【お詫びと訂正】「第6回KOKA ENGLISH CONTEST」課題の一部誤りについて
2022.07.08
「第6回KOKA ENGLISH CONTEST」特設サイトに掲載している課題文と音声について、一部誤りがありました。
謹んでお詫び申し上げますとともに、下記の通り訂正いたしますので、ご確認をお願いいたします。
■暗唱の部 課題B-② 左側8行目
誤)Lived a mother bluebird and her little birdies tree.
正)Lived a mother bluebird and her little birdies three.
※音声データについても、訂正箇所は同様です。
なお、上記の訂正個所については、審査の対象外といたします。
誤った「tree」の音声になっている場合でも、減点はいたしません。
「自分のこととして聞く」
2022.07.07
朝、教室に行くと、子ども達は、「待っていました!」というように、「聞いて、聞いて、聞いて。」と集まってきて、周りを取り囲まれます。他愛もない話ですが、それぞれの話を聞くと子ども達は満足してその場を立ち去ります。
しかし、自身を振り返ってみますと、自分の心の余裕がある時には、子ども達の話を聞けますが、忙しい時や自分の都合を優先させている時などは、相手の話す内容をしっかり理解するのではなく、結果的に聞いている「ふり」をしているだけで、聞いていないことが多々あります。そんな時に限って子ども達からのサインを見逃し、信頼関係をそこねた苦い経験もあります。
日常生活においても、「聞く」ことそのものを自分の善し悪しで判断し、人の話を自分と関連付けて自分にとって関係があるかないかで聞いてしまいがちです。そして、自分にとって都合のよいことは聞きますが、都合の悪いことは聞いていない。それどころか、切り捨ててしまっています。そんな時に自分の中で聞くという行いが、どういうことなのかが問われてきます。
「こころ」の授業の導入に、子ども達と共に『三帰依文』を斉唱します。その二句目に
「仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、今すでに聞く。」
とあります。「今すでに聞く。」・・・。この言葉を聞く度に「自分は仏法を聞けてるのかなあ」と思い返します。「今すでに聞く。」とは、「すでに聞きました」ということではなく、「あなたは本当に聞くことができていますか。」「他人事ではなく自分のこととして聞いていますか。」「自分の価値観で物事を聞いていませんか。」というように、仏から呼びかけられているような気がします。
親鸞聖人の著書『教行信証』の「総序」の最後に
「聞くところを慶(よろこび)び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと。」
とご自身の胸のうちをあらわされています。この言葉は、親鸞聖人が生涯をかけて自分の進むべき確かな教えに出遇い、その教えを聞かせていただいているという慶びをご自身で受け取られています。人生を変えるただ一度の出遇いに聞いていく。「聞く」ということは、今ある自分を引き受けて、聞かせていただいた教えや言葉に頷いていくことなのかもしれません。
聞くことは難しいです。更にいうならば、私達は自分のこととして聞くことは、もっと難しいです。しかしながら、聞いていく他に道はないわけです。もし、聞くことができなければ、世の中の価値観に振り回され、それを繰り返してこだわり、本当に大切なものの出遇いに気づきません。自分のこととして聞くことによって気づいて行く世界があるんだといつも教えられています。
人間になる
2022.06.14
先日「人間になるということ」というテーマでとある講義を受けました。
生物学的な意味合いでの人間。社会生活を営む上での人間。もちろん答えのない問いではありますが、様々な観点で「人間になるということ」について考えることができ、非常に有意義な時間となりました。
広辞苑では、「人間」という言葉は、「じんかん。人の住む所。世の中。世間。」と記されており、生き物としての「人間」だけではなく、人と人との関係性や社会生活、「人」を取り巻く様々な概念を表す言葉だと理解することができます。では、他者と良い関係性を構築し、社会的に「全う」に生きることが「人間になること」だとするならば、その「良い」や「全う」の基準はどのように決まるのでしょうか。
