「和顔愛語 先意承問」
『仏説無量寿経』より
2016.08.19
この言葉は、宗祖親鸞聖人が真実の経典として最も大切にされた浄土三部経のひとつであります『仏説無量寿経』の中にある言葉です。法蔵菩薩が積まれた菩薩行のひとつとして、「和顔愛語にして、意(相手のおもい)を先にして承問す」即ち、相手の身になって和やかで穏やかな笑顔と慈愛に満ちたあたたかい言葉を発し、相手の気持ちを慮って先んじて動くこと、仏の智慧に支えられた菩薩はこのような生き方をされると説かれています。
私たちが人と接する時、和やかな笑顔と思いやりのあるあたたかいことばをかけて、相手の心の内を察して考え、感じて先んじて行動し、その人の思いを満たし期待に応えることができたならば、相手を穏やかで心豊かにして心と心の深いつながりを築くことができます。そのためには、先ず相手の本当の意を承って心の内を真に思いやることが肝要であります。そして、その相手の思いを満たそうとした時にはじめて微笑みと慈愛の言葉が発せられるのであり、真実の智慧と慈悲のこころを備えたものから生まれる態度であると言えます。
仏教者が日常において実践すべき徳のひとつとして「布施」がすすめられています。他者に対する慈悲のこころを何かを与えることであらわすことが重要であるとされています。物や金銭がないと「布施」ができないわけではありません。誰でもいつでも財がなくてもできる布施行があります。そのうちの二つが慈愛に満ちた柔和な顔を施すことと、こころのこもったやさしいことばをかけることです。「布施」とは慈悲の行いであり、「和顔愛語」も大切な布施行であると言えます。私たち大人は、この誰にでもできる穏やかな笑顔とやさしい言葉づかいを忘れているのではないでしょうか。この「布施」の真髄は、すべてのものを受け入れる寛容なこころと慈悲のこころ、即ち、利他のこころを備えることにあると思います。
現在、世界各地でテロ、紛争、戦闘、そして極めて残忍な事件が繰り返されて多くの尊いいのちが奪われています。大変こころが痛む悲しいことです。そこには、複雑で深くて重い問題があり、解決することは極めて難しい状況にあります。このような世界情勢であるからこそ一刻でも早く争いのない平和な世界を実現することが強く願われます。この実現に向けては、私たちにかけられているこの大きな願いをすべての人が共有することが重要であり、一人ひとりができることを考えて直ちに実行すること、そして、その輪を広げていくことが最も大切なことだと思います。
私たちにできることは、「和顔愛語 先意承問」これを自分の縁ある人から確実に実践し、その輪を広私げていくことだと思います。この実践が平和な世界の実現に向けての大切な、そして意義のある第一歩になるのではないでしょうか。(宗教部)
「ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい」
やなせたかし
2016.07.19
今月のことばは「アンパンマン」の作者やなせたかしさんのことばです。やなせさんは50歳でアンパンマンを描き始めましたが当時は人気がなく、アニメ化しブレイクしたのはやなせさんが70歳になる直前のことでした。継続は力なり、そのことばを身をもって実証された方です。
アンパンマンには個性豊かなキャラクターがたくさん登場しますが、それぞれのキャラクターの背景やその行動に、やなせさんの人間愛が感じられます。大人が見ても十分におもしろい作品で、また時に深く考えさせられるテーマもあります。 さて、やなせさんのことばを引用します。
「人間が一番うれしいことはなんだろう? 長い間、ぼくは考えてきた。そして結局、人が一番うれしいのは、人をよろこばせることだということがわかりました。実に単純なことです。ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい。」
家庭でも家族が喜んでくれることに喜びを覚え、職場でも他人の感謝の言葉にやりがいを感じたりするのではないでしょうか。「誰かの役に立っている」その思いが自分の原動力になることは大いにあることだと思います。
