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お蔭さま

2009.12.18

先日、寺坊のお参りでふと気付かされた経験をお話しさせていただきます。
あるお家の月参りに寄せていただいたとき、勤行が終わり、おばあさんと世間話をしている中で「もうこの年になると身体中あちこちボロボロやけどうまくつきあっていかなしょうがないな。何せ、何十年もの間、一言の文句もいわず、だまってこの体を支えてくれてるんやからな・・・感謝せな。」と仰られました。
皆さんは身体の調子が悪くなれば、どこどこが調子悪いとか痛いとか口に出すばかりで、自分自身の身体に感謝することはあるでしょうか、逆に腹を立ててはいないでしょうか?勿論、人間ですからその様に思うのは当然のことです。
人間は自分が誰かにしてあげたことはよく覚えていますが、自分がしてもらったこと、お世話になったことは、すぐに忘れてしまいがちです。
人と人との関係でもこうですから、自分の体の中のこととなればなおさらのことではないでしょうか。この身体があるお蔭で、歩いたり、走ったり、食べたり、考えたり、仕事をしたり、人間としての生活ができているのです。しかし、そのことに気付かずに当たり前になって毎日を送っているのが現実です。
要するに、自分が気付いていない、様々な働きかけによって生かされているのです。過去を振り返っても多くの方々、多くのものに支えられていたこと、現在においても当たり前のように過ごしている毎日が実は当たり前ではないと認識した上で、他者に対しては勿論、自分自身に対しても絶えずお蔭さまの気持ちを持って日々の生活に感謝することが大切なのではないでしょうか。(宗)

「良い」と「悪い」はお隣同士

2009.11.18

ある弁護士事務所の所長から伺った話ですが、揉め事の仲裁で大切なことは、双方の言い分をしっかり聞いたうえで、「揉め事に対する客観的な意見を言えるか」ということだそうです。その所長によると、当事者は自分こそが正しいと言ってなかなか譲らないものだが、多くの場合「良い」「悪い」の判断は、自分の経験という主観に基づく判断を客観的な判断と捉え、客観的に見て自分が正しいと頑張ってしまう。しかし、それは主観的客観性を持った意見であり、客観的な意見とは言い難いことも多い。本当の意味での客観的な意見とは、自分の主観を超え、今の環境や情勢をしっかり再確認したうえで冷静に判断されたことに基づく意見、すなわち客観的客観性を持った意見のことであり、それを、ていねいに説明できるかどうかが揉め事解消の秘訣だそうです。
同じような話として、江戸時代の曹洞宗の僧、良寛の詩に次のようなものがあります。
昨日之所是    昨日の是とせしところを
今日亦復非    今日 亦復(また)非とす
今日之所是    今日の是とせしところも
安知非昨非    安(いず)くんぞ 昨の非にあらざるを知らん
是非無定端    是と非と定端なし

この詩の意味は「昨日は良いことであったものが今日には悪いことになる。今日は良いことであったものも昨日には悪いことであったかもしれない。良いも悪いも基準はないものだ」ということだと思います。つまり、「自分中心に物事を判断しては駄目ですよ。まわりの状況や周囲の環境の変化をしっかり把握して、自分の考えを整理することが大切なのですよ」という教えではないでしょうか。
また、聖徳太子の十七条憲法の第十条に「十に、曰く。忿(いか)りを絶ち、瞋(いか)りを棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各(おのおの)執ること有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖(ひじり)に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定むべき。相共(あいとも)に賢愚、鐶(みみがね)の端(はし)无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえっ)て我が失(あやま)ちを恐る。我独り得たりと雖(いえど)も、衆に従ひて同く挙(おこな)へ」とあります。これは「人にはそれぞれ考えがあり、その考えに捉われることがある。私たちは皆凡夫であり、その是非をつけることはできない。それは耳飾りの輪の端がどこかわからないようにはっきりとしないものだ。だから相手が自分に怒りをぶつけたり、自分が相手に怒りをぶつけようとした時は、まず、自分に過ちがないか見つめることが大切ですよ」ということだと思います。
「自分中心に物事を見るのではなく、まず自分のことを見つめなおしてみる」これが、人間関係を円滑にする最大の秘訣かもしれません。(宗)

