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人間は 自分の心に 自分が縛られている

2010.10.18

こんな話をよく聞きます。今日は「お日柄が悪いので、○○をしない」とか、「今年はあの方角が悪いので、その方向へは旅をしない」、「お念珠の紐が切れた。何か悪いことが起こるのではないか」等々です。これは、耳にするだけでなく、私たち自身もこうしたことを気にかけ、迷い、振り回されてはいないでしょうか。今月のこの言葉は、私達のこのような状態を表した言葉です。
仏教に「無明(むみょう)」という言葉があります。その意味は、人生や物事の真相に明らかでないことを言います。それは、総ての存在は無数無量の因縁によって存在しており、総ての事象はこの因縁から起こるということ(縁起の道理)に気付けていないのではないのでしょうか。それ故に、私たちは、自分の都合のよいことを願い、都合の悪いことは悪として忌むという生き方になっているのです。自分の都合に執らわれ、自分を縛ってしまっているのです。それは自分自身を煩わせ、悩ませる原因となっているのです。
そうした生き方から解放されるには、如来(阿弥陀仏)の智慧の光(無明の闇を破る恵日とも)を求めていく生活、すなわち仏教を聴聞していく生活が大切ではないでしょうか。
私は、親鸞聖人の弟子、河和田の唯円の著した『歎異抄』第七条の「信心の行者(念仏者)には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず。諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々」を自らの生活の中に味わっていきたいと思っています。(宗)

人の為と書いて「偽」

2010.09.18

今月の言葉は、あるお寺の伝導掲示板に書かれていたのですが、私自身とても興味深いと思い頭から離れずにいた言葉です。
単純に考えれば「人の為」と書けばすごく良い漢字が連想されるのですが、「偽」(いつわり)という漢字になるのです。なぜ?と思いませんか。ならば、そもそも「偽」という漢字の成り立ちはどのようになっているのでしょう。
「偽」の語源とは、まず「為」という漢字を紐解く必要があります。「為」とは 「手」と「象」から出来ています。人間が象を手なずける様子を表しています。 そこに人偏がつくと、人間が作為的に手を加え、本来の性質や姿を矯め直すと いう意味になるそうです。要するに人の作為で姿を変える、正体を隠して上辺を 取り繕うという意味から「いつわる」となったとされています。
ところで、私たちは日常生活の中で、よく「誰の為にしてあげたと思ってるの」 「あなたの為を思ってしてあげたのに」などの言葉を使ったり、聞いたりすると思います。しかし、突き詰めていけば、自らの尺度・基準の中で都合の良し悪しを判断し、行動に移しているのであって、その者の本来のあるべき姿に私達が手を加えている「偽り」とも言えるのではないでしょうか。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、宗教に対し、真と仮と偽があるとし、それらを厳しく見極められ、まことの宗教は浄土真宗であると示されました。また、『「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。』(教行信証)という言葉を残されています。意味は、「真」とは、人生においてなくてはならないことです。これを失えば生きていることが空しく過ぎてしまいます。「偽」とは、人生にあってはならないものです。これにとりこまれると人生が台無しになってしまいます。「仮」とは、「真」に出会うために立てられたものです。その意味で人生において必要なものです。しかしその「仮」に固執すると「真」を見失ってしまうかもしれません。私達は真実の心に出会うために、自分自身と向き合い、偽りを偽りと判断できるように仏法の教えに触れていくことが大切であり、そこではじめて「偽りのない真の心」を持つことが出来るのではないでしょうか。(宗)

危ぶむなかれ 行けば わかるよ

2010.08.18

石川県白山市にある明達寺(みょうたつじ)という真宗大谷派の寺院のご住職で、清沢哲夫という方(故人)がおられます。清沢哲夫氏は、仏教の近代化に大きく貢献された清沢満之(きよざわ まんし)先生(大谷大学初代学長)の孫として生まれ、清沢満之先生の弟子にあたる暁烏敏(あけがらす はや)先生のお寺(明達寺)を継がれた方です。この清沢哲夫氏の著書『無常断章』に次のような詩が掲載されています。
「道」
此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ
(昭和二十六年十月『同帰』所載)

