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このものたちは私と同じであり,私もこのものたちと同じである 『スッタニパータ』

2019.10.03

「と,世の生きとし生けるものすべてを自分自身だと考えて,それらを殺さず,また殺させないようにしなさい」と続きます。(『スッタニパータ』705偈,榎本文雄ほか『スッタニパータ 釈尊のことば』179頁,中村元『ブッダのことば』153頁)

 

「多様性」「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にします。確かにわたしたちの社会には様々な価値観,人生観,感性を持つ人がおり,それぞれの生き方というものがあります。

多様な価値や生き方を許容し,生活の中で「人それぞれであること」を理解していくことはとても大事なことです。そのため日常の様々な場面で多様性の尊重が謳われています。しかし,社会の中に溢れる「人それぞれ」という言葉に触れるとき,しばしば,他者を受容し共にあろうとする「温かさ」より,決してそれ以上に距離を縮めるつもりがない「よそよそしさ」を感じます。多様性を許容し「人それぞれ」に生きる社会とは,このように個人がバラバラに分断されて生きていくしかない社会なのでしょうか。

 

仏教説話に,飢えた虎に遭遇した菩薩(ぼさつ,ブッダとなる前の釈尊)の物語があります。この物語を手掛かりに考えてみましょう。

飢えてもう自分の子供さえ食べてしまいそうになっている虎,そこ出くわした人々。Aさんは何か食料がないかを探し,Bさんは虎が死ぬのを待って毛皮をはいで売り飛ばす算段をし,Cさんは見て見ぬふりをし,Dさんは自らの身体を食料として差し出そうとする….この中で「私もこのものたちと同じ」と思うのはどのキャラクターでしょうか。多くの人は,Dさんは無理でもせめてAさんでありたいと思うのではないでしょうか。しかしBさんかもしれない.あるいは,現実的にはCさんのようになってしまう人が大半かもしれません。ところで,この解説を読んでくださった中で,自分はこの虎であると思われた方はおられるでしょうか。

 

「私」がいま飢えずにいることは,必ずしも「私」の努力によるものではありません。生まれた時代,環境,出会った人々の巡り合わせがいまの「私」にしてくれているのであって,これから先何か大きな出来事があれば,「飢えて子供でさえ食べてしまいそうになる虎」のようになる可能性があります。それほどにわたしたちは「もろい」存在です。しかし,そのもろいわたしを忘れて,わたしたちは,今の自分を当然のものとして,わたしにとっての価値,わたしのモノサシを絶対のものと思ってしまいます。

 

この経典は,いまの自分に囚われ他者への想像力を失ったわたしが,その自分を振り返り内省し,他者への共感を取り戻す地平を教えてくれています。自分を振り返ることと,他者への共感なくして,多様性というのは成り立たないのかもしれません。(宗教部)

「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」 『仏説観無量寿経』

2019.09.04

標記の言葉は、宗祖親鸞聖人が真実の経典として最も大切にされた浄土三部経のひとつであります『仏説観無量寿経』のなかにある言葉です。「阿弥陀仏の光明が十方世界を照らして、念仏するものを摂め取って決して見捨てない」と説かれています。

宗祖親鸞聖人においては、どのようなものも決して見捨てることのないこの阿弥陀仏の本願念仏の真実の教えを絶え間なく聞思し、進むべき道を正しく照らす生涯の生きる確かな拠りどころとされて人生を生き抜かれました。

経典では、阿弥陀仏を光で表されています。その光を「摂取不捨」というはたらきとして示されています。暗闇を照らす光明は、闇を除き一面を明るくし、安心感を与えてくれます。また、進むべき道、方向をはっきりと示してくれます。そして、最も大切なことは、すべてを同時に誰一人として取り残さずに生きとし生けるものすべてを絶対平等に照らすということです。