つらくても おもくても 自分の荷は
 自分で背負って 生きさせてもらう (東井 義雄)

2009.10.18

このことばは、「いのちの教育」を信念とされた教育者であります東井義雄先生の数多く残されたことば(教え)のひとつです。
東井先生は、常に子どもの側にある教育を目指され、子どもの命を輝かせる教育を実践された方であり、真実を見極める眼差しであらゆる事象を見ていかれた方でありました。
私達は、さまざまな出来事に突き当たり、苦しみ、思い悩み、時にはそこから逃れたくなることがあります。しかし、結局は、現実を受け入れた上で自分自身がその対処方法や解決策を見出し、乗り越えなければなりません。決して荷を降ろすことはできません。眼には見えないけれど背負いきれないほどの重い人生の荷を背負って生きるほかないのです。
私達が背負っている最も大きくて重い荷は、自分では思い通りにならない「生老病死」と いう問題ではないでしょうか。この荷は、決して他者に背負ってもらうことはできません。 たとえそれが血のつながった親子であったとしても、親が子どもの荷を代わりに背負って やることはできないのです。
それでは、その荷を背負いきれないと感じた時、何を拠り所にしたらよいのでしょうか。 それは、釈尊、宗祖親鸞聖人が顕かにされた仏教の教えにあるといえます。そもそも仏教の基本は、人間として避けることのできない根本問題である「生老病死」の苦悩、不安、痛みといかに向き合い、どのように越えていくか、その道を見出すことであり、そのことを通して真実の教えに出遇うことであるといえます。この仏教が教えるところの理念、智慧、方法をもって乗り越えていくことができるのではないでしょうか。また、決して孤独ではなく、必ず摂めとって、見放すことなく、支え続けてくれているものがあることに気付くことができます。このような世界に生かされていることを実感することによって、苦難を乗り越えていくことができるのではないでしょうか。
仏教の教えとは、自分の荷を代わりに背負ってくださる方がいてくださるとか、荷を降ろす方法があるという教えではなく、すべてのいのちの関わりの中で、数限りないご縁によって、ただ今、この瞬間に起こった出来事に対して、その縁が自分にとって都合のいい縁であっても、都合の悪い縁であったとしても、すべてをそのまま縁として受け入れ、向き合い、そして乗り越えていくことのできる教えだといえます。
東井先生は、この真実の教えに出遇われて、その教えを通して自分自身の真の姿を見続けられながら、いのちの教育を実践していかれたのではないでしょうか。(宗)

人間は闇の自覚なしに、
光の自覚があろうはずがない。(高光 大船)

2009.09.18

七月二十二日、四十六年ぶりに日本で皆既日食が観測できるとのことで、天文ファンのみならず多くの人々がよい天気になれと願いながらその日を迎えました。しかし、日食が観測できる地域はあいにくの曇り空で、一瞬でも、との希みの中でその時を待っていました。皆既日食が最も長く観察できる悪石島もあいにくの天候で、皆既日食が始まるころには雷雨に見舞われてしまいました。雲の上では日食が進み、雲を通した地上も、薄暗くなっていき、やがて六分二十秒あまりの皆既現象で真っ暗闇となりました。このように日食観測という本来の目的は達成できなかったのですが、この闇の体験について、「短い時間であったが貴重な体験でした。光のありがたさが改めて実感されました。」と、異口同音に答えられていたことが印象的でした。光の中で周りのものが見えるという当たり前と思っていた状態から、何も見えなくなって、自らをも確実に見定められない、何が起こるかわからない不安な暗闇の状態を体験し、光のありがたさが実感できたのです。
私達は、日頃からあらゆることを自らの物差しで計り、それに適わないときは、悪い、不満だ、面白くないなど、そこから生み出される悩みや苦しみ、迷いの中で生活を送っているのではないでしょうか。その生き方が、あらゆるものを正しく見ることの出来ない、暗闇の中で生きていることと同じなのです。
仏教では、この悩み、苦しみ、迷う人間の生き方を、無明の闇の大海をさまよう船にたとえ、一方仏さま(阿弥陀仏)の人知を超えた究極の智慧を「光」と現し、無明の闇を破る「恵日」と説いています。
私達は、求めて仏教を聞き、「恵日」を実感した生き方をしたいと思います。(宗)

