All posts by tukiyomi

自力の反対語は他力ではありません。懈怠です。

2011.08.19

今月の言葉は、親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えをあらゆる機会・場所で化導された平野修先生(九州大谷短期大学教授、1995年9月示寂)の言葉です。「自力」「他力」は日常よく使いますが、このような言葉になると、深い意味が考えられます。
何かものごとを成し遂げようとするとき、自らの力のみでする場合「自力」で成し遂げるといいます。また、自らの力のみでなく、他の人の力を借りてする場合、この「他人の助力」を「他力」と言います。辞書で「他力」の意味をさらにもとめていくと「転じて、もっぱら他人の力を当てにすること」とあり、「他力本願ではだめだ」という、自分で努力する事を諦めて安易に他人に頼ろうとする人を誡める言葉の原因となる意味にも解釈されています。
仏教では自分に備わった力、能力、また、修行・精進で身についた功徳力によって往生しようとするのが「自力」で、阿弥陀如来の本願、すなわち総てを救おうと働きかけてくださっている願いを「他力」といいます。私たちが往生のために「他力をたのむ」という事は、その本眼力(他力)をよりどころとして生きることなのです。この「自力」「他力」は、何れも「往生浄土」を願う事に他なりません。決して反対の言葉ではないのではないでしょうか。それよりも、「自力」の行、「他力」の信を怠ることが、「往生浄土」への反対語ではないでしょうか。お釈迦様が臨終の時、弟子たちに遺された誡めのことば「つつしんで懈怠することなかれ」を思い出します。(宗)

にんげんがさき 点数は後

2011.07.19

今月のことばは、詩人でもあり、書家でもあります相田みつをさんの詩「点数」の一節にあることばを紹介させていただきます。
相田みつをさんの詩は、どれも心が安らいだり、元気や勇気をいただけるものばかりで、人は生かされている目に見えないものの大切さ、すべてのものの命の尊さを語りかけてくださっております。
この詩の全文は「にんげんはねぇ 人から点数をつけられるために この世に生まれてきたのではないんだよにんげんがさき 点数は後」と続きます。
今の世の中の風潮に対し、何か指摘しているような感覚を覚える詩ではないかと思います。善し悪しは別にして、産まれた瞬間から競争社会に立たされ、学校の成績や会社での評価などありとあらゆるものに対し、評価尺度として点数化してしまっているのが現状ではないでしょうか。さらに、その点数を基準として人間性を見ているところがあるのではないでしょうか。相田みつをさんは、この詩を通じて本来の人間の在り方と命の尊さを伝えてくださっているのだと思います。また、私たち一人一人があらためてこれらを考え直す時がきているのではないでしょうか。
宗祖親鸞聖人は教行信証の中に「遠く宿縁を慶べ」というおことばを残されています。「宿縁」とは「因縁」=「縁」のことで変えたくても変えることができないことです。例えば、父と母の縁をいただいて生まれ、生きているわけです。その父母にも、それぞれ父母が存在します。誰ひとり欠けたとしても、今の私は存在しません。また人の死も同じです。このように、すべての物事には、良いこと(ご縁)もあれば悪いこと(ご縁)もあります。しかし、どのようなご縁であっても大切なことであり、現実として受け止めていかなければならないのです。そこで、心の支えになるのが仏の教え(仏法)であり、親鸞聖人が残された様々なご功績をいただくことにあるのではないでしょうか。まさにすべてのご縁を慶べる人生を送りたいものです。(宗)

