防災訓練を実施しました
2022.09.20
8月22日(月)、教職員と防災サークル「Daisy」の学生を対象に防災訓練を実施しました。
防災訓練は毎年実施しており、大きな地震や火事が発生した際、キャンパスにいる学生生徒等を安全に避難誘導し、被害を最小限に抑えることを目的としています。
当日は、震度7の地震が発生したことを想定した避難訓練を行い、その後は右京消防署職員の方による消火訓練、救護活動訓練、防災・消防設備の専門業者である株式会社ヤマト商会様による避難器具体験を行いました。
教職員一人一人が防災訓練を通して学んだことを日頃から意識し、有事の際に適切な判断・行動ができるようにしてまいります。
無碍の道
2022.09.02
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ
おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」 (『光華抄』)
これは、光華女子学園を創設された 故大谷智子お裏方のお手製の歌です。
「ちひさき智慧をふりかざし ほこるわれらのあはれさよ」と仰っていますが、ともすれば、私たちは、日常生活で身に付けた知識に溺れ自惚れたりして、分かったつもりになっていることが少なくありません。
「実ほど頭を垂れる稲穂かな」
お裏方は、そうした私たち一人ひとりの中に知らず知らずのうちに生まれた濁った心や思い上がった姿を戒めて下さっているように思われます。
蓮如上人も、御文の中で「あながちに もろもろの聖教を読み ものを知つたりといふとも 一念の信心のいはれを知らざる人は いたづらごとなりと知るべし」と仰っています。
私たちは、親鸞聖人の仰る「無明の闇」((煩悩に囚われ、真実の智慧の明るさのない世界)『教行信証 総序』)に窮しているのかもしれません。善悪や優劣などの相対的な価値観に右往左往し、科学的・近代的な価値観こそが絶対的な智慧であると未だに盲信しているのではないでしょうか。
もちろん、その恩恵は多分にあり、感謝の念も不可欠であることは言うまでもありません。しかしながら、そこにあるのは、やはり「無明の闇」と言わざるを得ません。近代文明がもたらした光の底にある陰。例えば、この夏の異常な暑さに見られる地球環境問題や新型コロナウィルス感染とその対策、さらには核や原発の問題、ウクライナ侵攻等々。形而下の利益を求めるが故に果てしなく続く人間中心社会が生み出した「無明の闇」です。
お裏方は冒頭の歌のように「おのれをすててひたすらに さはりなきみちすすまなん」と願われ、親鸞聖人は「無碍(障りの無い)の光明は無明の闇を破する恵日なり」と断言されています。
浄土真宗の「光」とは「阿弥陀如来」、「いのち」そのものです。本学園の名称の一部ともなっているこの「光」が、ご縁ある皆様の「いのち」そのものを照らし、「無碍の道」として、豊かな人生を歩まれんことを心よりお念じ申し上げます。 (宗教部)
光華女子学園公式インスタグラム開設について
2022.08.19
この度、光華女子学園公式のインスタグラムアカウントを開設いたしました。
各校園の日常風景やイベント・校舎の様子など、より本学園を身近に感じられるような投稿を行ってまいります。
下記の画像、もしくはQRからアクセスしていただけます。
皆さまのフォローをお待ちしております!