皆さんこの詩を聞かれたことはございませんか。「聞いたことがあるような気がする」という方も結構おられるのではないでしょうか。実は、プロレスラーとして有名なアントニオ猪木さんが引退式のときに詠まれたのがこの詩です。この詩を初めて聞いた時、すごく力強い詩だなという印象を持つ一方、何か自信がなく、日々を不安に思いながら生きている自分に対して、温かく包みこみ、励ましてくれるような印象を持ったことを覚えています。今月は、真宗の宗教者である清沢哲夫氏が「道」という詩に込められた思いを、蓮如聖人御一代記聞書から考えてみたいと思います。
御一代記の155項に「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」という一文があります。これは言い換えると「仏法は今にて候」ということでしょうか。この「今」とは哲学的には、今は終わるときにわかり、終わるということは今がわかることでもあると捉えます。すなわち「仏法は今にて候」とは、「終わってみないと今が正しいかどうかなんてわからないのだから、今この瞬間をいかに大切にするかが大事なのですよ」という教えではないでしょうか。また、御一代記は次のように続きます。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」。すなわち「私たちの心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」と説いておられます。   このように考えますと、「道」という詩には、「人生は、悩み迷い、困難の連続であるが、それはあなただけのことではありませんよ。結果なんて誰にもわかりません。終わってみて始めて良かった、失敗したとわかるのです。だからこそ、その生を生きる「今」を受け入れ、自らを大切にし、しっかりと今を生きていきましょう」という願いが込められているのではないでしょうか。(宗)

あなたにめぐり逢えて ほんとうによかった

2010.07.18

このことばは、こころの書家・詩人と呼ばれる相田みつをさんの「めぐりあい」の詩の一節にあることばです。相田みつをさんの詩は、どれもいのちの尊さ、大切さをあたたかくて、やさしいことばで私達に語りかけてくれます。このことばの後には「ひとりでもいい こころからそういってくれる人があれば」と続きます。私達が、「あなたにめぐり逢えて ほんとうによかった」とこころから言ってくれる人に一人でも出遇うことができたならば、それは、最高の幸せであり、とても感動的なことです。一人のほんものの人間にめぐり逢うことは大変難しいことです。しかし、ひとたびその人と出遇ったならば、この世に生れて、今ここに生きていることの意義をそこに見出し、このいのちは、生かされている、かけがえのない尊いいのちであることに気付くことができます。そして、その出遇い、そのことばが支えとなり、どのような困難も乗り越えていくことができるのではないでしょうか。つまずいたり、失敗をしても、それが自分を成長させるための出遇いだと受け止め、深く考え直し、学ことができます。その時に人のやさしさ、あたたかさをあらためて知ることになるのだと思います。
人の生涯には、さまざまな出遇いがあります。人は、出遇いとともに成長し、そのすべての出遇いが今の私を成り立たせていると言えます。その中で、たった一人の人との出遇いが、人生そのものを根底から変えることがあります。宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、師法然上人と感動にみちた決定的な出遇いをされました。そして「ただ念仏して 阿弥陀如来にたすけられなさい」という仰せをいただかれたのでありました。この出遇いの感動と感謝のこころを憶念しながら幾多の苦難の道を乗り越えられました。仏教とは出遇いの宗教であります。さまざまな他者と出遇い、それらを通してほんとうの自己に出遇い、その一切を成り立たせている大きなはたらきに出遇うことです。
相田みつをさんは、慈悲の眼差しをもってすべての事象を見つづけられ、一人ひとりとの出遇いを大切にされながら、自分自身の真の姿に出遇われ、そのことにより真実の教えに出遇っていかれたのではないでしょうか。(宗)

