自らを映し出す鏡であり、私たちの心の暗闇を照らす鏡である。その教えを通して日々の生活の中でしっかり振り返り、自分を見つめことが大切なことではないのでしょうか。

「第二の誕生」

2018.05.07

昔、ある青年がいた。小さいときに父親を病気で亡くしてから、母親が反物の行商をして彼を育ててきた。
大学4年生になったとき、彼はとても有名な会社の就職試験を受験して、難関を突破し一次試験に合格した。そして二次試験の面接で、彼は社長さんからこんなことを言われた。
「君はお父さんを早く亡くして、母一人子一人だね」
「はい、そうです」
「それじゃね、今日帰ったら、お母さんの体をどこでもいいから洗ってあげなさい。明日続きをしよう」
青年はぶつぶつ文句を言いながら家に帰った。だが、落ち着いて考えてみると、やはりどうしてもあの会社には入りたい。 そうや、おふくろは毎日、反物の行商をして歩いているんやから、足が汚れているだろう。足なら簡単に洗えばすむ。
「お母さん、お帰りなさい。実は今日会社の面接に行ったら、変な社長がお母さんの身体を洗わんと面接のつづきをせんと言うんや。だから済まんけどお母さん、洗わせてくれ」
「そう、それじゃ、しょうがないわね」
青年は母親の足を洗おうと思って、何気なく母親の足をにぎった。しかし、それから彼は化石したように動けなくなった。
彼がにぎった母親の足は、真っ黒に汚れた、石のように硬いごつごつした足だった。その母親の足を握ったとき、その青年の胸に何とも言いようのない熱いものがこみあげてきた。
父親が亡くなってから、どんな思いで、彼のことを育ててきたのか、今まで愚痴一つ言わなかった母の、真っ黒な、石のような足が、すべてを物語っていた・・ついに青年は耐えきれなくなって、お母さんの足を握ったまま、男泣きに泣きつくした。
青年は翌日、会社に行って社長にこう言った。
「社長さん、私は今までだれ一人からも、親の恩ということを教わりませんでした。社長さんにはじめて親の恩ということをわからせていただきました。そして私は今まで、自分の力だけで生きていると思っていましたが、母や、私の周りの大きな力に支えられ、生かされているのだということがよくわかりました。
私はこの会社に採用されてもされなくても結構です。でも生涯、母親を大事にしていきたいです。そして、自分も人のために生きられるような人間になりたいと思います」
人間には一生の間、二回の誕生がある。一回目はお母さんのお腹から生まれる、生き物としての誕生。
そしてもう一回は、親の恩を通じて、さらに大きないのちに目覚めていくとこと、それこそが「第二の誕生」である。
(竹下哲『いのちに目覚める』東本願寺伝道ブックス22より)

「学園花まつり」を開催しました

2018.04.20

4月19日(木)、本学園において幼稚園から大学・大学院までの全設置校の在籍者が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。
 
この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、お釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」を園児~学生はもとより教職員を含めて、今一度自分自身を見つめなおす機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。
 
本学園では、小学生マーチングバンド、中高吹奏楽部、大短吹奏楽部、中高バトントワラー部による演奏パレードや、小学生が引く白像の行進、中高軽音楽部や中学校3年生による讃歌を取り入れた音楽法要的な内容で行ないました。また、真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、どんな状況にあっても周囲の方や自身の尊い命を大切にしてほしい、とお話いただきました。

 

当日は、中学・高校正面玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生や来校された方々に自由に甘茶を灌仏していただけるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。
 
【各校園「学園花まつり」の様子はこちら】
大学/短期大学部
小学校
 
 

「天上天下唯我独尊」

2018.04.12

釈尊が誕生した直後に発した言葉として伝えられている、誕生偈の一節です。この言葉は、つまり「この世に自分より尊い者はいない」を意味します。強烈な言葉であるがゆえに、後半の「唯我独尊」は、転じて「ひとりよがり」や「うぬぼれ」を意味する言葉として一般に用いられています。もちろん、そのような用法は適切ではありません。そこで「本来の意味」が問題になるのですが、「本来の意味」として「すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている」などと解説する仏教書もみられます。今回は、この言葉を少し考察します。

