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2022.05.10

 今月は「忍」を取り上げました。少し前には想像もしなかった厳しい現実への対応を求められる日々の中で多くの「忍・忍耐」を重ねている方も多いと思います。そのような時に恐縮ですが、しばしお付き合いください。

 仏教で「忍」は二種あります。一つは、苦痛に耐え、他者からの罵倒や侮辱にも怒ることなく耐え忍ぶこと。もう一つは法(真実、教え)を深く考察するに耐えることです。このような「忍」は修行上の重要な徳目とされ、「忍耐は最高の苦行」(ダンマパダ184偈)、「真実、心を整えること、施捨、忍耐よりすぐれたものがこの世にあろうか」(スッタニパータ189偈)とも言われています。また、仏陀釈尊は「忍耐論者(忍耐を説く者)」(長部「涅槃経」など)と呼ばれることもあります。

 苦痛や害に耐える「忍」はしばしば「柔和」や「慈悲」と共に語られることから、苦しみに対する怒り等の感情に気づき、その感情を生み出す自分の心を見つめることで、感情に縛られず他者に開かれた心を目指しているといえます。では「法を深く考察するに耐える」とはどのようなことでしょうか。

 「チャンキー経」(中部経典,片山一良訳、423-446)という経典で、宗教者階級バラモン出身のカーパティカが、バラモン教(ヴェーダ)が古くからの伝承に基づいて何が真実で何が虚妄かを判断していることについて釈尊に質問をしています。16歳の若き彼にとって、自分が生きていく伝統における真実の判断の仕方に疑問があったのかもしれません。釈尊は「私はこれを知っている、私はこれを見ている」という根拠がないならば、それは虚妄であり空虚であると答えます。「これが真実である」と言う者に対して貪り・怒り・愚痴の心がないかを確かめことに始まり、意欲を持ち自ら学び続けることが必要と釈尊は語ります。この意欲を生み出すのが「法を深く考察するに耐えること」とされています。

 私たちは、自分なりの考えや理解にこだわり、何が真実かや何を大事にすべきかを見失うことがあります。あるいは、自分と異なる考えを理解することが、不快であったり苦痛と感じたりすることもあります。フェイクニュースが流行るのも、不安や怒りなどの感情に飲み込まれて、目先の答えに飛びついてしまうからでしょう。しかし、自らの不安や怒りを乗り越えるためには、嘘やごまかしではなく、一つ一つ事実を確かめ考えることに耐える必要があります。耐えて学び、心を開いていくことによって、今の不安から少し解放され、学び続ける意欲を生み出すのでしょう。このように「忍」は、心も知恵も鍛錬していくものであることを教えてくれているといえそうです。

2022年度「学園花まつり」を開催しました

2022.04.18

4月18日(月)、本学園において幼稚園から大学、大学院までの全設置校の各校園代表が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。今年度も新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、規模、内容を縮小し開催いたしました。そのため、各校園代表および一部の参加者以外の学生生徒等および教職員は、教室や事務室からオンライン配信の視聴による参加となりました。

 

この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、お釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」を園児~学生はもとより教職員を含めて、今一度自分自身を見つめなおす機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。

 

本学園では、当日は新型コロナウイルス感染症対策を講じたうえで、規模、内容を縮小し、中高バトントワラー部によるパレード、小学生が引く白象の行進、中高吹奏楽部・軽音楽部・コーラス部による讃歌を取り入れた音楽法要的な内容で行いました。また、真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、じゃんけんを例に挙げて、グー、チョキ、パーのどれを出しても負けるときも勝つときもある、負けたからといって“もうだめだ”と決めつける必要はなく“今日はたまたまそんな日”“つぎ、がんばろう”と考えればよいとお話されました。そして、負けることや怒りの感情を持つことはいけないことではなく、人間は弱いけれど、仏さまがおられるから安心だ、と考えて、今日も一日私らしく生きていきましょう、と呼びかけられました。

 

当日は、中学・高校正面玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生が自由に甘茶を灌仏できるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。

