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「宗教心というものは お節介かもわからんけれども
他人のいのちが 気になるときや」
藤元正樹

2017.06.19

人間というものはともすれば自己中心的な生き方をするものです。
知らず知らずに人を傷つけたりすることもあります。
親鸞聖人は田舎の人々を「かれら」と言ったのではなく「われら」と名のりました。
そこに共に生きる姿勢が親鸞聖人が顕らかにした
「他人のいのちが気になるとき」であるという宗教心がうかがえます。
宗教心を振りかざす時は、いのちが見失われる時であります。
本当の宗教心は「見失ってきたいのちの発見」であると教えてくれた大切な言葉です。

「この二人の者たちは世に得難い。二人とは何か。先に行う者と、知恩報恩の者とである。」(増支部)

2017.05.19

今回は本学園にもゆかりのある「知恩・報恩」を初期経典の一節から紹介します(『原始仏典III 増支部経典』第一巻、p.150)。
まず、「知恩報恩の者」とともに「得難い」とされている「先に行う者」とはどのような者でしょうか。
増支部経典は、教えを数ごとにまとめた短編の経典集です。今月のことばは、2の章からの引用ですが、3の章では、3つの生じ難いものとして、仏の出現、仏の教えを説く者の出現、そして知恩報恩の者の出現が挙げられています。また、5の章では、仏の出現、仏の教えを説く者、仏の教えを理解する者、その教えを実践する者、そして知恩報恩の者が得難い者たちとして列挙されています。これらの経典から「先に行う者」とは、生老病死をはじめとする苦海の彼岸を求め、そこへと渡った仏と、その仏を追い日々努める者たちといえるでしょう。
彼ら「先に行う者」たちは、いわば「先輩」です。そしてその「先輩」の足跡は、「後輩」すなわち後に渡ろうとする者の道しるべとなり、それゆえに援助となります。
つまり、知恩・報恩の者とは、先人たちの中に自分と同じ目標を掲げる「先輩」がいることを、そして、自分がその「先輩」たちの「後輩」であることを認め、その「先輩」たちが残した足跡が、進み行く自分への援助となることを知っている者たちということです。「後輩」は、目的を共有する「先輩」に出会うことで、目的の地がどの方向にあるか、そして、自分自身がいま目的の地への途上のどこにいるかを確かめることができるロードマップを手にするのです。それゆえに、「後輩」は、ロードマップを渡してくれた先輩の恩を知り、自分のためだけでなく、その恩に応えるために、目的の地にたどり着くべく努力する者となります。
新年度を迎え、本学にも多くの新入生を迎えました。また、2年生以上の学生・生徒たちも一つ上のステップに進みました。新入生も、上級生も、これから始まる新しい学校生活や、次の1年に、不安とともに夢や希望を抱いていることと思います。 夢や希望を実現していくときに大切なのは、何よりもまず自分の足元を確かめることです。自分の現実の確かめがあって、はじめて夢は具体化されて、実現への道程が見えてきます。そして、正しく自分の現実を確かめ、夢を具体化し、それを実現する道筋を見出すためには、先輩に出会う必要があります。次の自分の未来を手探りし始めたみなさんにこの今月のことばを送りたいと思います。自分で自分の限界を決めず勇気を持って、自分の先輩を見つけ出してください。(宗教部)