おれは 人間の いいところを見るその方が 面白いよ

2010.06.18

これは、「寅さん」こと渥美清さんのことばです。男はつらいよシリーズは全48作品を数える東京下町の人情味あふれる作品ですが、このことばからも主人公の人柄そのままの渥美さんのあたたかい眼差しが伝わってきます。
どんな人にも個性があります。個性は人の目に、時に長所、時に短所として映ります。そして長所、短所と判断する根拠は、これまで生きてきた中で培われた自分の価値観です。この人はこういう人柄だと説明する時に、同じ人を表現しているのに人によってとらえ方が違うことがあります。それは、個人の見方や相手との関係性が異なる為です。価値観は人それぞれです。しかし、日々の生活の中で接する一人ひとりのいいところを見つけることを習慣にしていけば、多くの人のいいところに気づき、いいところをたくさん持った人々に囲まれて生活している自らの環境に感謝の気持ちが持てるのではないでしょうか。
仏教では、一人ひとりが自らの仏性に目覚め、互いに仏性を礼拝し合うことの大切さが説かれています。仏性とは、仏の性質、仏になることができる性質です。常不軽菩薩という方がおられます。この方は、出会う人すべてに敬いの気持ちを持って合掌礼拝をなさいました。信仰がある人でも、そうでない人でも、どんな人であろうと、みんな仏の子として合掌されたのです。そして「あなたは仏になられる方なのだから、自分を大切にしてほしい」と語りかけられました。
日常生活の中で相手を仏と思い敬うことは難しいかもしれません。しかし、相手の異なる個性を尊重し、相手への敬愛の気持ちを持って接すれば、自然と自らの言動も思いやりを持ったものになるのではないでしょうか。そして、相手を敬う気持を持てば、相手のいいところがより多く見えてきます。日々の生活の中で、関わる人々のいいところをたくさん見つけることができれば、見える世界が変わり人生はとても豊かなものになるのではないでしょうか。(宗)

僕らは ここに今を 生きているんだよ

2010.05.18

この言葉は、イギリスのロックバンド  ザ・ビートルズの中心メンバーでシンガーソングライターでもあったジョン・ウィンストン・レノンの言葉です。彼は、反戦活動など多方面で活躍し、人間としての生き方を問うた、しかも、人々へ勇気を与える多くの言葉を遺しました。この言葉もその一つです。仏教は永遠のいのちを説き、そしてすべてがそのいのちに生かされて生きていることを教えています。人間も例外ではありません。私たちは、このことに気がつかなければなりません。ジョン・レノンのこの言葉は、永遠のいのちの中で私たちは「ここに今を」生きていることに目覚めなさい。尊い命を生きている自分の位置をしっかりと確認しなさいと、促しているようです。このことに目覚めたとき、私たちのなさねばならぬことが見えてくるのではないでしょうか。それはすべてがつながりの中で生かされていることへの感謝の心であり、そのことへの報謝の行いではないでしょうか。ジョン・レノンが反戦活動をしなければならなかったのも「僕らは ここに今を 生きている」という、自覚にたっての活動であったと思います。私たちは生かされている「今」を考えることの大切さを知る必要があるのではないでしょうか。「いのちの教育」を実践された東井義雄先生の「明日がある あさってがある と考えている間は なんにもありはしない かんじんの「今」が無いんだから」の言葉を思い出し、反省しきりの毎日です。(宗)

