令和4年度 学園長賞表彰式を行いました
2022.10.19
10月11日(火)、令和4年度 学園長賞表彰式を行いました。
学園長賞は、本学園の在学生で、学業・文化・スポーツ等において特に優秀な成績を修められた方や、ボランティア活動等で地域に貢献などをされた方を表彰する制度です。
今回は、個人で8名、団体で4団体、特別表彰で1団体が表彰され、学園長から表彰状と記念品が贈られました。
学園長からは受賞者一人一人にあたたかい言葉が贈られ、また、受賞者からは今後に向けた力強い宣誓がありました。入賞者の皆さんのますますのご活躍を期待いたします。
【光華女子学園】2022年9月 活動報告
2022.10.10
皆共に生きる独立者
2022.10.07
今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」です。三谷幸喜さんの巧みな脚本のもと、北条義時役の小栗旬さんをはじめ、源頼朝役の大泉洋さん、北条時政役の坂東彌十郎さん、北条政子役の小池栄子さんなど魅力的な俳優さんの好演もあり、これまでの鎌倉時代をテーマとした作品とは大きく趣を変えたものとなっています。例えば、これまで粗野で荒くれ者の田舎武者との描かれ方が多かった木曽義仲も、青木崇高さんが熱演する今回は、礼節をわきまえ、武士としての信念を持ったカッコイイ源氏の一門として描かれ、息子の義高と源頼朝の娘の大姫との切ない物語や、義仲と別れた後少しずつ変わっていく人間味のある巴御前など、さまざまな伏線を張り巡らし、権力の座を巡る武士たちの駆け引きとホームドラマが巧みに交錯したとても見ごたえのあるドラマになっていると感じています。残すところあと10話少々となりました。これから年末のクライマックスに向けて承久の乱が描かれることとなると思いますが、どのように描かれるのか楽しみにしています。
さてこの鎌倉殿の13人を見ている中で考えさせられる場面がありました。それは、若年にして新たに鎌倉殿となり、その重責と自分の思いとの狭間で悩む源実朝に対し、大竹しのぶさん演じる歩き巫女が「お前の悩みはどんなものであっても、それはお前ひとりの悩みではない。はるか昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先も、お前と同じことで悩む者がいることを忘れるな。悩みというのは、そういうものじゃ。お前ひとりではないんだ」と語りかけるシーンです。この言葉を聞き、源実朝は涙し、少し気持ちが楽になったようでしたが、皆さんはどのように感じられたでしょうか。
私たち一人ひとりにはそれぞれ「我」があり、我を張りながら生きていますが、この「我」は生きる上での「苦」でもあります。我と我のぶつかり合いです。だから私たちは自分の「我」を張るための居心地の良い環境として、友達やグループ(集団)を作ります。しかし、この居心地の良い環境であるはずの友達やグループが、他のグループとの諍いを生じさせることもありますし、グループ内の結束を高めるためグループ内の異質な者を見つけ排除しようとしてしまうこともままあります。相手の「我」を張らさない、認めない、いわゆる「いじめ」と呼ばれる行為です。これらは本当にやっかいな問題で、ライフステージの全ての場面で私たちを悩ませる問題です。
こうした「我」の問題に対し、親鸞聖人は「皆共に」というお考えを示してくださっています。阿弥陀如来の世界に生きられた親鸞聖人は、阿弥陀如来が無量寿であり無量光、すなわち時間的にも空間的にも「はかれない」ということに頷かれました。「はかれない」ということは境界がないということです。つまり阿弥陀如来の世界には「私の友達」や「私のグループ」といった仕切りがなく、そこに住まう者すべては「独立者」です。また仕切りがないということは一の阿弥陀如来が私たち全てとそれぞれ向き合っているという関係でなく、一の阿弥陀如来に対して一の私という一対一の関係を意味しています。こうした阿弥陀如来の世界に頷くことができれば、私たちは独立者であるがゆえ他者に依存せず、他者を排除せず、他者を利用しない、すなわち皆が対等であり、平等である「皆共に生きる世界」が開かれます。こうした世界を歩まれたのが親鸞聖人です。このように考えますと、鎌倉殿の13人に出てきた「お前ひとりの悩みではない。はるか昔から、同じことで悩んできた者がいることを忘れるな。この先も、お前と同じことで悩む者がいることを忘れるな」という言葉は、一人ひとりはさまざまな悩みを抱える同じ独立者であり、「お前は皆共に生きる独立者が集う世界を生きているのだよ」と語りかけてくださっている阿弥陀如来の言葉のように感じられます。これが浄土真宗で言う「同朋」ということだと思いますし、同朋の道を歩むかどうかを私たちに問いかけてくださっているように感じられました。皆さんはいかがでしょうか。
【光華女子学園】2022年8月 活動報告
2022.09.20
防災訓練を実施しました
2022.09.20
8月22日(月)、教職員と防災サークル「Daisy」の学生を対象に防災訓練を実施しました。
防災訓練は毎年実施しており、大きな地震や火事が発生した際、キャンパスにいる学生生徒等を安全に避難誘導し、被害を最小限に抑えることを目的としています。
当日は、震度7の地震が発生したことを想定した避難訓練を行い、その後は右京消防署職員の方による消火訓練、救護活動訓練、防災・消防設備の専門業者である株式会社ヤマト商会様による避難器具体験を行いました。
教職員一人一人が防災訓練を通して学んだことを日頃から意識し、有事の際に適切な判断・行動ができるようにしてまいります。
無碍の道
2022.09.02