「 聞思して遅慮することなかれ 」『 教行信証 』「総序」

2017.04.19

桜の開花とともに新たな学びの仲間を迎えて、共に新たなる第一歩を踏み出す季節となりました。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。今日を迎えられたということは、多くの先生や友人、家族、その他の有縁の方々のおかげであることをどうか忘れないでほしいと思います。これから歩まれる道は、未知との出遇いの連続となることでしょう。その中には、よき師、よき友、新たな教え、そして、これからの人生を決定する大きな出遇いもあるでしょう。人は出遇いとともに成長するものです。その出遇いを通して自分が進むべき道をしっかりと見定めてください。
この言葉は、宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」にある言葉です。「人生を歩むときには、本当に大切にして依り処となる真実の教えをよく聞き考えて、疑いを挟まずためらってはならない」と記されています。ただ聞くだけ、なるほどと単純に思うだけで終わるのではなく、それが人生にどういう深い意味を持つのか、自らの問題として捉えて問いを見出し思考することが大切なことであり、そのことによってその教えがかけがえのない確かな生きる依り処となり、迷わずに前へ進むことができるようになると教えています。
人生における多くの出遇いの中で、たった一人の人との出遇いが人生そのものを根底から変えることがあります。親鸞聖人においては二十九歳の時、よきひと(師)である法然上人と感動に満ちた決定的な出遇いをされました。この出遇いの感動と感謝のこころを憶念しながら、よきひとの仰せのままに人生の確かな依り処として一途に信じて、終生、その恩に応える人生を歩まれました。その親鸞聖人が最も大切にされた根本姿勢、学びの方法が「聞思」であったと言えます。よきひとの教え(=真実の教え)に一切疑念を持つことなく、確信を持って生涯ひたすら聞思されました。将に聞思して遅慮することのない姿であったと言えます。
現代社会は、経済至上主義が横行する中、偏った価値観、基準のもとですべてが評価され、その結果、多様性と公平性が失われ、分断と孤立を引き起こしています。また、ネット社会の発達により情報が氾濫し、それらに振り回されることによって何が真実であるのかを見定めることが極めて難しくなり、疑い、ためらい、自分が進むべき道を見失うことさえあります。このような社会だからこそ、絶え間なく聞思して人生を正しく照らす真実の教えを聞き思考して、その教えを自らに問いかけて自分という存在を顕かにして真の依り処を見出すことが最も大切なことだと思います。
新たなる第一歩を踏み出す皆さんには、人生のあらゆる場面、事象においてそれが自分にとってどのような意味を持つのかを聞思すること、そして、人生の依り処となる真実の教えと自分にかけられている大きな願いに出遇われることを切に願います。(宗教部)

 

「病いが また一つの世界を ひらいてくれた 桃 咲く。」 坂村 真民

2017.03.19

私事ですが1年程前に病気をし、少し前に怪我をしました。
どちらも予想外の出来事で、日常生活にも支障をきたす生活に、なんでこんなことになったのかと不自由を嘆く気持ちが抑えきれませんでした。職場でも家庭でも周りに迷惑をかけているという申し訳なさで心まで萎れていました。そんな中、家族や友人、また職場の方が常に支えになってくれ、その言葉に言動に、常にありがとうと感謝する毎日を送ることができています。また、この経験がなければ気づけなかった人の優しさや痛みを存分に知ることができました。これはとてもありがたく、大きな経験だったと思います。
昨年末、知り合いの70歳のご住職が「自分は20歳の時に父親が亡くなって、そこから50年間住職をしているが、最近体のあちこち不自由になって初めて真摯にご門徒さんの声が耳に入ってくるようになった。」とおっしゃいました。それまでは、どちらかというと自分は住職だという誇りから「教える」立場でお話されていたそうです。「わしは少し上からものを言うてたんやね。」と恥ずかしそうにおっしゃって、「今は足腰が痛い、ここそこが病気でしんどいとおっしゃるご門徒さんには、痛かろうねと心から寄り添える。偉そうに法話をしなくてもずっと黙って一緒に時間を過ごせるようになったんや。」と話してくださいました。同じ話を聞いても、人は自分の経験値や感性でその話を判断しますから、自分の受け皿に合った分の話しか受け取れないのだと感じます。怪我や病気、失敗等で育った受け皿は人の痛みも受け取れる大きな器になっていくのだと思いました。それらは、仏様からいただいた賜り物なのかもしれません。親子ほど年が違うこのご住職は、私のことを友人だと言ってくれます。格好つけずに自分の話をしてくれるご住職の受け皿は、元々大きなお皿だったと思います。そんなご住職の思い、その他にも傷ついた気持ちを持った人たちの思いを余すことなく思いを受け取れる受け皿を、感謝の気持ちとともに自身も育てていけたらと思います。(宗教部)

「世間は虚仮(こけ)なり。唯(ただ)、仏のみ是れ真(まこと)なり。」 聖徳太子「天寿国繍帳銘」より

2017.02.19

推古天皇30年(622)2月22日、仏教興隆につとめられた聖徳太子が亡くなりました。「今月の言葉」は、聖徳太子が亡くなる前に、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)に捧げられた言葉で、太子の仏教理解の深さを示すものとされています。太子の死後、橘大郎女は太子が往生されたという天寿国(浄土の世界)を刺繍で表し、その中に「世間虚仮 唯仏是真」と織り込ませ、太子を偲ばれました。それがこの言葉です。