呼びかけに育つ

2022.04.05

 人は人との関わりの中で、心豊かに過ごすことはできるのでしょうか。先日こんなことがありました。京都桂川の堤防道路の路肩に脱輪し立ち往生している軽トラックに出くわしました。ドライバーは外国の女性の方で動揺が隠しきれない様子。そこにはたまたま通りかかった非番の警官が1人。警官は何度か車の移動を試みますが、タイヤが空回りして動きません。警官は自分の弟を呼び出し、2人は協力してロープを使って牽引しましたが、うまくいきません(ちなみに、この弟は消防士。兄弟で本当に頼もしい限りです)。時間も経過し夜も遅くなり、心細く不安げな様子のドライバーに周りの人たちは心配して声を掛けました。「会社の車なので会社の方に叱られる。」とつぶやきます。「仕方ないよ…。大丈夫やし。」と私も声をかけました。ドライバーは少しずつ口を開き、話をするようになっていました。しばらくして会社の方が到着し、集まった総勢6人が力を合わせ、なんとか軽トラックを路肩から引き上げることができました。その時、周囲は拍手と安堵に包まれました。このように、予期せぬ事態が起こった時、人は不安に苛まれます。どうしてよいのか迷い苦しみます。しかし、周りの人たちのちょっとした声掛けによって、幾分かは気分が安らぐものなのです。

 私たちは幼少期から今まで、両親や祖父母、先生、友人など周囲の多くの人たちから呼びかけられ育ってきました。「手を洗いましょう」「帰りは何時になるの」「勉強はちゃんとできているの」「元気ないけど大丈夫?」「俺はこう思うけど、お前はどう思う?」など何でもない言葉に励まされたり、気付かされたり、教えられたりし、今日の自分の考え方や価値観、人生観につながっています。ともすれば、私の考えは私が作り上げたのだ、自分が苦労してここまで生きてきたのだと勘違いしてしまいがちですが、決してそうではありません。人は煩悩具足の身であるがゆえ、こうしたことを頭では分かっていても、心から受け入れることができないのです。

 浄土真宗の経典「正信念仏偈」(宗祖親鸞聖人の著書「教行信証」(鎌倉時代初期)の行巻末尾に所収の偈文)に、「南無阿弥陀仏」という名号がありますが、これは、阿弥陀様(仏様)からの呼びかけであります。鎌倉時代の世と何ら変わらず生きづらさを感じる今日であります。迷い、苦しみ、孤独に苛まれる私たちに向かって、「私にまかせなさい、あなたを必ず救うから」と何度も何度も呼びかけられているのです。その呼び声に気づいた私たちが手を合わせて「なもあみだぶつ」と唱えることは、「阿弥陀様におまかせし、日暮らしします」という感謝の意味であり、安心をいただくことになるのです。わかりやすく言うと、お母さんが「ご飯よ」と声をかけると「はあい」と答えます。親は繰り返し呼んで、子はその呼びかけに答え安心するということなのです。

 こうして考えますと、日々お念仏を申すことはもとより、周りの呼びかけに対して心で聴こうとすること、そしてその呼びかけにこたえようとすること自体が、心豊かに過ごす方法であると考えるのです。(宗教部)

公開講座「認知症とフレイル予防」を開催しました

2022.03.28

3月21日(月)、本学にて公開講座「認知症とフレイル予防」を開催しました。
本学は健康創造キャンパスを目指し、昨年11月に、「光華もの忘れ・フレイルクリニック」を開院し、もの忘れ(認知症)やフレイル予防等により、地域の皆さまの心と健康に寄り添ったクリニック運営と医療福祉分野に有効な実践力・応用力を身に付けた人材養成の場を目指しております。
この講座は、健康科学部を擁する本学として、ご自身、ご家族の体力や気力の低下を感じておられる方、健康長寿にご関心のある方等に、日常生活を健やかに送るための心がけに生かしていただくことを目的として開催しました。

 

 

本講座は2部構成で行われ、第1部の基調講演では「認知症とフレイル予防」と題し、秋口一郎氏(康生会武田病院神経脳血管センター長、京都認知症総合センター顧問・支援研究所長、本学客員教授)にご講演いただきました。
講演では、フレイル※や認知症についてデータに基づき説明いただき、認知症リスクを減らすには健康的な食生活や適度な運動など、日々の生活習慣が重要であるとお話いただきました。

