9月の「今月のことば」は、『相応部経典』に収められている「マッリカー経」からの引用です(中村元『神々との対話I』pp.169-170, 片山一良『相応部』第1巻, pp.313-314)。古代インドに存在したコーサラ国には、パセーナディ王という王がいました。王妃の名はマッリカーといい、夫婦そろって釈尊に帰依し、仏教教団を保護したと伝えられています。
ある日、パセーナディ王とマッリカー妃は高楼に登って語り合っていました。そのとき、王は妃に「そなたには、自分よりもさらに愛しい者が他に誰かいるかね」と尋ねました。王は、妃から「王様、私にとって何よりも愛しいのはあなたです」という答えを引き出し、互いの愛情を確かめ合いたかったのでしょう。古代インドの注釈者も、そのように解釈しています。しかしマッリカー妃は、自分の心に正直に「私には、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もおりません」と答えました。そして妃が「王様はいかがですか」と問い返すと、王もまた「私にも、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もいない」と率直に答えたといいます。
仏教では、人は誰しも強い自己への執着を抱いていると説かれます。「私が」「私の」と、自分を中心に物事を考えてしまうのです。私たちは自分に執着し、自分の欲望や感情に振り回されながら生きています。「子どものためなら命を捧げられる」と思ったとしても、我が子だからこそそう思えるのかもしれません。そう考えると、マッリカー妃の言葉は、誰もが認めざるを得ない事実を示していると言えるでしょう。人間にとって、自己ほど愛しいものはないのです。
釈尊は、この二人のやり取りを踏まえて、次のように説かれました。「あらゆる方向に、心で探し求めても、自分よりもさらに愛しい者を得ることはない。このように、他の人々にとってもそれぞれの自己は愛おしいものである。それゆえに、自己を愛する者は、他者を害してはならない」。つまり、自分が自分を大切に思うように、他者もまた自分を大切に思っている。そのことに気づき、相手を傷つけずに生きなさいと説かれたのです。
ここで示されているのは、他者への想像力です。自分さえ良ければいいという自己中心的な心に気づき、他者の立場から物事を見ること。これは社会の中で他者と共に生きる私たちに欠かせない姿勢でもあります。人は皆、自分を愛しく思うものですが、その自分本位の見方を少し離れ、他者に寄り添う心を育んでいきたいものです。
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