聖徳太子の時代の日本は、氏族間での権力争いが続き、まだ統一された国家として定まらない、近隣国からも国として認められていない状態でした。そうした中、太子は推古天皇の摂政となり、近隣国も認める平和な「国家づくり」につとめられました。なかんずく、「国づくり」の基礎ともいうべき「人づくり」を大切にされました。太子は、「人づくり」には人間を正しく理解することが大切で、仏教の説く人間理解でした。太子は、人間を執着(我執)から離れられず、煩い悩みをもつ生きものである。即ち「皆凡夫である」と理解し、仏教を「四生(生きとし生けるもの)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(依るべき教え)」として位置づけられ、『十七条憲法』の制定を始め、全ての活動の根底に置かれました。

しかし、こうした太子の努力の中にあっても対立や戦はおさまらず、理想のすがたの実現の難しさを痛感されたことと思われます。今月の言葉は、太子の透徹した眼で捉えられた世間を、妃橘大郎女に示す教えであったのではないでしょうか。太子の業績のひとつ『法華経義疏』の中にも「聖義は是れ実、世事は是れ虚なり」と講じられています。(宗教部)
※「天寿国繍帳」の残片が奈良中宮寺に現存し、その残片中に銘文がある。国宝。

「軌道修正」

2017.01.19

新年明けましておめでとうございます。 さて、平成29年最初の言葉は「軌道修正」という言葉です。皆さん、「軌道修正」とお聞きになり、どのようなことを想像されますか。辞書などによると「物事の進むべき方向のズレを正すこと、誤った方向に進みつつある状態を本来目指すべき方向へ進むように修正する」と書かれています。

そこで、少し仏教の教えに触れながら考えてみたいと思います。お正月といえば神社などへ初詣に行ったりするのが元旦の日本人の習慣のようにいわれていますが、仏教寺院では元旦の仏事「修正会」が行われます。本学園でも毎年年初めの宗教行事として、「修正会」を厳修しています。これは中国の年始の儀式が日本に伝わったもので、前の年の悪を正して新年の天下泰平などを祈る法会として奈良時代初めから国家規模で各寺院などで行われて広がりました。

浄土真宗の修正会は、初詣のように寺にお参りをして何か願い事を叶えようという所ではありません。実際に家内安全・交通安全・合格祈願をお念仏でお願いしても何も起こりません。でも、その様な目先の願望や様々な出来事にいつも右往左往して私たちは自分の「本当の願い」を見失って生きているように思います。そうして生きていかざる得ない私の目を絶えず覚まさせるようとするはたらきがお念仏「南無阿弥陀仏」となって私たちの所まで伝えられてきたということを浄土真宗は教えています。

ところで、元日の初日の出に合掌するのに二種類の人がいるそうです。一つは願い事をする人です。「今年一年健康でありますように」「良い人に巡りあいますように」など。もう一つは一年の決意を誓う人です。「絶対に希望校に合格するぞ」「仕事頑張るぞ」など。 皆思いは違いますが初日の出を拝むというのは良いことだと思います。一年の計は元旦にありといいますが、寝正月で過ごすよりも、その年一年引き締まった年になりそうな気がします。しかし、皆さんどうでしょうか。元旦の日の出は拝むけれども年の最後夕日を拝みますでしょうか。今年一年、お蔭様で過ごすことができました、その様な気持ちで手を合わせるということです。私たち人間は、夢や希望、願いや決意というのはしばしば語りがちです。それはそれでとても大事なことですが、本当に大事なのは「感謝」の心ではないでしょうか。もっと言えば、一日一日に感謝することが大切です。当たり前だと思うことが実は当たり前でない、生きているのでなく生かされている。偶然の連続ということです。

皆様におかれましては、今年一年、今までの生き方を見つめ直し、夢や希望、願いや決意を持ちつつ、一日一日一瞬一瞬に感謝の気持ちを持って過ごしていただきたいと思います。これらを実践する者こそが正に「光華の心」の実践者だと思います。(宗教部)

「一番の近道は遠回り。」

2016.12.19

先日、本学園の奨学会(保護者会)が児童・生徒・学生と保護者対象に行った教育講演会でシンクロナイズドスイミングの井村雅代さんのお話をお聞きする機会がありました。ご存知の通り、井村さんは日本代表コーチとして多くのメダリストを育てられ、リオオリンピックでも日本代表を銅メダルに導かれたことは記憶に新しいのではないでしょうか。

講演会で井村さんが一貫しておっしゃられたことは、大きな目標を達成するためには、技術的・身体的な成長を追い求めるトレーニングも大事だが、実は目標に向かって頑張り続けられる「こころのトレーニング」が一番重要だということでした。  これとよく似た話をMBLで活躍されているイチロー選手も対談で語っておられます。