それでは、私たちはこの「摂取不捨」というはたらき(光)を具体的に容易に実感できるのでしょうか。源信僧都は『往生要集』のなかで「大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう」即ち、阿弥陀仏のはたらき(慈悲の光)の中に包まれて生かされているけれども、煩悩の身であるためにそのはたらきをはっきりと見ることも気付くこともできない。そのような煩悩の深い我が身であるからこそ、阿弥陀仏の慈悲がどのようなときでも決して見捨てることなく常に照らし励まし続けてくださっていることがわかる、と記されています。そのように実感するためには自分自身を深く厳しく見つめて、真の自己とはどういう存在なのか、自分の本当の相(すがた)は如何なるものなのかを顕かにすることが最も必要なことです。真の自己がわかれば自ずから私をあらしめてくれている大きな願いがあることに気付き、生かされている自分であることが本当に分かれば、「摂取不捨」ということが我が身にはたらいていることに気付くことができるのではないでしょうか。

仏教における「真実の教え」は、何ものにも妨げられることのない光としてあらゆる方向に平等にはたらき、いつでもどこでも私たちに届けられています。その光は、私たちの無明を照らし出し、本当の相を顕かにすることとともに、生きることにとまどい、つまずき、傷つき、不安の多い人生の中において、その人生を生き抜く力と勇気、そして励ましと安らぎを与える大きなはたらきになります。

この現代社会を生き抜かなければならない私たちは、時として生きることの厳しさに孤独を強く実感することがあるでしょう。その時は、決して孤独ではなく、他者とのつながりの中に自己を見出し、「どこまでも必ず摂め取って見捨てない」というはたらきに生かされて生きていることに気付かされて、共に乗り越えて行けるのではないでしょうか。(宗教部)

2019.08.01

人はすぐに嘘をつきます。ひょっとしたら中には、「今まで嘘をついたことがない。」と言う人がおられるかもしれませんが・・・。嘘をつくとどうなるのでしょうか。まず、つじつまが合わなくなります。バレないようにと嘘を重ねると、さらにつじつまが合わなくなり、嘘をつき続けなければならないことになります。そうするとバレないかと常に気になり、精神的に落ち着かず、いつもびくびくした状態で、楽しくない人生になってしまいます。後にバレた時には、時間の経過に応じた不幸が押し寄せてきます。

「嘘つきは泥棒の始まり」、「嘘ついたら針千本飲ます」などのことわざやわらべ歌によって、私たちは小さい頃から嘘は悪いことであるとわかっています。イソップ童話「嘘をつく子供」からは、人は嘘をつき続けると、本当のことを言っても信じてもらえないが、常日頃から努めて正直に生活すると、必要な時に他人からの信頼と助けを得ることが出来るという教訓を学んでいます。最近でも、教訓とすべき世間を騒がすある事件が起こりました。それは、当事者の問題行動はもとより、保身から生まれた「嘘」によって、周囲の信頼を大きく損なうことになり、それが引金となって、人生を変えてしまうまでの事案に発展してしまいました。

では、私たちは実際、日常生活において、嘘をつかずに生きることができるのでしょうか。これはなかなか難しいものがございます。

「嘘」は、仏教では「妄語(もうご)」と言います。「妄語」を諫める「不妄語」は「五戒(ごかい)」の一つとされ、これを破ると八大地獄のうちの大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)以上の苦しい地獄へ堕ちるとされており、それほど嘘は恐ろしい罪であると言われています。

お釈迦さまは、「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」という経典において、私たちの姿を「心口各異、言念無実(しんくかくい ごんねんむじつ)」と説かれています。人の「心と口は、おのおの異なり、言っていることと、念(おも)っていることに、まことがない」という意味で、つまりは、「すべての人は、心で思っていることと、口で言っていることが異なる。だから言っていることにも、思っていることにもまことがない。嘘偽りばかりだ」とおっしゃっています。

例えば、酔っ払って帰ってきた夫が、妻から「あなた、酔っ払っているでしょ」と聞かれると、ついつい「俺は、酔ってないぞ~」と言います。ろれつが回っていないので、酔っていることはバレバレですが、それでも否定したくなって、嘘をついてしまいます。