生きていくモチベーションは、つまり人の幸せを願いその喜んだ顔を見ることで、自分も幸せだと感じることなのかもしれません。
仏教の教えに忘己利他(もうこりた)の心というものがあります。最澄の『山家学生式』にあることばですが、自分のことを忘れ人の為に尽くし、その幸せを願うという考え方です。そしてこれをもっとシンプルに的確に言い換えたことばが、やなせさんのことばなのだと思います。
「長い人生を生きてきたが、星の命に比べたら、百歳まで生きたって、瞬間に消え去っていくのと変わらない。人間は、宇宙的にいえば、ごく短い間しか生きはしないのだ。束の間の人生なら、なるべく楽しく暮らした方がいい。それでは、人は何が一番楽しいんだろう。何が一番うれしいんだろう。その答えがよろこばせごっこだった。(中略)人は、人がよろこんで笑う声を聞くのが一番うれしい。だから、人がよろこび、笑い声を立ててくれる漫画を長く描いてきた。自分が描いた漫画を読んで子どもたちがよろこんでくれる。その様子を見て、自分がうれしくなる。こうしてよろこばせごっこができることが本当に幸せだ。あなたは何をしてよろこばせごっこをしていますか?」 (宗教部)
願わくば深く無常を念じて、いたずらに後悔(こうかい)を
貽(のこ)すことなかれ
宗暁 編 『楽邦文類』
2016.06.19
この言葉は、中国南宋時代初期の僧宗暁(1151~1214)が、楽邦すなわち阿弥陀仏の浄土へ生まれたいとの願いに関わる経文や論説の要文や、先人の詩文の類を集めた『楽邦文類』の中にあり、親鸞聖人も同書から『教行信証』の「信巻」の中に引用されています。
この言葉は、仏教の根本的な教えの一つである「諸行無常」、すなわち全てのものは常に変化して少しの間もとどまっていないということをいつも心に思いなさい。私たち人間も例外ではないのです。そうした無常を生きる私たちは今のこの一瞬一瞬が大切であり、無益に過ごして後に悔いをのこさないようにしなさい。と呼びかけているのです。
斜里大谷幼稚園の園長をつとめておられた鈴木章子(あやこ)さん、42歳のとき乳癌発症の告知を受けられ46歳で亡くなるまでの4年間、肺の切除、抗癌治療の苦しい闘病生活の中、念仏の教えを聴聞し、「いのち」とは?人間の生き方とは?を問い続けられました。鈴木さんは告知後の明日をも知れぬ闘病生活の自らを、次のような歌に遺しておられます。
割れやすき器のごとき命なり 今ひとときを輝いていたし 『癌告知のあとで』(探求社)
鈴木さんの「今ひとときを輝いていたし」の願いに「いたずらに後悔を貽(のこ)すことなかれ」の生き方を思わずにおれないのではないでしょうか。(宗教部)
不安から学ぶ
2016.05.19
現代は不安の時代と言われるように、私たちは大なり小なり常に不安を持って日々を過ごしています。変わりゆく社会環境から家族、友人、仕事、自分自身のこと、「どうすればよいだろう」、「どうしようか」といった心配など不安の種はいくらでもあります。しかし、人間として生を受けた以上致し方ないことです。
では、その不安をどのように取り除くのでしょうか。一つには、一人で解消する、誰かに相談する、宗教にすがる人などそれぞれ異なります。勿論、正解はありません。
そこで、皆さんも今一度ここで自分の事として考えていただきたいと思います。
自分の中でなかなか整理がつかない悩み事があるときに、神社やお寺にお参りをされた経験がある方は多いと思います。恐らく、目には見えない何かのお働きを期待してお参りされたと思います。ところが本当に、お参りしたぐらいで不安がなくなるのでしょうか。
その時は、気持ちが楽になるかもしれませんが、実際は次から次へと新たな不安が出てきます。
そこで、少し考え方を変えてみてはどうでしょうか。
不安は私たちが生きる上で絶対に必要なものなのです。宗祖親鸞聖人が浄土教の高僧として選んだ七人の僧(七高僧)の第五祖であられる中国の善導大師が『観経疏(かんぎょうしょ)』に示されているものに「二河白道の譬え」があります。
「ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然として水・火の二つの河に出会われました。火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどですが、深くて底はありません。ただその河の間に幅四五寸(12cm~15cm)程の一筋の白道があるだけで水と火が常に押し寄せてきます。
そこへ後方より群賊や悪獣が殺そうと迫ってきます。戻れば殺される、進めば火の河・水の河に飲み込まれ絶体絶命の状況です。
その時、向こう岸よりかすかに自分を呼ぶ声。ふと見上げれば阿弥陀様。「私を一心に念じ、こちらに来なさい。必ずあなたを護ります」と、後ろから「心を定め、行きなさい。決して災いはありません。止まれば死を待つのみです」振り返ればそこにお釈迦様がおられました。
ある人は、「一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友と相見えることができた。」という例え話です。
この教えは、私たちの心の中身を譬えたものですが、様々な不安がある中、その不安に立ち向かい、不安から学び、そして自らを信じて進めば必ず道が拓かれるということをお示しくださっています。つまり、不安だけが私の生き方を「これでよいのか」と問うてくれる有り難いものなのです。その不安に向き合い、そして気づき、歩みとなり、自らの成長につながるのだと思います。(宗教部)
其光如華
社会を照らす「光」となり、社会を潤す「華」となれ
2016.04.19
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。皆さんはこれから光華での新たな生活に希望や不安を持っておられるのではないでしょうか。でもご安心ください。皆さんが学ばれる光華女子学園は、そのような皆さん一人ひとりとしっかり向き合い、寄り添い続け、皆さんの成長をしっかりと支え続けることを誓った学園です。この誓いは77年前、本学の創設者である真宗大谷派(東本願寺)前門首夫人大谷智子裏方(昭和天皇妃-香淳皇后-の妹君)が持たれた建学の精神に遡ります。
光華女子学園は昭和14年、お裏方が、「仏教精神に基づく女子教育の場」をと願われ、東本願寺をはじめ有縁の方々から物心両面の援助を受けて設立された学園です。その建学の精神は、お裏方がつけられた、校名「光華」と校訓「真実心」に込められています。
校名である「光華」には、経典『仏説観無量寿経』の水想観にある文言「其光華如(そのひかりはなのごとし)又似星月懸處虚空(またしょうがつのこくうにけんしょせるににたり)」にちなみ、清澄にして光り輝くおおらかな女性を育成したいという願いが込められています。また、校訓「真実心」とは、「仏の心=慈悲の心」であり、今の言葉でいうと、他者への配慮、共に支え合う心、すなわち「思いやりの心」といえます。この校訓「真実心」には、み仏の心に自らを問い自我に偏しがちな生活を正し、慈愛に満ちた人として生きてほしいという願いが込められています。
現在、本学園では、これら「光華」と「真実心」に込められた願いを「光華の心」、即ち、「向上心」「潤いの心」「感謝の心」の3つの心と表しています。
●「こ」 向上心 向上発展を目指す心。勉学や課外活動といった学校生活に精進し、自己を高め、精一杯生きること。
●「う」 潤いの心 思いやり、慈しむ心。他者の立場を受け入れ、あたたかく思いやる気持ちを持って接すること。
●「か」 感謝の心 生かせていただいていることへの感謝の心。自己中心的な自分を振り返り、支えてくださっている全てのものに感謝すること。
本学園は、本学で学ぶ全ての方々が「光華の心」の実践者として、常に「向上心」を持って自己を精一杯生き、自我に捉われることなく、他者をあたたかく思いやる「潤いの心」と、他力により生かされていることへの「感謝の心」を忘れず、他者と共生できる女性、即ち、社会を照らす「光」となり、社会を潤す「華」となる女性に育ってもらえるよう、全力でご支援させていただきます。(宗教部)