◆光華女子学園インスタグラム
https://www.instagram.com/koka_wei/
【光華女子学園】2022年7月 活動報告
2022.08.08
大乗とは量られないもの
2022.08.04
自らを「大乗」と名乗った最初の経典は『般若経』だと言われています。その『般若経』では、大乗とは量られないものであり、無量無数の衆生を入れる余地があるから、大きな乗り物(大乗)だと説かれています(『八千頌般若経 I』梶山雄一訳、1974、pp.36-37)。『般若経』に登場する菩薩は、衆生を限定することなく、一切衆生と共に菩提を求めます。
その『般若経』は菩薩の実践において分別を重大な問題としていきます。菩薩が、「私は衆生を導いた」という思い(分別)を起こしたならば、もはや菩薩ではないと説きます。菩薩は、すべてのものは空であると知り、分別を離れ、自らの判断でものごとを量ることがない存在だと示されます。
では、私たちはどうでしょうか。私たちはさまざまなものを見聞きし、いろいろな考えを起こします。そこでついつい自分の感覚・判断が正しいという錯覚を起こしていきます。
ここ最近もてはやされている「多様性」という言葉で考えてみましょう。ある授業で、学生さんが、朝井リョウの小説『正欲』に登場する超性的少数者が思いを吐露した文章を紹介してくれました。「多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ」(朝井リョウ『正欲』新潮社、2021、p.188)。同書では「多様性という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、がある」(同書、p.6)と記され、社会のなかで溢れる多様性キャンペーンに対する違和感が綴られています。
「多様性を尊重する」と口に出すのはとても簡単ですが、生きていくなかで、この『正欲』の登場人物が叫ぶように、受け入れ難い、とても許容できない他者の考え・行動に出会うことがあると思います。そのとき私たちはその他者を見て何を思うのでしょうか。「あの人はおかしい。自分はおかしくない」と思い込み、判断しているのではないでしょうか。私たちが認める多様性とは、所詮自分自身の価値観で量れる範囲の浅薄なものになっているのではないでしょうか。軽々しく「みんなちがって、みんないい」と口にする前に、受け入れられないと考えてしまう自身の考え、自分の中にある差別心と向き合っていく必要があると痛感しました。
あらゆることに対して自分のものさしで量ることがない『般若経』の菩薩の姿と、救う衆生を限定しないという大乗の教えは、自らの価値観にとらわれ、限定してばかりいる自分自身を省察する視点を与えてくれるといえます。(宗教部)
【光華女子学園】2022年6月 活動報告
2022.07.10
【お詫びと訂正】「第6回KOKA ENGLISH CONTEST」課題の一部誤りについて
2022.07.08
「第6回KOKA ENGLISH CONTEST」特設サイトに掲載している課題文と音声について、一部誤りがありました。
謹んでお詫び申し上げますとともに、下記の通り訂正いたしますので、ご確認をお願いいたします。
■暗唱の部 課題B-② 左側8行目
誤)Lived a mother bluebird and her little birdies tree.
正)Lived a mother bluebird and her little birdies three.
※音声データについても、訂正箇所は同様です。
なお、上記の訂正個所については、審査の対象外といたします。
誤った「tree」の音声になっている場合でも、減点はいたしません。
「自分のこととして聞く」
2022.07.07
朝、教室に行くと、子ども達は、「待っていました!」というように、「聞いて、聞いて、聞いて。」と集まってきて、周りを取り囲まれます。他愛もない話ですが、それぞれの話を聞くと子ども達は満足してその場を立ち去ります。
しかし、自身を振り返ってみますと、自分の心の余裕がある時には、子ども達の話を聞けますが、忙しい時や自分の都合を優先させている時などは、相手の話す内容をしっかり理解するのではなく、結果的に聞いている「ふり」をしているだけで、聞いていないことが多々あります。そんな時に限って子ども達からのサインを見逃し、信頼関係をそこねた苦い経験もあります。
日常生活においても、「聞く」ことそのものを自分の善し悪しで判断し、人の話を自分と関連付けて自分にとって関係があるかないかで聞いてしまいがちです。そして、自分にとって都合のよいことは聞きますが、都合の悪いことは聞いていない。それどころか、切り捨ててしまっています。そんな時に自分の中で聞くという行いが、どういうことなのかが問われてきます。