現在、日本のみならず、世界中で予測不可能な様々な事態が起こり、大変な混乱状態にあります。そんな中で、「こうあるべきだ」「これだけは譲れない」と、それぞれの「良い」「全う」言わば「正しさ」がぶつかりあっています。現代の社会は、様々な情報が行き交い便利になった反面、その多くの情報が錯綜し、他者に排他的になってしまう傾向が否めません。「人間になることとは何なのか?」即ち、そこに答えを求めようとすればするほど、その行為そのものが、非常に危険なのではないかと感じてきました。私たちは「自分にとっての普通、当たり前」いわば「見方のクセ」にこだわって、それ以外のものを認めることが苦手です。仏教ではこの「見方のクセ」を「分別」といい、それにこだわることを「執着」といいます。
「執着」は、「恒常不変な私が存在する」という思い込み、すべてを自己中心的に見てしまう我執(がしゅう)から生じます。他者と良い関係性を構築するには、根底に「他者との違いを認めること」が必要で、自分の「見方のクセ」「分別」を見直していかなければなりません。「自分の分別から自分自身を解放していく」とも表現できるかもしれません。そして、それは結果的に自分の可能性や価値を見出すことにもなります。まずは「執着する自己」から離れ、他者、相手を認めていくところ、受け入れることが大切であり、それが「人間になること」や、「目指すべき世の中、社会」に向けた一歩になるのではないでしょうか。(宗教部)
新型コロナウイルスワクチン大学拠点追加(3回目)接種における本学の対応について
2022.03.04
学校法人光華女子学園は、新型コロナウイルスワクチン大学拠点追加(3回目)接種を、以下のとおり実施する予定です。
◆実施時期:2022年4月23日(土)、24日(日)の2日間
◆実施場所:京都光華女子大学 瑞風館1階
◆接種対象:学生、教職員、近隣住民等
◆使用するワクチン:モデルナ社製
【本件のお問い合わせ先】
学校法人光華女子学園
新型コロナウイルスワクチン接種対策チーム
[E-mail] vaccine@mail.koka.ac.jp
京都光華公開講座「認知症とフレイル予防」のご案内
2022.03.01
京都光華女子大学地域連携推進センターでは、一般の方を対象とした生涯学習の場として、本学の教育特性や知的財産を生かした公開講座を開催しております。
このたび、健康科学部を擁する本学として、地域の皆さまの健康的な日常生活を願い、下記のとおり公開講座を開催いたします。
また、健康創造キャンパスを目指す本学は、昨年11月に、「光華もの忘れ・フレイルクリニック」を開院しました。本院はもの忘れ(認知症)やフレイル予防等により、地域の皆さまの心と健康に寄り添ったクリニック運営と医療福祉分野に有効な実践力・応用力を身に着けた人材養成の場を目指しております。ご自身、ご家族の体力や気力の低下を感じておられる方、健康長寿にご関心のある方等に、日常生活を健やかに送るための心がけに生かしていただけると存じますので、ぜひご参加いただきますようお待ちしております。
記
1.日時:2022年3月21日(月・祝)10時00分~12時00分
2.会場:京都光華女子大学 徳風館小講堂
3.実施内容:1部 基調講演、2部 パネルディスカッション
▽実施内容について
1部[基調講演]
講題:「認知症とフレイル予防」
講師:秋口一郎氏(康生会武田病院神経脳血管センター長、京都認知症総合センター顧問・支援研究所長、本学客員教授)
2部[パネルディスカッション]
テーマ:「フレイルを予防し、健康寿命を延ばそう」
コーディネーター:上田敬太氏(本学健康科学部医療福祉学科教授、光華もの忘れ・フレイルクリニック院長)
パネリスト:秋口一郎氏(基調講演講師)
石川光紀氏(石川医院院長)
関道子氏(本学健康科学部医療福祉学科准教授、言語聴覚士)
4.対象:地域住民、医療福祉関係者、行政関係者、一般高校生・保護者、学内生徒・保護者、教職員等
5.申し込み方法(事前予約制、参加無料)
・Googleフォームでの受付
Googleフォーム
・メールまたは電話での受付
mail:chiiki@mail.koka.ac.jp
TEL:075-325-5259
※下記①-③の項目をお知らせください
① 氏名(ふりがな) ② 電話番号 ③ 3/21京都光華公開講座参加希望
感染症拡大状況に応じて、中止延期または開催方法が変更となる場合があります。
この場合、お申し込みの方にご連絡いたします。
6.問い合わせ先
京都光華女子大学 地域連携推進センター 〒615-0882 京都市右京区西京極葛野町38
電話:075-325-5259 (受付:平日9:00~17:00)