自らを見つめ直すことは とても勇気がいることである

2010.04.18

今月の言葉は、自坊の年中行事や年忌法要を勤める時にお話する内容でもあり、私自身の課題の一つでもあります。「自らを見つめ直す」ということです。これは、良いことも悪いこともすべて含めて自分自身を知るということではないかと思います。良いことについて振り返ることは容易いことですが、逆に悪いことについて振り返ることほど勇気のいることはないと思います。
どうしても私たちは自分自身にとって都合の良いように物事を考えてしまいがちです。自らに尺度を設け、その基準の中で善悪を決め、行動に移します。果たして、その基準は誰にとってのものであり、その基準は正しいのでしょうか。言うまでもなく誰でも嫌な思いをした経験を思い出したくないのは当然のことです。このことは、プライベートでもビジネスでも同じことが言えるのではないでしょうか。しかし、自分にとって都合の悪いことを振り返り、見つめ直すことこそが自分自身を成長させ、そして、はじめて他者に対して思いやりのある気持ちや接し方ができるのだと思います。
では、いつのタイミングで自らを見つめ直すのかということですが、私は自坊で毎夕のお勤めの際に一日の出来事について振り返るようにしています。皆さんにおかれましては、ご自宅のお仏壇の前で手を合わせる際に見つめ直すのも一つですし、有縁者の年忌法要(法事)や学園の宗教行事などで自らを見つめ直すのも一つだと思います。
先にも言いましたが、この繰り返しは、簡単なようで非常に難しいことです。しかし、このことの実践により自らの利点や欠点を知ることができ、自身の成長にも繋がり、同時に一日一日の生活が当たり前でないことに気付くことができると思います。
天台宗を開かれた伝教大師最澄上人(767~822)が書かれた「山家学生式」の冒頭に「一隅を照らす」というお言葉があります。どのような意味かと申しますと、「各人が夫々の立場、持ち場においてその責任をしっかり果たせる人になってほしい。その人がいるだけでほんのその周囲だけでも明るく暖かくなるような人になってほしい」ということです。
まさに自らを見つめ直すことのできる人、その実践こそが「一隅を照らす」人ではないでしょうか。(宗)

いやなことも何かの縁

2010.03.18

今年も多くの方が、二月三日の節分の日に豆まきや恵方巻きの丸かじりをされたのではないかと思います。「鬼は外、福は内」、そうなってくれたらと願いながら豆をまくのですが、現実はそううまくいかないものです。この鬼とは、自分にとっていやなこと、都合の悪いこと、例えば病気、年齢、死、貧乏、失敗、人から嫌われるなどのことでしょう。逆に福とは、自分にとっていいこと、都合の良いこと、例えば健康、美容、お金持ち、名誉、成功、人から好かれるなどのことだと思います。皆さんもおわかりのように、私たちが生きるうえで、自分にとっていやなこと、都合の悪いことは起こらず、自分にとっていいこと、都合の良いことばかりが起きるということはありえません。ですが、やはり「鬼は外、福は内」と願ってしまうのもまた私たちの姿です。今回少し考えてみたいのは、「鬼は外、福は内」と願う自分のこころの姿はどのような姿なのかということです。
「鬼は外、福は内」と願う自分はともすれば、鬼は外にさえ行ってくれればその鬼がどこに行こうとどうでもよく、福が来ることしか見えていない状況に陥ってしまっていないでしょうか。お金も欲しい、物も欲しい、自分さえよければよい、何かあるとひとのせいにする、いつも人と比べて安心したり、腹を立てたり、うらんでみたり、差をつけて見下げたり・・・。福を願う自分のこころが実は鬼になってはいないでしょうか。
お釈迦様は全てのことは縁によって仮にあるにすぎない(縁起)と説いておられます。すなわち、良いことを積み重ねれば良縁が生まれ、悪いことを積み重ねれば悪縁が生まれるのではなく、良いことも悪いことも全てが無数の縁によって生み出され、今がある。悪いことが起こるのも縁であり、良いことが起こるのも縁である。だからこそ無数の縁と向き合い、今の自分を見つめなおし、精一杯生きることが大切なのではないかと説いておられるのではないでしょうか。
残念ながら私たちの生活には「良かった」と思うことより「いやだな」「困ったな」と思う出来事の方が多いかもしれません。ですが、お釈迦様が説かれるように、それらは全て縁によって起こったことで今さらどうしようもないことだ。だからこそ「自分が出来ることをするしかない。何とかなる」とその悪縁を受けとめてみてはどうでしょう。もし、そういった心を持つことができれば、きっと自分の生きる世界の見え方も変わってくるのではないでしょうか。 (宗)