風は見えないけれど 風のすがたは なびく草の上に 見える
2016.03.19
日本では冬には冷たい風を感じ、春には心地よい風を感じます。時には強かったり弱かったりしますが、私達の周りには常に自然の風が流れています。しかし、忙しい日常生活を送っている私達はその風の存在に気づかないことがあると思います。
私達はどのようにして風の存在に気付くのでしょうか。風の音がビュービュー聞こえる。戸がカタカタなる。頬にあたる・・・など。 しかし、風を感じることはできても、私達の目では風を見ることが出来ません。この詩は、その風のはたらきが大地の根をはっている草をなびかせることで見えない風の存在に気づくことを示し、私達に問いを与えてくれています。
金子みすゞの『星とたんぽぽ』の詩には
「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」とあります。
私達が生かされているということは、色々な目に見えないものによって支えられていると言えます。目には見えないもの、表面だけしか見ないのでわからないものが私達の中に確かにあると思います。大切なことはそういうものは何かという問いを生涯において持ち続けることです。
そうすることによって、私達の思慮分別を超えたはたらきがあることに、頭が下がる感謝の心を持つことができるのではないでしょうか。
風は見えないけれど、なびく草を見て見えない風の存在に気づくように、私達の身の回りにはあまりにも多くの見えないものがあるということがいえると思います。
『みほとけは 眼(まなこ)をとじて み名 呼べば さやかに います わが前に』
風のように私の目に見えないところで、はかりしれない力が疑いなくはたらきかけてくれていることを知り阿弥陀さまに感謝したいものです。阿弥陀さまのはたらきを感じ取り、命を大切に生活して自分の置かれている境遇で精一杯生きていきたいものです。(宗教部)
「あなたは、あなたのいのちを輝かせながら 精一杯生きていってくださいよ」 -京都光華高等学校三年 篠原茉里さん感話より-
2016.02.19
昨年11月22日、東本願寺報恩講で本学園高校3年生の篠原茉里(しのはらまり)さんが感話を行いました。以下はその概要です。
私が三年間を過ごした京都光華高等学校は、この東本願寺の関係学校です。私たちの学校では毎週「宗教」という授業があります。そこでは、自分自身の心を見つめたり、「いのち」のつながりについて考えたり、「私たちは大きな願いによって生かされ、見守られている」ということを学んだりしています。
『如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし』私は最初この「恩徳讃」の歌詞を聞いて、「どうして身を粉にしたり、骨をくだいてでも感謝しなければならないのかな」と不思議に思いました。
でも「宗教」の時間で学ぶうち、少しずつ分かってきたことがあります。それは親鸞聖人が悩みや苦しみの中から、「阿弥陀様」という大切な存在に出会えたということ、「阿弥陀様」とは、苦しいことや悲しいことの中に沈み込んでもがいているひとや、素直になれず、前向きに生きられない人も決して見捨てることなく見守ってくれている存在であるということです。私はここではっとさせられました。それは親鸞聖人が出会われた阿弥陀様とはまさに「親」そのものだということです。
素直になれずいつも反抗ばかりしている私を、時には優しく時には厳しく両親はいつも見守ってくれています。うまくいっている時や、輝いている時の私だけでなく、苦しんだり落ち込んだりしている時の私も、ちゃんと見て支えてくれています。 誰にも親があり、私の両親も、それぞれの両親から、その人達もさらにその親から‥‥というようにいのちを育まれ守られてきたのだと‥‥それはまさに無条件で「いのち」を与え、つないでいくリレーのようなものではないでしょうか。 そして親鸞聖人は、その一番もとにある、深く大きないのちを「阿弥陀様」という言葉で表されたのではないでしょうか?