私たちは、普段あまりにも平気で嘘をついているので、その行為に対し醜いという感覚が麻痺してしまい、嘘という自覚すらないということに気付かなければなりません。そのような嘘偽りばかりの私たちがそのまま幸せになるためには、仏教を聴聞し、愚かな自分に気づかせていただくことを、繰り返し実行するほかないと言えるでしょう。

(宗教部)

学校法人光華女子学園 理事長交代のお知らせ

2019.07.12

学校法人光華女子学園は、2019年7月1日付で阿部 敏行 理事長が退任し、
新たに阿部 恵木 専務理事が理事長に就任いたしました。
(同年5⽉28⽇開催の理事会において決定)

 

阿部 敏行 前理事長は、引き続き学園長としての任務を継続すると共に、同日付で名誉理事長に就任いたしました。

 

なお、新理事長 阿部 恵木の略歴は下記のとおりです。

 

 

○⽒ 名:阿部 恵木(あべ やすき)1971 年8 ⽉19 ⽇ ⽣ (47歳)

○学 歴:大谷大学 文学部 哲学科 卒業

 

○職 歴:
1997 年 4 ⽉ 学校法人光華女子学園 学園主事
1999 年 6 ⽉ 同 評議員
2000 年 4 ⽉ 同 企画広報室長補佐、
以後、初等中等教育推進部長、KRS推進本部長代理、学園運営部長、宗教部長、新規事業開発プロジェクト部長、総合企画部長、企画広報部長等を歴任
2011 年 4 月 同 学園事務局長
2011 年 6 月 同 理事・評議員
2014 年 4 月 同 専務理事

宝の山に入りて 手を空(むな)しくして帰ることなかれ 『往生要集』 恵心僧都源信

2019.07.01

この言葉は,平安時代中頃の僧で日本浄土教の祖と言われる源信僧都(比叡山の恵心院におられたので恵心僧都とも呼ばれた)の言葉で,その著『往生要集』の中にあります。親鸞聖人はこの源信僧都を,お釈迦さまの説かれた,念仏を唱えることによって阿弥陀仏の浄土に往生するという本願念仏(阿弥陀仏の誓願)の教えを正しく伝えてくださった印度・中国・日本の七人の高僧の六番目・第六祖として尊崇されています。
 さて,この源信僧都の言葉は何を教えているのでしょうか。この言葉は,『往生要集』の「大文第一 厭離穢土」の結びにあたる「総結厭相」にあります。源信僧都はこの言葉の前に,人間世界の有様を語っておられます。
それは,今,幸いにして生まれ難い人間世界に生まれきたが,しかし,この世界は変わることのない常住の世界ではなく常に移り変わる無常の世界であり、虚仮の世界である。そうした世界は執着から離れられず,苦しみ・悩む煩悩の世界である,と。しかしいま人間として生まれ,生かされ,仏さまの教えを聞く機会にも恵まれている。この機を逃さず,煩悩に汚れたこの世を離れ,浄土(悟り)の世界に生まれるよう努めるべきである,と言っておられます。そして,その後に「今月の言葉」が続きます。この「宝の山」とは,人間に生まれ,仏さまの教えを聞く機会に恵まれているその「僥倖」をさしているのではないでしょうか。
私はこの言葉から,法会で読まれる「三帰依文」の最初の言葉「人身受け難し,いますでに受く。仏法聞き難し,いますでに聞く。この身今生において度せずんば,さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」を思いおこします。光華女子学園は,仏さまの教えを聞く機会に恵まれています。私たちはそうした機会を逃さず,聞思し,手を空しくして終わるような過ごし方をしないようにしたいものです。(宗教部)