メール:chiiki@mail.koka.ac.jp
ウェブ:https://www.koka.ac.jp/crc
以上
※詳細はクリニック開院記念公開講座チラシをご覧ください。
2021年度「学園太子忌」を行いました
2022.02.24
2月22日(火)、本学光風館講堂で学園太子忌を行いました。
学園では、お釈迦様の誕生を祝う「学園花まつり」、宗祖親鸞聖人のご命日に聖人のご遺徳を偲ぶ「学園報恩講」、そして、聖徳太子のご命日に太子のご遺徳を偲ぶとともに、太子が日本にお広めになった仏教の教えを聞思する「学園太子忌」を学園三大行事として営んでいます。
法要では、各校園代表(学生・生徒・児童・園児代表)や教職員が参加し、献灯、献華、勤行に続き、小澤千晶教授(真宗文化研究所所長)による法話が行われました。
法話では、捨身飼虎図(菩薩(ブッダになる前の釈尊)が飢えたトラを救うために自らの身体を差し出す物語)を取り上げ、「優劣」や「上下」で人を見るのではなく、同じ弱さやもろさのある者として、共に生きようとする心を自分の中に確かめることが大切であるとお話されました。最後に、参加した学生生徒等に対し、皆さんが今学んでいることは、これからよりよい社会をつくっていくために必要なことであり、他者を理解し、さまざまな人と共に生きていくために学んでほしい、と結びました。
2021年度「涅槃会」を行いました
2022.02.15
2月15日(火)、本学園慈光館太子堂にて、釈尊(お釈迦様)入滅の日(=ご命日:2月15日)に、釈尊への報恩の意を表し、み教えを改めて聞思する機会として、涅槃会が行われました。
参加者は、在校生を代表して中学1年生と教職員でした。
司会より、本尊の脇に映し出された大涅槃図を観ながら、お釈迦様が出家をされ、お悟りを開かれたことや、沙羅双樹のもとで亡くなられた様子についての説明がありました。
音楽法要、勤行に引き続き、阿部恵木理事長(学園宗教部長)による法話が行われました。
阿弥陀仏の本願についてご説明された後、おとぎ話「かさじぞう」の話を例に挙げ、人間は自分の欲望を優先させると周りが見えなくなる、これに気づき、周りを見ることができた時に、おもいやりの心を持つことができるとお話されました。
最後は、参加していた中学1年生に向けて、宗教行事等に参加し、お釈迦様の教えを学び、触れたりすることで、仏さまの願いである光華の心(向上心、潤いの心、感謝の心)を持とうと心がけるようになってほしい、と結びました。
諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。 『大般涅槃経』
2022.02.01
日本では、お釈迦さまがお亡くなりになった日を二月十五日として、各地の寺院では、お釈迦さまのご遺徳を偲び、教えを聞思する法会(涅槃会)を営んでいます。この涅槃会には、お釈迦さまの最後の様子を表した「釈迦涅槃像」や「釈迦涅槃図」をおまつりします。その像や絵図には、最後の遊行(伝道の旅)を終え、生まれ故郷のヒマラヤの麓の釈迦国への帰途、故郷を目前にしたクシナーラーの沙羅双樹の下に床を設えてもらい、疲れた体を休め、最後の説法をされました。そして、頭をヒマラヤの方角の北に向け、右脇を下にして横たわり、静かに瞑想に入り、そのまま永遠の涅槃に入られました。その時、お釈迦さまの周りには、お弟子の比丘たちをはじめ生きとし生けるものが集まり、悲しみにくれながら見守っている様子が表されています。「涅槃」とは、煩悩を克服して、さとりの智慧を完成した境地を言い、お釈迦さま(覚者)が亡くなったことを表す言葉(「入涅槃」など)としてもつかわれます。
今月の言葉は、お釈迦さまの晩年の遊行、ラージャガハ(王舎城)からお亡くなりになったクシナーラーにいたる道程と、その途中の事跡や説法などを記した『大般涅槃経』にあります。お釈迦さまの死に直面し、嘆き悲しむ比丘たちに「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう」と呼びかけ、説かれたお釈迦さま最後の言葉とされています。お釈迦さまは、比丘たちに、全てのものは常に変化して、少しの間もとどまっていない。生命(いのち)を受けたものは死に、形あるものは滅びる。私たちも例外ではない。これが無常の世界の真実の相なのだ。だから、こうした無常を生きる私たちは一瞬一瞬が大切であり、怠ることがないように仏道修行につとめなさい。と、説いておられるのです。この言葉は仏道修行をする比丘たちへの言葉だけではなく、無常の命を生きる私たちへの教えでもあるのではないでしょうか。(宗教部)