悪人を憎む善人は、実力なき善人なり

2011.06.19

今月の言葉は、明治時代の真宗大谷派の僧侶で、大谷大学初代学長である清沢満之先生の言葉です。清沢満之先生は、歎異抄第3章に出てくる有名な一文、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機の教えを、「悪人を憎む善人は、実力なき善人なり」という言葉で表現されました。それではここで言う「悪人」、「善人」とはどういう者のことでしょうか。
私たちは普通、出来る限り悪い行いをせずに良い行いをしようと心がけていると思います。その心がけは良いのですが、自分は良い行いをしているという思いが強すぎると、他人をみてついつい「私はちゃんとしているのだから、あなたもちゃんとしてよ」と言ってしまいがちです。言われた側も「こっちもちゃんとやってるわ。そっちこそしっかりしてよ」と言い返し、揉め事になることも多いのではないでしょうか。良い行いをする者が善人であれば、これは善人対善人という不思議な争いとなります。一方、「ごめん。ごめん。悪かった」と言うと、相手も「いやいや、こっちこそ悪かった。ごめんな」となり、悪い行いをした者同士で、人間関係が円滑になることも多いのではないでしょうか。先日、TVのニュースを見ていますと、東日本大震災の被災地にボランティア活動をしに行った方が、「折角遠方から来たのにあまり活動ができなかった」とぼやいておられました。その方も本当に被災された方に何かできないかという善意の気持ちでボランティアに来られたと思うのですが、ついつい自分の善意が満たされないことに不満を覚えられたのだと思います。
私たちは、自分は良い行いをする「善人」であり、それを理解できない周りをみて「悪人」と思い込んでしまいがちです。しかし、少し謙虚な気持ちを持って、自分も悪人であると捉えてみればどうでしょう。そうすると、今まで気づかなかった周りの世界が見えてきて、自分の言動にも変化が現れるのではないでしょうか。そしてその謙虚さを見た周囲からの見られ方も変わってくると思います。
私たち人間は、どんなに良い行いをしようと心がけても、間違いや過ちを必ず犯してしてしまうものです。そして、なかなかそのことに気づかず、自分は間違っていない、正しいと思いがちです(善人)。しかし、自分は「どんなに心がけても過ちをおかしてしまう存在である(悪人)」ということが自覚できた時、はじめて謙虚になれ、周りに対して素直に頭を下げることができるようになれるのではないでしょうか。清沢満之先生は、なかなか謙虚になれない存在の善人を「悪人を憎む善人」と表現され、「謙虚さが大切なのですよ」と示されたのではないでしょうか。(宗)

遠く通ずるに それ四海の内みな兄弟とするなり
曇鸞大師

2011.05.19

このたびの大震災に遭われ尊い生命(いのち)を奪われた多くの方々に対して謹んで哀悼の意を表しますとともに、現在もなお苦難の生活を強いられ深い悲しみと不安の中におられます全ての皆様に衷心よりお見舞い申しあげます。私達がどんなに想像しても及ばないほどの状況であり、その悲しみや不安を取り除くことは極めて難しくて時間のかかることだと思います。その中で私達にできることは、それらを出来得る限り共有し様々な形で震災に遭われた方々の心に寄り添うことではないでしょうか。「共に」という存在でいるために何ができるのか、親鸞聖人の「共に悲しみ、共に苦しむ」という教えをもとに改めて考え直さなければなりません。このことばは、曇鸞大師の『浄土論註』にあることばで、親鸞聖人は、『教行信証』の中で引用されて「同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり」と記しておられます。仏教の教えをいただき、本願を信じ同一に念仏もうすものは、遠く孤独で悲しみの中にあってもこころが通じあって一つになれる。他者とつながりあっていることを実感できる。このことにより自分と関係している世界中のすべてが皆、兄弟姉妹とされ家族とされるのだと解釈できるのではないでしょうか。私達のいのちは他のいのちと互いに深く関わり合い、支え合い、つながり合っているいのちであり、その深いいのちのつながりを自覚することにより決して孤独ではなく、ひとつの共なるいのちを生きていることが顕かになります。このことによってすべてのいのちあるものは、兄弟姉妹だということができるのではないでしょうか。親鸞聖人は、仏の教えを仰ぎ「共に」生き、悲しみ、励まし合う仲間を「御同朋」と私達に呼びかけてくださっています。他者の苦しみを我がこととして受け止めることは、本学が最も大切にする「慈悲のこころ」「利他のこころ」に換言できます。共に手を携えてそのこころをもって接すれば、皆、兄弟姉妹のようになれると思います。人のこころに寄り添い、「共に」という存在でいるために今自分に何ができるのか、このことばをもとに改めて考えたいと思います。(宗)