 

 

第2部では、上田敬太氏(本学健康科学部医療福祉学科教授、光華もの忘れ・フレイルクリニック院長)コーディネートのもと、「フレイルを予防し、健康寿命を延ばそう」と題したパネルディスカッションを行いました。
パネリストとして、秋口一郎氏、石川光紀氏(石川医院院長、内科・神経内科)、関道子氏(本学健康科学部医療福祉学科准教授、言語聴覚士)にご登壇いただき、症例を交えたフレイルの説明をはじめ、社会的フレイル・心理的フレイル、オーラルフレイルなどさまざまな視点からみるフレイルについてお話いただきました。お話の中では、大学や行政が行っている取り組み等もご紹介され、家庭や社会の中で自らに役割があることや生活の中に習慣化した行動があるとよいなど、フレイル予防につながるお話が展開されました。また、介護保険制度や介護者側に対するお話にも発展し、来聴いただいた皆さまも熱心にメモを取り聴き入っておられました。

 

 

 

本学は、今後もすべての人が健やかに暮らせる“Well-Being”な未来の実現を目指し、学生一人一人に、そして地域に寄り添い、社会の要請に応えてまいります。

 

※フレイル:健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のこと

新校舎の竣工式を挙行しました

2022.03.25

3月22日(火)、学園関係者および設計・施工関係者等の列席のもと、五条通り南側校地に建設していた光華小学校・京都光華中学校・京都光華高等学校の新校舎の竣工式を挙行しました。

 
竣工式は、勤行に始まり、本建設に当たりご尽力いただいた株式会社安井建築設計事務所、株式会社スペース、株式会社鴻池組の各社へ、阿部理事長から感謝状が贈られました。阿部理事長の挨拶の後、新校舎前で学園幹部や工事関係者によるテープカットを行いました。

 


新校舎は経典『仏説観無量寿経』にある文言「天下和順日月清明風雨以時災厲不起国豊民安兵戈無用崇徳興仁務修礼譲」からとられています。児童生徒たちが、和があり温かみのある同朋の関係性の学び合い、穏やかな未来を創っていってほしいという願いに基づき、「和順館」と名付けられました。
阿部理事長は挨拶でこの名称について、単に穏やかでありましょうということではなく、この校舎で学ぶ子どもたちが仏さまの働きを大切にする本校での学びを通し、自らの知恵では和順たりえない私たちの姿に気づいてほしい。そして、同朋としての歩みを踏み出し、和らぎのある生活を過ごされ、心豊かに成長されますことを願っていますと語られました。

 

今回、完成した新校舎「和順館」は、「光華ビジョン2030」から、「ワクワク感」をベースとして「光華らしさ」「京都らしさ」「環境への取り組み」をキーワードに、コンセプトを「光のもとで学ぶ、現代の寺子屋」として、かつて子どもたちが思い思いに楽しみ、学びあった“寺子屋”をモチーフとした空間を展開しています。
小学生と中学生の普通教室、コモンスペースを配置するほか、1階にはアクティブラーニング等の学習にも対応可能なスペースとして多目的に使用できるホール、2階にはライブラリー、東館側には音楽スタジオ、工作スタジオを設置し、3階は東館と新棟西側にかけて、伝統文化教室ゾーンを形成、4階は小学校・中学校の理科教室と、先進的な学習環境、行き届いた安全・衛生・エコ環境、地域のランドマーク的外観を有する施設となりました。
異学年交流学習等の多様な学習形態に対応した学習活動ができる教育空間施設とし、小学校・中学校・高等学校が連携して取り組む12年間を見通した教育に相応しい柔軟な教育環境に整備されました。

アンチェイン

2017.10.19

今月のことば「アンチェイン(Unchain)」は、直訳すると「鎖を解く、解放する」という意味の動詞です。また、「Unchained」という形容詞にすると「鎖につながれていない、自由の身になった」という意味になります。あまり使わない単語・表現だと思いますが、私は意味のない何かに縛られることによって悩んだり、不安になったりとポジティブになれない自分を戒めるため「縛られない」という意味でこの言葉を使っています。