はじめにこの言葉が出てくる文脈を、パーリ語で残される「希有未曾有経」(『中部』第123経)から紹介すると、「私は世間で最上の者である。世間で最勝の者である世間で最高の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」となっています。最後の一節から、この言葉は明らかに、誕生したばかりの釈尊が、後に悟りを開き(つまり、輪廻から解脱し)仏陀となると宣言したものであり、したがって、仏陀となる自分を尊いと言っています。

仏陀の生涯を語る仏伝は、最初からまとまった形で作成されたものではなく、初期経典で断片的に語られる種々のエピソードから抽出され整理されて成立しました。それらの諸経典や仏伝を分析した研究では、誕生直後に釈尊を占ったアシタ仙人の称賛の言葉(「スッタ・ニパータ」:『ブッダのことば』, pp. 149-152)や、悟った直後に釈尊が初転法輪へと向かう途上で出会ったウパカへの返答(『律蔵』「大品」:『仏教かく始まりき』, pp. 57-67)がソースとなり、仏伝において誕生時の釈尊自身の言葉とされたと推測されています。したがってそこには、仏伝作者たち、そして当時の仏教徒たちの釈尊の教えに出会った喜びと、釈尊への崇敬の念が刻まれているといえます。

確かに釈尊の悟りとその後に説かれた教えは、人が自分の尺度で他者や物事を計り、自分の存在を確かめようとすることが苦しみの原因となることを明らかにしています。したがって、誰と比べることもなく、ありのままの自分に充足する、つまり「自分と自分以外の者のいのちはそれぞれに尊い」ということが、釈尊の誕生偈でも意味されるのだと解釈することはできるかもしれません。しかし、誕生偈の文脈からは明らかにずれますし、「釈尊がそのような傲慢なことを言うはずがない」と、仏伝作者たちが釈尊誕生時の産声に重ねた思いを「傲慢」と取ること自体が、「自分の尺度」なのかもしれません。

わかりやすさが求められる昨今ではありますが、仏典に対しても、日常においても、「自分の尺度」を押し付けず文脈を丁寧に辿る粘りも大切なのではないでしょうか。

「天上天下唯我独尊」

2018.03.05

釈尊が誕生した直後に発した言葉として伝えられている、誕生偈の一節です。この言葉は、つまり「この世に自分より尊い者はいない」を意味します。強烈な言葉であるがゆえに、後半の「唯我独尊」は、転じて「ひとりよがり」や「うぬぼれ」を意味する言葉として一般に用いられています。もちろん、そのような用法は適切ではありません。そこで「本来の意味」が問題になるのですが、「本来の意味」として「すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている」などと解説する仏教書もみられます。今回は、この言葉を少し考察します。

はじめにこの言葉が出てくる文脈を、パーリ語で残される「希有未曾有経」(『中部』第123経)から紹介すると、「私は世間で最上の者である。世間で最勝の者である世間で最高の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」となっています。最後の一節から、この言葉は明らかに、誕生したばかりの釈尊が、後に悟りを開き(つまり、輪廻から解脱し)仏陀となると宣言したものであり、したがって、仏陀となる自分を尊いと言っています。

仏陀の生涯を語る仏伝は、最初からまとまった形で作成されたものではなく、初期経典で断片的に語られる種々のエピソードから抽出され整理されて成立しました。それらの諸経典や仏伝を分析した研究では、誕生直後に釈尊を占ったアシタ仙人の称賛の言葉(「スッタ・ニパータ」:『ブッダのことば』, pp. 149-152)や、悟った直後に釈尊が初転法輪へと向かう途上で出会ったウパカへの返答(『律蔵』「大品」:『仏教かく始まりき』, pp. 57-67)がソースとなり、仏伝において誕生時の釈尊自身の言葉とされたと推測されています。したがってそこには、仏伝作者たち、そして当時の仏教徒たちの釈尊の教えに出会った喜びと、釈尊への崇敬の念が刻まれているといえます。

確かに釈尊の悟りとその後に説かれた教えは、人が自分の尺度で他者や物事を計り、自分の存在を確かめようとすることが苦しみの原因となることを明らかにしています。したがって、誰と比べることもなく、ありのままの自分に充足する、つまり「自分と自分以外の者のいのちはそれぞれに尊い」ということが、釈尊の誕生偈でも意味されるのだと解釈することはできるかもしれません。しかし、誕生偈の文脈からは明らかにずれますし、「釈尊がそのような傲慢なことを言うはずがない」と、仏伝作者たちが釈尊誕生時の産声に重ねた思いを「傲慢」と取ること自体が、「自分の尺度」なのかもしれません。