人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり
(武者小路実篤)

2011.04.19

3月11日に起きた東日本大地震により多くの命が失われ、今なお、安否の分からない方や、避難所生活を送られている方が大勢いらっしゃいます。この天災で、普段以上に命の重みや尊さを強く実感し、失われたものの大きさに胸がつぶれるような思いがいたします。まずは被災者の皆様が、一日も早く元の生活を送ることができますよう心より願っております。

さて、今月のことばは、代表作に「友情」、「愛と死」等がある武者小路実篤さんという近代日本の作家が残したことばです。本当は、このことばの前に「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び」ということばがつき、「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び 人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」と続きます。
自身を花に例えたこのことばを直訳すると、「天から与えられた自分自身を咲かす喜び、他者と共に咲く喜び、そして、人が自分を見ていても、見ていなくても構わない、私は私として咲きます」となるでしょうか。植物が人の目を気にせず、季節が廻ればその花を美しく咲かせるように、私たちも自然のままに、自らの尊い命を咲かせればいいという意味だと思います。社会生活を送る上で、時に私たちは他人の評価や世間の価値観に振り回されてしまいます。しかしこのことばは、一人ひとりそれぞれが、かけがえのない命を、自分らしく凛とした姿勢で生きていけばいいのだと伝えているようです。

また、このことばを聞いて思い出されるのが、「天上天下唯我独尊」ということばです。これは、お釈迦様が、生まれてすぐ七歩歩いておっしゃられたことばだと伝えられています。
これは、この世にただ、私だけが尊いという意味ではなく、また、他人と比べて自分の方が尊いということでもありません。本当の意味は、私たち一人ひとりが、「この世にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、かけがえのない尊い存在、尊い命」であるということです。それぞれの個性の違いを認め合い、優劣なく、それぞれすべての命が尊いのだと認識することに他なりません。

寒い冬を乗り越え、今年も春になりました。桜が咲き、世界が花の色で色彩豊かに染まり、生命力あふれるこの季節に、新しい生活を迎える学生さんや皆様が、また、それぞれの美しいいのちの花を咲かせることを願ってやみません。(宗)

まなびやを出で行く子らにさきあれと
仏をおがみておもう朝かな

(大谷智子歌集『白萩の道』より)

2011.03.19

光華女子学園の各設置校園を巣立ちゆく皆さんおめでとうございます。三月はそれぞれの期間勉学を積み、晴れて卒業を迎え、新たな目的に向かって一歩を踏み出されるときです。この間、学園の願い、親の願い、同窓生や幾多有縁の方々の願いと期待の中で過ごされ、この日を迎えられました。
この時節になると、戦後間もない年の卒業式の朝に本学園を巣立つ女学生たちをおもい東本願寺の大谷智子裏方が詠まれた「卒業式の日に」と題した歌を思い出します。この歌がそうです。
大谷智子裏方は、仏教特に親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗(真宗)の教えを基本においた女子教育を行う学校の実現を願われました。この願いのもとに設立されたのが光華女子学園です。御裏方は自らの願いの実現を学園の総裁としてお亡くなりになるまで、見守り続けられました。この歌から、自らが発願し創設された学校を巣立ちゆく子たちの将来が幸せであるようにと願われる温かい姿が浮かびます。  光華女子学園はこのように温かい願いの中で生まれ、教職員をはじめとする幾多有縁の方たちによって受け継がれ支えられ成長してきました。この温かい心が建学の精神を表した校訓「真実心」なのです。(宗)
※「さきあれと」の「さき」は、「幸」「さいわい」「繁栄」を言う古語