「あなたは、あなたのいのちを輝かせながら精一杯生きていってくださいよ」阿弥陀様はおそらく私たちにそう呼びかけてくださっています。そして、親鸞聖人はその気持ちに応えて生きていくことを「恩徳讃」の歌詞に表されたのだと思います。 私にとって今、最も身近な親子の関係や家族の恩を見つめ直していく中で、目には見えないけれど大切にしなければならない大きな「いのち」を感じながら、これからの人生をしっかり歩んでいきたいと思います。私は光華で出会った「恩徳讃」からそのことを学びました。(宗教部)
「怠ってはいけません。後悔があってはなりません。 これがあなたたちへのわたしの教えです。」『削減経』
2016.01.19
「削減経」などいくつかの経典の最後に登場する一節です(片山一良『中部』)。同趣旨の内容は、釈尊の晩年を描いた「大般涅槃経」に残された、釈尊の最後のことばを通してご存じの方も多いと思います。
いかなるものも移ろい行く性質のものです。怠ることなく努めなさい。
人生の中で必ず現実に直面する時がくるから、「あの時やっておけば良かった」と後悔することがないように、怠けることなく努力しなさいということでしょう。 当たり前と言えば当たり前のことですが、注釈者ブッダゴーサは、釈尊45年の説法すべては、この「怠るな」という一言にまとめられると解説しています、そのことばを今月は考えたいと思います。
昨秋のラグビーワールドカップでの日本代表の活躍を覚えておられる方も多いことでしょう。決勝トーナメント進出はなりませんでしたが、優勝候補の一角、南アフリカ戦での勝利は「スポーツ史上最大の番狂わせ」とも言われました。このときの活躍で一躍時の人となった五郎丸選手が、07年から日本代表を指揮したジョン・カーワン(JK)前ヘッドコーチとのやり取りをインタビューで回想しています。
11年のW杯に向けての代表合宿に召集されながらも、代表落ちとなった五郎丸選手にJKは聞きます。「過去は変えられるか」。当然Noです。次に「未来は?」と聞かれYesと答える五郎丸選手に、JKは「違う。お前に変えられるのは現在だけだ。今を変えない限り、未来は変わらない」と言ったそうです(2015年12月3日朝日新聞夕刊「一語一会」)。当時はその言葉の真意を計りかねた五郎丸選手ですが、その後、昨秋のW杯に向けて「先を見ずに」一瞬一瞬目の前のことに全力で取り組み、 4年間の「現在」を変えた続けた結果が、南アフリカ戦の勝利だと語っています。
誰しもより良い未来を望みます。より良い変化を望みます。そうやって未来を求めながら、あるいは、未来におびえながら、わたしたちはしばしば自分の「今」におろそかになります。そして、未来の自分にやることを期待して、今の自分を甘やかしてしまいます。
今なすべきことに全力で取り組むことは、容易なことではありません。しかし、この一瞬一瞬に、自分の感情や周囲の状況に振り回され言い訳をしてやるべきことから逃げていないか、自分に尋ねることはできます。釈尊のこの一言は、自分で自分のあり方を振り返ることを教えてくれます。自分の「今」に向き合いながら、精一杯生きる一年にしたいものです。(宗教部)
「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」『仏説阿弥陀経』
2015.12.19
この言葉は、浄土三部経の一つであります『仏説阿弥陀経』の中の一節で、阿弥陀仏の浄土に咲く荘厳なる蓮の花のありさまを語られた言葉です。そこに咲く青い色の花には青い光が射し青く輝き、黄色の花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光が射し、それぞれが光り輝いていずれもすばらしく美しくて、その香りは気高く清らかであると説かれています。それぞれの花がいのちの輝きをもっていて、自らの色そのままで光り輝いて咲くことが尊いことであると語られています。