イチロー:(野球がうまくなるコツの)情報が多すぎてどれをピックアップしていいかという問題はあります。
対談者 :まぁ今そういう時代で知識がありすぎる。
イチロー:頭でっかちになる傾向はあるでしょうね。
対談者 :でも、最短でいける(うまくなる)可能性もあるじゃない。
イチロー:無理だと思います。
失敗をしないで、まったくミスなくそこにたどり着いたとしても深みは出ない。
単純に野球選手としていい物になる可能性は、僕はないと思います。
単純に野球選手としての作品が良い物になる可能性があったとしても、やっぱり遠回りする事って大事ですよ。
無駄な事って結局無駄じゃないっていう言葉が大好き。今やってる事が無駄だと思ってやってるわけじゃないですよ。無駄に僕は飛びついているわけじゃないですけど、後から思うと無駄だったという事はすごく大事なこと。
だから合理的な考え方ってすごく嫌いなんです。
遠回りすることが一番近道だと信じて今もやっています。

人は「果」を求めるものです。「果」を出すために何をすれば良いのか、しかも最短の方法でということを求めてしまいます。仏教ではこうした考え方に対し、「果」を求めない生き方を説いています。自分は何がしたいのか。結果をあれこれ考えるのではなく、ましてや人と比較してどうだということでもなく、まず自分の問題として自分がどうしたいのかということをしっかりと見極め、それに向かって精一杯努力をすれば良い。そうした生き方こそが自分にとっての「果」であるという考えです。

「果」だけを求めていると、人は近道をしたがるものです。近道をしてしまうと本来の目標を見失うかもしれませんし、結果によってはやる気も次第に失せていきます。大切なことは「本来の目標に向かおうとする意志」ではないでしょうか。その意志さえあれば、何回失敗しても、目標に向かって歩み続けているのだから、いつかは目標を達成する。このような心掛けで生きていきたいものです。(宗教部)

「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」
『一枚起請文』より

2016.11.19

源智の求めに応じて書かれたものであるといわれています。そこには教養の有無や学問は往生の役にたたず、知識のあるようにふるまうことなく、ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えることが大切だと説かれています。

法然上人がおっしゃられた「智者のふるまい」とは一体何を指しているのでしょうか。 自分の持っている知識をひけらかし、自慢したり、しったかぶりをしたり・・・。それもあると思います。しかし、もう少し大きな範囲でお言葉を捉えていくと、知識の積み上げによって仏法を理解した者のことを示されているのかもしれません。そこには、自分の物差しで物事を見て、それが正しいと思い込み、とらわれた心で日常生活を送り、過去の情報の寄せ集めで、仏法をいただいたつもりになっている。この言葉は結局のところは私達自身のこととして呼びかけられ、問われているのだと思います。

そしてお言葉では「ただ一向に念仏すべし」と続いています。単に「念仏すべし」ではなく「一向に念仏すべし」です。「一向」を辞書で調べてみますと(ひたむきに・ひたすら)という意味や一つの方向にという意味があります。つまり法然上人は「ひたむきに念仏申しなさい」といわれているのです。

私たちは知識的な立場にあるからこそ、自分の都合でものを見たり、苛立ったり、落ち込んだりして苦しみを繰り返しています。だから、お念仏を通して仏の願いに照らされることで、私こそが、愚かな者であったことを知らしめられ、自分を見つめる機会が与えられるのです。

阿弥陀仏は、私達を深刻な悩み苦しみから救いたいという願いから、私達に「念仏」を施し与えておられます。有り難いことに、本願によって念仏が私達に差し向けられています。それを疑わずに素直に信ずる心が大切なことなのでしょう。施されている念仏をしっかりといただき、一日一日大切にしたいものです。(宗教部)

「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う」
『蓮如上人御一代記聞書』より

2016.10.19

皆さんは、「半年先のコンサート楽しみだなあ」とか「来年からしっかり勉強頑張るわ」等と言った経験がありませんか。私自身は昔、よく言ったものでした。けれどもこの年になると「半年先のコンサートも良いけれどそれまで必ず生きていられるのか。」とか「来年から頑張るわと言っても本当に来年も生きていられるのか。」等ということをよく思うようになりました。

では何故このような事を思うようになったかと言いますと、私の寺では毎年新年に修正会という行事を行い、そこで皆様に新年のご挨拶をさせて頂きます。その時親しくご挨拶させて頂いた方が年末には何人かお亡くなりになられているのです。その方々は「半年先」や「来年」がなかったのです。こんな生活を毎年繰り返していますと本当に今生かされていることが不思議でたまらないのです。いつ終わっても不思議ではない命であることを私は知らされていただいたのです。