親鸞聖人に師事した唯円が、聖人亡き後の異説を歎き、聖人の教えや信心を伝えようと聖人のことばを書き残したと言われている『歎異抄』の第七条に、「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)地祇(じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々(現代語訳:念仏は、無碍の一道である。その理由は、信心の生活者に対しては、天の神・地の神も敬ってひれ伏し、また、人間の生活を脅かすものや、人間の理性を誘惑するものなどにも引きずられることはないからである。自分のおかしてきた罪の結果も、自分を脅迫するものとして感ずることはない。また、人間のつくるどのような善も、如来の大悲のはたらきには及ぶものではない。だから、念仏は無碍の一道なのである(親鸞仏教センター訳))」とあります。

私たちは、何か分らないこと、不思議なことがあるとそれに意味(忌み)づけをし、納得しようとします。例えば、方角や日の良し悪しであったり、悪いことが起これば祟りといったり、土地や現象に神を宿したり、また気味の悪いモノを幽霊がいるといって恐れを抱いたりします。また、自らが犯してしまった罪悪を引きずり続け、また、善い行いをするべきだと自分が「善いと思うこと」に捉われ悩んでしまいます。

仏教とはそもそも、「何かができるようになる」という教えではありません。このような真の自分の姿に気づき、どのような心がけで生きていかれますかという問いかけだと思っています。親鸞聖人はそれを無碍の一道、「何かにしばられるものではない生き方」とおっしゃっているのではないでしょうか。何かよく分からない、理解できないものに対してさまざまな意味づけをし、それに捉われてしまう私たち、悪い行いを引きずり悩み続ける私たち、善いと思う行いをし、それをしない人を見て苦しむ私たち、そんな私たちに対し、「自分で意味づけしたにすぎないことですよ」、「ちゃんと慙愧の念を持ったのであればそれでいいのですよ」、「他者と比較する必要はないのですよ」、そして「このような私たちの真の姿に気づき、そのような全てから解放された生き方をすることが念仏者の生き方なのですよ」とおっしゃっているのではないでしょうか。

いろいろな不安や悩みを抱える私たちに対し、「それでいいのですよ」とそこからアンチェインする心がけを示してくれる、それが親鸞聖人の説かれたことではないでしょうか。

「君はそのままでいいんじゃないか」 佐賀枝夏文「君はそのままでいいんじゃないか」 東本願寺出版部 2014年

2017.09.19

人は他人と比べてしまう生き物です。自分は他人と比べて劣っていると感じ、自分が嫌いだと思っている人もいるのではないでしょうか。

仏説阿弥陀経にも名前が登場する周利槃陀伽(しゅりはんだか)という仏弟子がいました。彼は釈尊の弟子でしたが、物覚えが悪く、自分の名前でさえ、なかなか覚えることができませんでした。周りからもダメな弟子だと言われ、周利槃陀伽はそんな自分を愚かに感じていました。釈尊は周利槃陀伽に、掃除をしながら「塵を払い、垢を除かん」という短い言葉だけを称え続けるように言います。周利槃陀伽は言われた通りに、毎日掃除をしながらその言葉を唱えているうちに、「塵と垢」は、教えを聞いて知恵をつけることが良いことだと思っている自分の執着心であるということに気がつきました。

人は自分の勝手な思い込みや価値観で物事の良し悪しを決めつけてしまいます。たくさん勉強して知識をつけた人が優越感や傲慢さを持つことだけでなく、周利槃陀伽のように自分はダメな人間だと感じてしまうことも、どちらも自分をよく見せよう(よく見られたい)と思う心に執われています。このような執着心は誰もが持っているもので、この「執われの心」に気づき、自己に向き合うことが大切なのではないでしょうか。

親鸞聖人もずっと自己と向き合っていた人でした。親鸞聖人は「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃)と詠まれ、教えをたくさんの人に伝えていく中で、念仏者が増え、先生と呼ばれることを喜んでいる自分を自覚し、名利心がでている自分を嘆いています。

他人と比べる必要はなく、あなたはあなただけの価値があるのです。ありのままの自分を受け入れるためにも、今回の言葉が自己と向き合い、自分を見つめなおすきっかけになればと思います。(宗)