メリハリ

2019.06.03

 人間は、生きている上でずっと頑張り続けることは出来ないものです。時には頑張り、時にはのんびりと心身を休める時が必要です。
私たちはどうしても日々生活を送る中で、ONとOFFのバランスを見失い、頑張り過ぎたり頑張らなさ過ぎたりすることがあると思います。そうなると心身のバランスが崩れ、健康的な生活を維持することができなくなります。
一つ例えると輪ゴムは、伸縮を利用して、何か物を留めるときに伸ばして使います。その分、輪ゴムは劣化します。さらに、長期間伸ばした状態にしておくと、その劣化は早くなります。しかし、使わないときは、伸びない状態のままですので輪ゴムに負荷はかからず、劣化は防げます。人間も同じで、頑張り過ぎがたたって病気や怪我をしたり、頑張り続けると中だるみしたりします。やはり、メリハリをつけてONとOFFを上手く切り替えることが大切です。
仏教に「中道」という言葉があります。一方にかたよらない穏当な考え方・やり方、執着を離れ、正しい判断をし、行動するという意味があります。
お釈迦様が菩提樹の下でお悟り(成道)を開かれた時、五人の比丘(弟子)に、「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、尊い道を求める者のすることではない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、尊い道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。」と説かれました。(初転法輪)
 つまり、私たちは心身とも健康で生きる上で、何事も両極端にするのでなく、一方にかたよらず「バランス」をはかり、「メリハリ」をつけることが大切です。是非一度、自分自身を見つめ直していただく機会にしていただければと思います。(宗教部)

丁度よい

2019.05.07

4月8日はお釈迦様の誕生日です。本学では入学式期間となるため少し遅らせ、4月18日に全設置校の学生生徒等が一堂に会しお祝いしました。仏教とは日々を生きる心がけを問うている教えです。こうした仏教行事を通して学生生徒等一人ひとりがそれを感じ、心がけを持つ生き方を身につけてもらえればと思っています。今月はこの「心がけ」について考えてみたいと思います。
お釈迦様のお悟りは「縁起の道理」と言われます。この縁起とは「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ずる、これなければかれなし、これ滅すればかれ滅する」というもので、「われわれは関係性のなかにしか存在しえないものである」「永久に不滅のものはない(無常)」「絶対性の否定(無神論)」「すべては無我」といったことを教えてくださっていると思います。このお釈迦様の教えを親鸞聖人は「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えれば仏となる」と伝えてくださいました。いわゆる「他力本願」です。他力本願というと「誰かに助けてもらうこと」や「他人任せ」という理解をされていらっしゃる方も多いようですが、本来は「仏様の願いにお任せし生きていく」ということです。このことを分かりやすく伝えてくださっている詩を紹介させていただきます。これは石川県にある真宗大谷派常讃寺の坊守(ご住職の奥様)藤場美津路さんが、お寺の寺報『法友』(1982年2月号)に掲載されたものです。

『仏様のことば』
お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も   お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も   息子の嫁もその孫も   それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも   悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は   悪くもなければ良くもない   お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと   行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない   上もなければ下もない   死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連れの人生   丁度よくないはずがない
丁度よいと聞こえた時   憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏

「憶念の信」という言葉は少し難しいかもしれませんので少し補足させていただきますと、「憶念」とは、「心に堅くおもうこと」、「心に思いたもつこと」、「心に念じて忘れないこと」といった意味です。従いまして、「憶念の信」とは、「阿弥陀仏の本願を信ずること」、すなわち「阿弥陀仏にお任せする(他力本願)」ということです。
皆さんはこの詩をどのようにお感じになられたでしょうか。本学園の宗教行事は、自分はどのような心がけをもって生活しているのかを確かめる機会、考える機会としています。皆さんも是非一度ご参加くださり、自分を見つめる機会にしていただければと願っております。(宗教部)

2019年度「学園花まつり」を開催しました

2019.04.18

4月18日(木)、本学園において幼稚園から大学・大学院までの全設置校の在籍者が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。
 
この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、お釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」を園児~学生はもとより教職員を含めて、今一度自分自身を見つめなおす機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。
 