親に会いながら 親を見ず
子に会いながら 子を知らず

2011.02.19

今月のことばは、あるお寺の伝導掲示板に書かれていた言葉です。今の世の中の風潮を表した言葉ではないかと思います。当然の事ながら一人の子が産まれるには、必ず父と母の二人の親が存在します。そして、その親にもそれぞれ二人の親が存在します。これは、一見当たり前のように思われますが、決して当たり前のことではありません。人と人との巡り合わせ、相性などすべての条件が整ってはじめて実るものです。私たちは、この不思議なつながりに今一度思いを致す必要があるのではないでしょうか。親と子の間で「親は子を選べず、子もまた親を選べす」と言ったり、また、親子喧嘩で「好きで産まれてきたんと違う」、「産んでくれって頼んだ訳と違う」などのことばを耳にします。
しかし、赤ちゃんは産まれてくるまで、母親のお腹の中で臍の尾で母体とでつながれ母子一体でした。その身が二つになり赤ちゃんは、この世に産まれると同時に自力で肺呼吸をはじめるため、苦しさのあまり産声を上げるようです。「いのち」を引き継ぐ自立への最初の苦しみでしょうか。また、母親の出産の苦しみは、赤ちゃんを産み「いのち」を伝えるための手助けなのです。私たちは皆、このような経験をしてこの世に産まれ、今を生かされているのです。
今月のことば「親に会いながら 親を見ず 子に会いながら 子を知らず」とは、前の虚しい親子の会話を表しています。今、大切なことは、親も子もこの出産という厳粛な事実を再認識し、「いのち」を引き継ぎ、伝えてゆく者として、親子とはいえ、お互いの立場や状況を理解して行動することが大切なのではないでしょうか。そして、すべての御恩に感謝する生活を送っていただきたいと思います。(宗)

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

2011.01.19

今月の言葉は江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。一八二八年の冬、良寛が七一歳の時、住んでいた新潟の三条に一五〇〇人以上の死者が出る大地震が起こりました。幸いにして、良寛自身には被害はなかったのですが、子供を亡くした山田杜(と)皐(こう)に送った見舞い状にこの一文が出てきます。
見舞い状では「地震は信(まこと)に大変に候。野(や)僧(そう)草庵(そうあん)は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」と生き長らえたために、こういうひどい目を見るのが辛いという気持ちを示した後、冒頭の言葉が出てきます。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという意味の言葉です。どんなに不運が続き、大災害に逢おうとも、それは紛れもない命の現実の姿でしかなく、そのことを「災難」としてしか捉えることができないならば、どこまでもその不運を嘆いて生きて行くしかありません。子供を亡くし悲嘆にくれる友人に対しそのことに一切触れることなく、「人として生まれたからには生老病死からは逃れることはできず、あるがままを受け入れ、その時自分ができることを一生懸命やるしかない」という仏教の教えを語ることで励ました、心のこもった言葉ではないでしょうか。そこには良寛さんの温かい人間味が感じられます。この良寛さんの手紙は、恐らく山田杜皐にとってどんな慰めの言葉よりも救いとなったのではないでしょうか。(宗)

私を見ていてくださる人があり 私を照らしてくださる人が あるので
私はくじけずに こんにちをあるく (榎本 栄一)