釈尊が出家されたのは、老人と病人と死人と沙門に出会われたのがきっかけであると伝えれています。そして釈尊自身もまたいつかは病になり、老い、そして死んでいくものであるということを実感されたのです。それまでの釈尊は一国の王子として誕生し何不自由ない生活をしていました。そしてまわりの人々は人間には必ず訪れる病・老・死という事実があることを考えさせないようにしていました。しかし避けて通ることの出来ない事実に気づかれた釈尊は大変な不安を感じられました。そして不安でたまらなかった釈尊の前に現れたのが、汚い衣装に身をつつんだ沙門だったのです。この沙門の姿は老・病・死の問題を乗り越えた姿でした。そこで釈尊は老・病・死の問題を越えるために出家されたのでした。

私たちは今日がどんな一日であっても明日への夢や不安を抱えながら今日という日を過ごしています。しかし今日という日は明日を迎えるための途中ではないのです。

蓮如上人は折りにふれて、「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法の事は、いそげいそげ」と述べたと伝えられています。

人生にとって本当に急がなければならないことは何でしょうか。それは世間的な豊かさや幸せを求めるのではなく、それは今ここにこうしている自己の根本問題を明らかにすることなのです。このことを明らかにするのが仏法なのです。そのためには一刻の猶予もならないと蓮如上人は教えてくれているのです。

私たちはどれだけ贅沢な生活をしたとしてもただそれだけでは本当の満足が得られないのは、足下を忘れて遠くばかり見ながら人生を生きているからではないでしょうか。

蓮如上人は私たちのこのような生き方に対して「歩いて行く先の向こうばかりみて、自分の足下を見ないでいると、踏み外してしまうだろう」とおっしゃっています。私たちはこれからのことや明日のことではなくて、私が今ただちに目覚めるべき事なのです。もちろん将来のことを考える事は必要ですが、私が今立っているところをしっかり見つめたときに安心して人生を歩んでいけるのではないでしょうか。(宗教部)

「勇気」
『スッタニパータ−釈尊のことば−』より

2016.09.19

釈尊悟りの瞬間を伝える物語は、釈尊と魔(ナムチ、マーラ)との対決として描かれています。悟りへの最後の瞑想に励む釈尊の前に、成道を阻むべく魔が現れます。そして、長きに渡る修行の中で痩せてしまった釈尊に、いたわりのことばを掛けてきます。

あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたに死が近づいている。…君よ、生きなさい。生きた方がいい。生きてこそ、幸福をもたらす功徳を積むことができるのだ。 

仏典に登場する「魔」は、わたしたちの心の奥底に潜む欲望の根源の喩えです。この一節に見られるように、魔の攻撃、つまり欲望の表れは、食欲や色欲、金銭欲などだけではありません。いたわりや理屈をもって邪魔をしてきます。その魔に対して、釈尊は次のように答えます。

私には確信があり、さらに勇気があり知恵がある。

今まさに悟りという目的を達しようとしている自分には、悟りへの確信と、悟りを開くだけの知恵と、そして勇気がある。その自分にとって功徳など何の意味もないと、魔を退けて釈尊は成道を果たしました。では、ここで言われた、目的を達するのに必要な「勇気」とはどのようなものでしょうか。

先日閉幕したオリンピック期間中、アスリートたちが「イチローが嫌いだ」というCMが話題になりました。賛否両論あったCMのようですが、彼らが「イチローが嫌いだ」という理由は、「限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」「自分に嘘がつけなくなるから」「努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」などでした。これらの理由から、彼らがイチロー選手から受け取っているメッセージは、自分の目標に対して言い訳をせずウソをつかず向き合う姿勢であり、目標に向かっていく喜びだと言えます。しかしそれは、「嫌い」と表現できるほどに自分自身に対する厳しい姿勢でもあるようです。

目標に向かっていくとき、しばしば壁にぶち当たります。そのときは、自分がぶち当たっている壁は何か、そもそも自分は何を求めてどこに向かおうとしているのかということを明らかにしなければなりません。魔の誘惑を退けつつそれらを正しく明らかにするには、冷静に厳しく自分自身を見つめる視線が必要であり、それには確かに勇気が必要です。しかし、そうしてこそ、目標に向かう喜びも得られるのでしょう。

夏休みが終わり、新しい学期を迎えます。学びの場で、自分の取り組むべきことに勇気を持って努め励みたいものです。なお、今回取り上げた降魔成道の物語は、『スッタニパータ−釈尊のことば−』(荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄、講談社学術文庫、pp. 109-112)などをご覧ください。(宗教部)