花の色は、人間のいのち(個性)をあらわしていると言えます。私たちのいのちは、この世の中にたった一つしかないかけがえのない尊いいのちであります。同様にすべてのいのちは等しくかけがえのない尊いいのちであるとも言えます。他者と比べて優劣がつけられるものではありません。私が私に生まれたということ、そのことだけで尊いのです。条件を何一つ付け加えることなくそれそのままで尊いということです。そして一人ひとりが三八億年前の生命誕生から受け継いできた唯一人のいのちを今、輝かせているのです。但し、このいのちは決して一人で輝くことはできません。はかり知れない他の多くのいのちによって輝かせてもらっているのです。いのちはすべて支え合って輝いているということです。これが仏教で説かれる「縁起」ということではないでしょうか。釈尊は、「この世の中の生きとし生けるものは、それそのものだけで成立するのではなく、さまざまな縁、原因、条件が集まり起こって成立する。すべてのものは互いに深く関わり合い、支え合い、多くのものとつながり合ってはじめて存在する。」と覚られました。私たちは無量無数の数限りないご縁によってただ今、この瞬間に存在しているのであって、そのいのちは将に「生かされているいのち」であると言えます。私たちは、まわりの全てのいのちに支えられて生かされているいのちである、すなわち「縁起的存在」であることに目覚めることができた時にはじめて、そのいのちを真に輝かせて生きていくことができるのだと思います。
現在、世界各地で国際間、宗教間、民族間等の戦闘、紛争、テロが繰り返されて多くの尊いいのちが奪われています。大変こころが痛む悲しいことです。これらは、いのちの私物化、自己中心的なものの見方、考え方の最たるものです。このような世界情勢の中で今、私たちに願われていることは何でしょうか。それは、経典に説かれているようにすべてのいのちが等しくかけがえのない大切な存在であることが認められる世界、お互いの異質や相違を受け入れて認め合える世界、私が私であるがままに認められる世界、そしてすべてのいのちが輝ける世界、このような阿弥陀仏の浄土の世界(真実の世界)を、争いが繰り返されて痛ましくて悲しい現実に直面している現在の世界に実現していくことこそが今最も重要なことであり、私たちにかけられている大きな願いではないでしょうか。(宗教部)
「合掌する姿は美しい」
2015.11.19
インドの僧である龍樹菩薩は、人間の一番美しい姿は合掌をしている姿だとおっしゃっています。インドでは右手は清浄、左手は不浄とされています。そこで右手は仏、左手は自分を表し、右手と左手を合わせることで仏と一体化する自分を表現するのだと言われています。
それでは、合掌の姿はなぜ美しいのでしょうか。
人は心からの「ありがとう」の気持ちとともに手を合わせ、「いただきます」、「ごちそうさま」と自分を生かしてくださるすべてのいのちに手を合わせます。戦争や天災のニュースに一人でもいのちが失われないよう祈り、遠く離れた両親や子供の無事を念じます。考えてみると、人は自分のはからいが及ばないすべてに感謝と祈り、そして敬いや慎みの気持ちを込めて手を合わせるのだと思います。生かされていることへの感謝の気持ちに頭が下がり、ありがたいと思う心が自然に手を合わせるのです。だから合掌の姿は美しいのです。
そして、手は自分にも相手にも与える「力」があります。辛い時に肩を支えてくれるあたたかい手、子供を抱きしめる慈愛に満ちた手、仲間を力強く叩き励ます手、手と手を繋げば相手を愛おしく思えますし、ケガをした箇所を押さえると痛みが和らぐこともあります。手は人の心をもあたためます。
光華幼稚園の園児は、登園の際、また帰りにも親鸞様の像に手を合わせます。光華小学校の児童も同じく仏様に手を合わせます。中高生は分離礼にはじまりすべてに礼節を欠かしません。一日のはじまりと終わりに手を合わせること、この習慣は、自然に学園の子どもたちの感謝の心を育んでいます。私たちの過ごす光華女子学園には、宗教行事や場所、互いの関係の中で、相手を敬い合掌の心を育む機会がたくさんあります。
どうぞ今夜一人静かに過ごす時、そっと手と手を合わせてみてください。不思議と穏やかであたたかな気持ちになります。合掌の姿は美しい。学園の子どもたちすべてが合掌の心を持った美しい人に育ってくださることを願います。(宗教部)