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ
おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」 (『光華抄』)
これは、光華女子学園を創設された 故大谷智子お裏方のお手製の歌です。
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ」と仰っていますが、ともすれば、私たちは、日常生活で身に付けた知識に溺れ自惚れたりして、分かったつもりになっていることが少なくありません。
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」
お裏方は、そうした私たち一人ひとりの中に知らず知らずのうちに生まれた濁った心や思い上がった姿を戒めて下さっているように思われます。
蓮如上人も、御文の中で「あながちに もろもろの聖教を読み ものを知つたりといふとも 一念の信心のいはれを知らざる人は いたづらごとなりと知るべし」と仰っています。
私たちは、親鸞聖人の仰る「無明の闇」((煩悩に囚われ、真実の智慧の明るさのない世界)『教行信証 総序』)に窮しているのかもしれません。善悪や優劣などの相対的な価値観に右往左往し、科学的・近代的な価値観こそが絶対的な智慧であると未だに盲信しているのではないでしょうか。
もちろん、その恩恵は多分にあり、感謝の念も不可欠であることは言うまでもありません。しかしながら、そこにあるのは、やはり「無明の闇」と言わざるを得ません。近代文明がもたらした光の底にある陰。例えば、この夏の異常な暑さに見られる地球環境問題や新型コロナウィルス感染とその対策、さらには核や原発の問題、ウクライナ侵攻等々。形而下の利益を求めるが故に果てしなく続く人間中心社会が生み出した「無明の闇」です。
お裏方は冒頭の歌のように「おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」と願われ、親鸞聖人は「無碍(障りの無い)の光明は無明の闇を破する恵日なり」と断言されています。
浄土真宗の「光」とは「阿弥陀如来」、「いのち」そのものです。本学園の名称の一部ともなっているこの「光」が、ご縁ある皆様の「いのち」そのものを照らし、「無碍の道」として、豊かな人生を歩まれんことを心よりお念じ申し上げます。 (宗教部)
光華女子学園公式インスタグラム開設について
2022.08.19
この度、光華女子学園公式のインスタグラムアカウントを開設いたしました。
各校園の日常風景やイベント・校舎の様子など、より本学園を身近に感じられるような投稿を行ってまいります。
下記の画像、もしくはQRからアクセスしていただけます。
皆さまのフォローをお待ちしております!
◆光華女子学園インスタグラム
https://www.instagram.com/koka_wei/
【光華女子学園】2022年7月 活動報告
2022.08.08
大乗とは量られないもの
2022.08.04
自らを「大乗」と名乗った最初の経典は『般若経』だと言われています。その『般若経』では、大乗とは量られないものであり、無量無数の衆生を入れる余地があるから、大きな乗り物(大乗)だと説かれています(『八千頌般若経 I』梶山雄一訳、1974、pp.36-37)。『般若経』に登場する菩薩は、衆生を限定することなく、一切衆生と共に菩提を求めます。
その『般若経』は菩薩の実践において分別を重大な問題としていきます。菩薩が、「私は衆生を導いた」という思い(分別)を起こしたならば、もはや菩薩ではないと説きます。菩薩は、すべてのものは空であると知り、分別を離れ、自らの判断でものごとを量ることがない存在だと示されます。
では、私たちはどうでしょうか。私たちはさまざまなものを見聞きし、いろいろな考えを起こします。そこでついつい自分の感覚・判断が正しいという錯覚を起こしていきます。
ここ最近もてはやされている「多様性」という言葉で考えてみましょう。ある授業で、学生さんが、朝井リョウの小説『正欲』に登場する超性的少数者が思いを吐露した文章を紹介してくれました。「多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ」(朝井リョウ『正欲』新潮社、2021、p.188)。同書では「多様性という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、がある」(同書、p.6)と記され、社会のなかで溢れる多様性キャンペーンに対する違和感が綴られています。
「多様性を尊重する」と口に出すのはとても簡単ですが、生きていくなかで、この『正欲』の登場人物が叫ぶように、受け入れ難い、とても許容できない他者の考え・行動に出会うことがあると思います。そのとき私たちはその他者を見て何を思うのでしょうか。「あの人はおかしい。自分はおかしくない」と思い込み、判断しているのではないでしょうか。私たちが認める多様性とは、所詮自分自身の価値観で量れる範囲の浅薄なものになっているのではないでしょうか。軽々しく「みんなちがって、みんないい」と口にする前に、受け入れられないと考えてしまう自身の考え、自分の中にある差別心と向き合っていく必要があると痛感しました。
あらゆることに対して自分のものさしで量ることがない『般若経』の菩薩の姿と、救う衆生を限定しないという大乗の教えは、自らの価値観にとらわれ、限定してばかりいる自分自身を省察する視点を与えてくれるといえます。(宗教部)
【光華女子学園】2022年6月 活動報告
2022.07.10