「こころ」の授業の導入に、子ども達と共に『三帰依文』を斉唱します。その二句目に
「仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、今すでに聞く。」
とあります。「今すでに聞く。」・・・。この言葉を聞く度に「自分は仏法を聞けてるのかなあ」と思い返します。「今すでに聞く。」とは、「すでに聞きました」ということではなく、「あなたは本当に聞くことができていますか。」「他人事ではなく自分のこととして聞いていますか。」「自分の価値観で物事を聞いていませんか。」というように、仏から呼びかけられているような気がします。
親鸞聖人の著書『教行信証』の「総序」の最後に
「聞くところを慶(よろこび)び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと。」
とご自身の胸のうちをあらわされています。この言葉は、親鸞聖人が生涯をかけて自分の進むべき確かな教えに出遇い、その教えを聞かせていただいているという慶びをご自身で受け取られています。人生を変えるただ一度の出遇いに聞いていく。「聞く」ということは、今ある自分を引き受けて、聞かせていただいた教えや言葉に頷いていくことなのかもしれません。
聞くことは難しいです。更にいうならば、私達は自分のこととして聞くことは、もっと難しいです。しかしながら、聞いていく他に道はないわけです。もし、聞くことができなければ、世の中の価値観に振り回され、それを繰り返してこだわり、本当に大切なものの出遇いに気づきません。自分のこととして聞くことによって気づいて行く世界があるんだといつも教えられています。
人間になる
2022.06.14
先日「人間になるということ」というテーマでとある講義を受けました。
生物学的な意味合いでの人間。社会生活を営む上での人間。もちろん答えのない問いではありますが、様々な観点で「人間になるということ」について考えることができ、非常に有意義な時間となりました。
広辞苑では、「人間」という言葉は、「じんかん。人の住む所。世の中。世間。」と記されており、生き物としての「人間」だけではなく、人と人との関係性や社会生活、「人」を取り巻く様々な概念を表す言葉だと理解することができます。では、他者と良い関係性を構築し、社会的に「全う」に生きることが「人間になること」だとするならば、その「良い」や「全う」の基準はどのように決まるのでしょうか。
現在、日本のみならず、世界中で予測不可能な様々な事態が起こり、大変な混乱状態にあります。そんな中で、「こうあるべきだ」「これだけは譲れない」と、それぞれの「良い」「全う」言わば「正しさ」がぶつかりあっています。現代の社会は、様々な情報が行き交い便利になった反面、その多くの情報が錯綜し、他者に排他的になってしまう傾向が否めません。「人間になることとは何なのか?」即ち、そこに答えを求めようとすればするほど、その行為そのものが、非常に危険なのではないかと感じてきました。私たちは「自分にとっての普通、当たり前」いわば「見方のクセ」にこだわって、それ以外のものを認めることが苦手です。仏教ではこの「見方のクセ」を「分別」といい、それにこだわることを「執着」といいます。
「執着」は、「恒常不変な私が存在する」という思い込み、すべてを自己中心的に見てしまう我執(がしゅう)から生じます。他者と良い関係性を構築するには、根底に「他者との違いを認めること」が必要で、自分の「見方のクセ」「分別」を見直していかなければなりません。「自分の分別から自分自身を解放していく」とも表現できるかもしれません。そして、それは結果的に自分の可能性や価値を見出すことにもなります。まずは「執着する自己」から離れ、他者、相手を認めていくところ、受け入れることが大切であり、それが「人間になること」や、「目指すべき世の中、社会」に向けた一歩になるのではないでしょうか。(宗教部)
新型コロナウイルスワクチン大学拠点追加(3回目)接種における本学の対応について
2022.03.04
学校法人光華女子学園は、新型コロナウイルスワクチン大学拠点追加(3回目)接種を、以下のとおり実施する予定です。
◆実施時期:2022年4月23日(土)、24日(日)の2日間
◆実施場所:京都光華女子大学 瑞風館1階
◆接種対象:学生、教職員、近隣住民等
◆使用するワクチン:モデルナ社製
【本件のお問い合わせ先】
学校法人光華女子学園
新型コロナウイルスワクチン接種対策チーム
[E-mail] vaccine@mail.koka.ac.jp