「考えてみると、人生には、世渡りと、
ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。」
岡本 太郎 「美しく怒れ」角川書店 2011年

2017.08.19

岡本太郎は1911年に人気漫画家岡本一平と歌人岡本かの子の間に産まれ、1929年、18歳でパリに渡りました。パリ大学で民族学や哲学を学び、多くの芸術家や学者と親交を結び、およそ10年を異国の地で過ごしました。ドイツ軍のパリ侵攻をきっかけに帰国し、1942年には召集されて中国へ出征します。終戦後に東京都内にアトリエを構えてからは、大阪万博の展示プロデューサーや「太陽の塔」の制作など、執筆活動やテレビ出演など多岐にわたり活躍しました。

彼が、強い個性を持った両親や、海外渡航がまだ珍しい時代のパリ生活など周囲とは相当に異質な環境を経験してきた事は間違いありません。せまい内輪の世界に閉じこもりようがない環境が、生きるとは何か、自分がほんとうに求めるべきものは何かを常に考え、問い続けるスタイルを培ったのでしょうか。

「自分の目、手だけでふれる、だからこそ危険な道をきり ひらいてゆくべきだ。決して遅くはない。あきらめて、投げて しまってはならない」(87頁)との文章からも、自分の道を 見出し、生きようとするつよい覚悟が感じられます。

学園は夏休み期間に入りました。本学に入学してから自分の世界が拡がったでしょうか。追究したいテーマと出会えそうでしょうか。それらを求めてこの夏休みは、普段はできないことをしてみることを勧めます。例えば読んだ事のない分野の本を読んでみる、初めての美術館を訪ねてみる、外国の街を歩き、風に吹かれ、匂いや聴こえてくる音に耳を澄ますなど、五感を活かして身体全体で何かを感じ、見つけてみようと行動してみてはどうでしょうか。

自分にとってのほんとうを生きたいと願う意志と、一歩を踏み出す少しの勇気が、 あたらしい世界への扉をひらきます。(宗)

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」
星野富弘

2017.07.19

「いのちを大切にしましょう」ということは、どこでも聞かれる言葉です。子どもの頃から幼稚園・保育園でも、学校教育でも先生から言われてきたことですし、家でもそう教えられてきたことでしょう。でも、これは実際には難しいというのが、世の中を生きるということなのです。 「どうすることが」いのちを大切にすることなのでしょうか。なるべく気をつけて交通事故にあわないことでしょうか。1秒でも長生きすることでしょうか。

「価値のあるいのち」と「価値がないいのち」というように、私達の「ものさし」で人のいのちをはかることがあります。これは大変悲しいことではありますが、世の中がどうしても価値があるか、ないかという「ものさし」で動いているものですから、元気で働けるうちは価値があり、病気になったり年をとったりすると価値がなくなったと捉えてしまう。 そんな中で「いのちを大切にする」というよりも、世の中の「ものさし」の方を大切にしてしまうことが多く、その「ものさし」に振り回されているから、私達は苦しい思いをし、悩んでいくのだと考えられます。

『今月のことば』は星野富弘さんの言葉です。星野富弘さんは元高等学校の体育の先生でした。鉄棒の模範演技の折に事故で、頭は正常ですが、身体の自由を失われ、今は絵筆を口にくわえ多くの作品を発表され活躍されています。その作品は多くの人々に感動と生きる喜びを与えており、今月のことばはその絵画の一つに添えられた言葉です。

注目したいのは、「いのちより大切なものがある」という言葉であります。このように提起されていますが、「いのちより大切なもの」とは一体どんな「いのち」なのでしょうか。星野さんはそのことには触れていません。しかし、いのちより大切なものに出会われたことは、思い通りにならない人生の中にあっても、生き生きと輝いて自分らしく生きていける場を見つけられたのだと思います。それは現実から逃げるのではなく、それを引き受けて生きる自分になられたことを表現しているのです。

私の都合という「ものさし」を打ち破るはたらきに出遇うことが「いのちより大切なものが見つかる」ということだと星野さんに教えられます。(宗教部)