わかりやすさが求められる昨今ではありますが、仏典に対しても、日常においても、「自分の尺度」を押し付けず文脈を丁寧に辿る粘りも大切なのではないでしょうか。

「 遠く宿縁を慶べ 」『 教行信証 』「総序」

2018.02.03

標記の言葉は、宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」にある言葉です。阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申すことになったのは、親鸞聖人ご自身の力によるものではなく、遥か遠い過去からの因縁があってのめぐり遇いであり、真実の教えに出遇うべく願われ続けてきたという大きな因縁を知り、その因縁の不思議さと感動とともに深い慶びのこころを表白された言葉であると言えます。親鸞聖人はかかる因縁を「宿縁」といただかれました。今こうして真実の教えに出遇うことができたこの時点より以前のすべての仏縁を宿縁と受け止められました。

真実の教えをいただくということは、どれだけ時間を費やして努力しても極めて難しいことです。それがやっと今、ここに出遇うことができたことは思いがけず偶然としか言いようがない出来事であり、人生を根底から変える決定的な出遇いを果たし遂げることができたこの宿縁には深く慶ばれる他なかったのだと思います。この言葉の次には、「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」と記されています。

親鸞聖人にとっての決定的な出遇いとは、二十九歳の時のよきひと(師)である法然上人と

の出遇い(=真実の教えとの出遇い)であり、それまでに教えを求めて迷い重ねてきた苦しくて困難であった道程のすべてがこの出遇いに導く尊いご縁であったと受け止められました。この出遇いを通して自らの本当の姿が顕かになり、煩悩具足の凡夫である自分のために常に照らし続け、呼び続けてくださる大きな願いがかけられていることに気付かれました。

私達は、現在の生活を当たり前のこととして感動もなく過ごしているのではないでしょうか。また、支え続けられているご縁の大きなはたらきがあることを忘れ果てているのではないでしょうか。今、あらためて当たり前のことを尊いこととして受け止め直すこと、そして、幾多のかけがえのない出遇いの一つ一つが人生にとってどのような大きな意味を持つのかを自分自身に問い直す必要があると思います。

釈尊からの仏縁のつながりと私の思いを超えて無限の過去からの数限りないご縁のはたらきがあったことを思う時、「遠く宿縁を慶べ」という親鸞聖人のお言葉が迷い続けている私のこころに強く響いてきます。

ただ今、数限りないご縁、無量無数の出遇いによって起こった事象が、自分自身にとって都合の良い縁であっても都合の悪い縁であったとしてもそのありのままをご縁として受け入れて、向き合い、そのすべてが今の自分を成り立たせている宿縁であったと慶ぶことができたならば、仏教の根源的な課題である「生死出ずべき道」が必ず私達の前にきりひらかれてくるのではないでしょうか。(宗教部)

「念仏もうさるべし」『蓮如上人御一代記聞書』

2018.01.12

あけましておめでとうございます。

今月のことば「念仏もうさるべし」。このことばは、蓮如上人が京都の勧修寺村の道徳という人に語ったとされることばの一節です。1493年の元旦、蓮如上人の元を訪れた道徳は、蓮如上人に「あけましておめでとうございます。」と新年の挨拶をしました。すると蓮如上人は、「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。」と言葉をかけたと伝えられています。これはおそらく新年の修正会のお参りに道徳が来た時の出来事。普段より親交があった二人、蓮如上人が道徳の年齢を知らなかったはずはありません。「念仏もうす」とは仏の教えに触れること。このことばの意味は、単に年齢を問うものではなく、儀礼的に挨拶をした道徳に、日常に追われていないか?常に仏の教えに向き合って我が身を振り返っているか?と改めて問うものだったのだと思います。

私達は、忙しさに追われ、生きる意味や何を拠り所としてどのように生きていくのか等と我が身を振り返る時間を持つことを忘れがちです。蓮如上人は元旦の今、気持ち新たに自分の生き方を見直しなさいと伝えているのだと思います。

当時、道徳は74歳、蓮如上人は79歳。時は無限にある訳ではありません。明日が今日と同じように続くと思いがちな日常、そんな気持ちで日々を送るのは時が空しく過ぎるだけ。一日一日を大切に、生きる目的や拠り所を改めて見つめ直しましょうという晩年の蓮如上人からのメッセージなのではないのでしょうか。(宗教部)