2010.12.19

これは、詩人であり念仏者でもあります榎本栄一さんの詩集『群生海』の中の「あるく」という詩です。榎本栄一さんの詩は、日常の暮らしの中のどこにでもある光景をご自身の生活実感として、難しい仏教語はあまり使われずに生活者としてのことばで詠まれています。そこには、はっきりとした信念があり、私達の人生の歩み方のお手本となる詩が数多くあります。
私達は、日々の生活の中で様々な出来事に突き当たります。そして、いろいろな形で生きることの厳しさにつまずき、傷つき、不安になり、くじけそうになることがあります。その時、「孤独」を強く実感することになります。しかし、私達は、本当に孤独の身なのでしょうか。
よくよく考えてみますと、この私は、私ひとりで成り立っているのではありません。決して ひとりで生きているのではないのです。お互いに支え合い、補い合ってすべての関係性の中に あると言えます。すべての生きとし生けるものは、他者とのつながりの中でしか存在しえない のです。「私を見ていてくださる人」とは、私を支えてくれているすべてのものと言えるのでは ないでしょうか。
宗祖親鸞聖人は、仏の教えを共に仰ぎ、手を携えて同じ道を歩むものを「御同朋」と私達に呼び かけてくださっています。このようにともに同朋としてくださることが明らかになった時、孤独のいのちを越えてともにあるというつながりを見出すことができるのだと思います。
仏教における「真実の教え」は、何ものにも妨げられることのない光としてあらゆる方向に平等にはたらき、いつでもどこでも私達に届けられています。しかしながら、私達は、自己中心で自分の都合によるものさしですべてをはかっているため、その光になかなか気付くことができません。自分ひとりで輝いていると錯覚しているのかも知れません。私の無明を照らし出し、私自身の本当の姿を教えてくださり、同時に大きな安らぎを与えてくださる光のはたらきに気付くことが大切です。生きることにとまどい、闇を感じることが多い人生の中にあって、その人生を生き抜く力と勇気、そして、励ましをいただくことができる大きな光(願い)の中に自分が生きていることに目覚めることが最も大切なことだと思います。
榎本栄一さんは、仏教の教えにより、その光(願い)に呼び覚まされて、人生の厳しさに負けることのない生き抜く力と勇気をそこから得られたのではないでしょうか。(宗)

しあわせは いつも自分のこころがきめる (相田みつを)

2010.11.18

日々の生活の中で、「幸せ」を感じる時間はどのくらいあるでしょうか? 1日、1回ほど?それとも10回ほどでしょうか?人によって、また、おかれた環境によっても異なるでしょうが、幸せを感じる時間が多ければ多いほど、楽しい毎日を過ごせそうです。
さて、このことばには、2つの意味があるのではないかと思います。
1つ目は、普段、自分の周りに当たり前にある幸せに気づいているか、ということ。2つ目は幸せ、不幸せという価値観は自分の思い込みで生まれるということです。
1つ目の「当たり前にある幸せへの気づき」とは、今日も一日をつつがなく迎えられ る幸せ、朝ご飯がおいしいと感じる幸せ、おはようと挨拶を交わしてくださる人がいる 幸せ・・・と、幸せを数えていけばきりがありません。そして幸せを数えれば数える ほど、実は自分を取り囲む幸せがたくさんあるのだと、実感できるのだと思います。
2つ目の「幸せという価値観は自分の思い込みで生まれる」とは、具体例を挙げれば、 どんなに恵まれて幸せそうに見える人でも、本人が幸せだと思っていなければ、その人は 幸せではないということがあるでしょう。幸せとは、例えばお金に不自由しないことだ、容姿に恵まれていることだ、などという定義は、自らが作りあげた価値観です。その価値観に振り回され、今が幸せだと感じられないこともあるかもしれません。しかし、本当は、自分に都合のいい出来事も、悪い出来事も、すべての出来事が自分を本当の幸せへと教え導きたい仏さまのプレゼントなのではないでしょうか。相田みつをさんの「しあわせは いつも自分のこころがきめる」という言葉は、私には、「仏さまの、必ず私たちを一人も漏らさず幸せにしたい、せずにはいられない。」という心を知り、信じ、喜び、受け取った「自分の心」だと思えます。
同じ出来事を経験しても、感じ方は人それぞれです。そうであれば、仏さまに与えられている多くの幸せに気づけるよう、幸せセンサーの感度を上げて、楽しいことをたくさんキャッチしてみてはいかがでしょうか?(宗)