和
2022.01.07
今月のことばは「和」です。
皆さんもご存知のとおり仏教を日本に広められたのは聖徳太子と言われており、浄土真宗の宗祖親鸞聖人も皇太子聖徳奉讃で「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ(日本に初めて仏教を説きひろめてくださった聖徳太子の広大な恩徳は、 どれほど感謝してもし尽くせるものではない。 その教えにしたがって一心に阿弥陀仏に帰命し、 敬いたたえ続けるがよい)」と詠まれたように、聖徳太子を大変尊敬されています。この聖徳太子が仏教を政治の理念とし定められた十七条憲法で、第一条を「和を以て貴しとなす」とされたことにより、仏教の目標である「和」が日本人の価値観に深く根づいたのではないでしょうか。
和というと皆さん平和ということを思われると思います。世界平和は誰しもが願うことでしょうし、安らかな憩いの場としての平和な家庭を望まない人もいないと思います。また人間関係のストレスや自分の思いと現実とのギャップなどに悩まされ、心の平和を望むのも人間の普通の姿だと思います。それではこの平和を得るためにはどうしたらよいのでしょうか。多くの方が平和を望むなか、自分の思う平和で周囲を抑えつけ、自分の平和を勝ち取ろうとする人もいます。また自分が我慢し続けまるく収めることで、平和を保とうとする人もいます。これらで真の和は得られるでしょうか。勝ち取った平和には常に抑えつけられた人が出ますし、我慢し続けても人間いつかは耐えられなくなるものです。「和」とは相反するすべてのものが生かされていることを言うのではないでしょうか。青、黄、赤、白が一色に塗りつぶされるのではなく、それぞれの色が自分の存在を主張しているときにこそ調和が生じます。すべての音が生かされ、まとまってはじめて協和音が生まれます。すなわち、相反するものの中間ということではなく、「和して同ぜず」という姿こそが真の和であり、仏教でいうところの和ではないでしょうか。
和を望んでやまない私たち、一方で「自分がこれほど気を使っているのに、なぜ分かってくれないの」「自分が頑張って仕事をしているから何とかこの職場はもっている」「自分の言うことは全く聞かないね」など、常に「私」を中心に考えてしまう私たち。これでは当然、和して同ぜずには程遠いと思います。聖徳太子は、十七条憲法の第十条で、「我必ず聖に非ず 彼必ず愚かに非ず 共に是れ凡夫ならくのみ」とおっしゃっておられます。「私の彼もみんな凡夫であり、同じように悩み、苦しみ、泣き、愚痴る」ということをさとるとき、「私」に執着している自分が崩れ、和につながる一歩が始まるのではないでしょうか。権力闘争の真っただ中を生きられた聖徳太子が示されたのは、我々にみなと仲良くせよということではなく、和がいかに困難なことであり、自分の心の中に和を得ることがいかに難しいかという自ら味わった経験をもとに、自らを含め、全ての人々の心のあり様の目標として「和」を掲げられたのではないかと思います。
このように考えますと、「和」は相手を責めるのではなく「許す」ということです。近年、この人を「許す」ということがなくなりつつあるように感じます。自分が凡夫であるという自覚が生じた時はじめて人を許すことができ、すべての人々と和していくことができる。蓮如上人御一代記聞書に「信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐべきなり。・・・また信なければ、我になりて詞もあらく、諍ひもかならず出でくるものなり・・・」という言葉があります。信を得る、すなわち凡夫であることの自覚が和への第一歩です。自分もこのことをしっかり意識し、心掛けていきたいと思います。(宗教部)
2021年度「成道会」を行いました
2021.12.08
12月8日(水)、釈尊(お釈迦様)が悟りを開かれた日をご縁に、釈尊のみ教えを改めて聞思する機会として、成道会(じょうどうえ)を行いました。
今回の成道会には、光華幼稚園年長児と教職員が参列し、真宗宗歌や恩徳讃などの仏教讃歌の斉唱・勤行・焼香などを行いました。
法話では、本学学園宗教部小椋厚太氏が釈尊のお悟りまでの道のりに触れ、生きとしいけるものが幸せになる方法として、人は自分一人の力で生きているのではなく、世の中の大きなつながりの中で生かされていることに気づかれたとお話されました。私たちはだれかをうらやましく思う時もありますが、そんな時は今日のお話を思い出し、周りの人や物に感謝の気持ちをもって過ごしてほしいと呼びかけられました。