過去無量の いのちのバトンを 受けついで
いま ここに 自分の番を生きている (相田 みつを)

2010.02.18

このことばは、詩人であり、書家でもあります相田みつをさんの「自分の番 いのちのバトン」の詩の一節にあることばです。相田みつをさんの詩は、かけがえのない尊いいのちについて、慈愛に満ちたあたたかくてやさしいことばで私達に語りかけてくれます。
私達のいのちは、これまでに父と母で二人、父と母の両親で四人、そのまた両親で八人、十代前で千二十四人、二十代前(五・六百年前)では百万人、そのはるか前から、過去無量のいのちが受けつがれてきたいのちであると詠まれています。
数えきれない連綿と続くいのちのバトンが受けつがれてきたおかげで、今の自分のいのちがあるのです。その中のたったひとりでも欠けていれば今の自分は存在し得なかったのです。このことは、とても不思議なことであり、有り難いことであり、また、奇跡であるともいえます。そして、自分のいのちの尊さを実感できたならば、同時に他者のいのちも自分とまったく同じくかけがえのない尊重すべきいのちであるということに気付くことができます。更には、それらすべてのいのちが、互いに深く関わり合い、支え合い、つながり合っていることがわかります。
最近のニュースや報道を見ていますと、自分のいのち、あるいは他者のいのちを軽視して粗末に扱われているような心が痛む悲しい出来事が多くあります。私達は、あらためてこのいのちの尊さについて、一人ひとりが考え直さなければならないと思います。
私達を支えているものの中には、自然環境があります。これもいのちと言えます。このいのちは、現代に生きるものだけの所有物ではありません。過去から受け継がれてきたものであり、次の世代へ引き継いでいかなければならないものでもあります。環境問題もいのちという観点からあらためて問い直さなければなりません。
私達は、永遠のいのちともいうべき仏教の教えをいただいています。この仏教が教えるところの理念、智慧、方法をもってこれらいのちの問題を解決していくことができるのだと確信します。
相田みつをさんは、真実の教えを通して、あらゆる事象におけるいのちの本質について、慈悲の眼差しをもって見つづけていかれたのではないでしょうか。 (宗)

願いは相手を大切にします。 だから相手の心を開きます。暖かいのです。 ( 蜂屋 慶 )

2010.01.18

この言葉は、昭和五八年から九年間、光華女子大学・同短期大学の学長をつとめられた蜂屋慶先生が学園創立四五周年の前年、『学園報』第二〇号に「教育を支えるもの―願いと欲―」と題して寄せられた一文の中にあり、「願い」に支えられた教育は一人ひとりを大切にし、心を開きあえる、暖かい教育であると言っておられます。
光華女子学園は大谷智子御裏方の「仏教精神、特に親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えに基づく女子教育を」との願いによって創設され、「真実心」を校訓としています。「真実心」は「如来の御こころ」、「慈悲の心」、「摂取不捨のこころ」と説かれています。すなわち、仏さまの願いに支えられた教育を行うことを目指した学園なのです。そうして今年で七〇年がたちました。
この間、親の願い、教職員の願い、同窓生や幾多有縁の方々の願いと期待に応えて多くの人たちが巣立っていかれました。そして、今年も又これからも多くの人が巣立っていかれるでしょう。
今、光華女子学園は、「一人ひとりの輝ける未来のために」をモットーに学生・生徒等一人ひとりを大切にした教育を展開しています。
ちなみに、七〇周年の標語が選ばれました。仏さまの願いに支えられた暖かい「光華教育」が、いつまでも絶えることなくつながっていくようにと願いをこめた「悠か(はるか)な光 つながる心」です。(宗)