 
本学園では、小学生マーチングバンド、中高吹奏楽部、大短吹奏楽部、中高バトントワラー部による演奏パレードや、小学生が引く白像の行進、中高軽音楽部や中学校3年生による讃歌を取り入れた音楽法要的な内容で行ないました。また、真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、生きている中で悲しいことがあっても、みんなはお釈迦さまに守られて生きているので一人ぼっちではない、とお話いただきました。
 
当日は、中学・高校正面玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生や来校された方々に自由に甘茶を灌仏していただけるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。
 
 

「もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に藉れ」『教行信証』信巻・善導『観経疏』

2019.04.01

桜の花びらが舞う季節となりました。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。これからのたくさんの出遇いに期待や不安でいっぱいのことかと思います。
今月のことばは、善導大師が著された『観経疏』のなかにある言葉です。親鸞聖人も主著の教行信証に引用されています。
仏教の学びには「解学」と「行学」の二つの学びがあります。「解学」とは、仏教の教えを知識として、頭で理解する学びのことです。「行学」とは、日々の生活の中で仏教を確かめ、自分の生きる道を明らかにしていく学びのことです。
仏教を知識として学ぼうとするならば、本や経典を読めば、努力次第でいくらでも身につけることは可能です。しかし、自分の生きる道を仏教の教えにたずねていこうとするならば、「必ず有縁の法に藉れ」と善導は教えています。
これから皆さんは本学でさまざまな知識を得ていくことになるでしょう。深い知識を得ることは必要なことだと思います。しかし、そのことを「解学」とするだけではなく、常に現実を生きていくための学び「行学」としていっていただきたいと思います。そのためには、自分の現実をみつめ、自己をみつめなおしていくことが大切です。そのことにより、たくさんのものに支えられ、生かされている身であることに気がつくことでしょう。
光華で仏教の教えに触れ、自己と出遇い、そして私たち一人ひとりにはたらきかけられている大きな願いに出遇われることを願っております。(宗教部)

「報謝の志をはこばざらん行者においては、誠にもって、木石にひとしからんものなり」『御俗姓』蓮如

2019.03.01

親鸞聖人のご命日にあわせて毎年11月28日に東本願寺では報恩講が行われています。報恩講は親鸞聖人のご苦労を偲び、自らの依りどころを教えていただいた聖人のご恩に報謝し、ともに念仏申す身となっていくことを誓う日です。
私たちが生きていくうえには親の恩や師の恩など、いろいろなご恩があります。それぞれとても大切なことですが、報恩講の恩とは、何より親鸞聖人がいただかれた念仏の教えに遇い、自らが生きる依りどころを教えていただいたご恩のことをいうのです。
さて、蓮如上人の『御俗姓』のお言葉の中に「ご恩報謝の志のない者」を厳しく戒められ、木や石に喩えられています。
生きている木というのは雨が降り、季節がめぐって春がくれば芽が出ますが、枯れた木というのは当然、雨が降っても全く芽が出ないのです。そして「石」の上にもどれだけ雨が降っても芽は出ません。そういう意味でそれを喩えにして、この報恩講において報謝の思いを起こすことの出来ない者は、たくさん仏の慈悲が雨のように降り注いで下さっているのにも関わらず、芽が出ない者なのだという喩えをもって表現されているのです。
芽が出るということは「信心」ということを喩えています。「オギャー」とこの世に生を受けた時から念仏を唱え、 信心をいただいている人は結局のところ一人もいないのです。数多くのご縁に出会い、師と仰ぐ人の教えを聞いてはじめて、今までご縁のなかった者が念仏申すことができるような身になっていくのではないでしょうか。
お念仏が自然と出るような身をいただいたことこそが、信心の芽が出るということなのです。そしてそれがだんだんと成長していくわけです。
報恩講を通して、報謝の志をもって聖人と心の響き合いのない名ばかりの私達にならないように教えを聞いていきたいものです。(宗教部)