まず 聞こう

2009.08.18

「聞く」ということは私たちにとってどのようなことなのでしょう。
ただ単に自分の耳で音を聞くだけではありません。聞くという行為には、自らが他人の声を聞くことや他から聞こえる様々な音を拾って自らが考えることなのではないでしょうか。
先日四歳になる我が娘との会話の中でふと考えさせられたことがあります。それは、娘からの他愛もない質問に対し私が説明する中で、わからない言葉や納得のいかないことがある度に、「どうして」、「なぜ」と尋ねるのです。そこで私が「黙って最後まで聞きなさい」と 言ってしまったのです。しかし、よくよく考えてみれば娘に対し間違ったことを言ってしまったと反省することになりました。
浄土真宗では、「聴聞」を大切にしています。「聴聞」とは耳を傾けて聞くことです。そして、その「聴聞」する上で一番大切なことが、「素直に聞くこと」です。
しかしながら「素直に聞く」ということは一見簡単そうですが、実は何よりも難しいことなのです。自分にとって都合の良いように聞くことはできても、話す相手の思いをそのまま間違いなく聞くことは容易なことではありません。
素直に聞くとは、まさに四歳児の娘の聞き方こそが「素直な聞き方」だったのです。わからない言葉がでてきても、納得のいかない話でも、何もかもわかったような顔をして聞く聞き方ほど、素直でない聞き方はないと思います。わからないことは、わからないと尋ね問うてゆくのが素直な聞き方なのではないでしょうか。(宗)

あなたの喜びを喜んでくれる人が必ずいます

2009.07.18

「二人で泣けば悲しみは半分になり、二人で喜べば喜びは倍になる」という言葉を実感される方も多いのではないでしょうか。 私たちは、自分にとって嬉しいことがあった時、自分だけが喜んでいるのでは少し物足りないし、誰にも相談できない悩みや苦しみを抱えていると、 気持ちが参ってしまうものです。「自分は一人ぼっちだ」「自分をわかってくれる人がいない」という思いを抱えた生活は、辛く苦しいものです。 「そんなことはない。自分は一人でもしっかりと生きていける」という方もおられるかもしれません。でもそんな方でも、重い病気にかかった時など、 本当に悩み苦しい思いをしている時、同じ悩みや苦しみを持っている方からいただく励ましやアドバイスは、非常に心強いものではないでしょうか。 自分の喜びや悩みを共有してくれる人がいると実感できる時、「ありがたい」ものです。このように「一人ではない、わかってくれる人がいる」と いうことは、生きていくうえでとても大切なことです。では、皆さんには自分のことをわかってくれる人がおられますか。「いる」と実感できる方は 幸せな方だと思います。
しかし、残念ながら私たちは、「自分のことをわかっている人がいる」と気づかず、ともすれば、「誰もわたしをわかってくれない」といって自分の殻に 閉じこもり、素直に生きられないものです。
浄土真宗の祖である親鸞聖人のご遺言の書と伝わる『御臨(ごりん)末(まつ)御書(ごしょ)』に次のような言葉があります。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。

「一人いるときは二人、二人の時は三人と思ってください。うれしい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではありません。いつもそばにこの親鸞がいますよ」という意味の言葉です。 私はこの言葉を「あなたは一人ではない。あなたのことをわかってくれている人が必ずいるからね」という励ましの言葉であると受け取っています。悩み苦しい時には「自分は一人ぼっちだ」と 拗ねた気持ちになってしまい、「孤独」な世界を生きているように思ってしまいます。本当は多くの方が支えてくれているのに、そのことに気づかず、生かされている自分を忘れ、自分だけが生 きていると思ってしまいがちな私たち。そんな私たちを温かく包んでくれる言葉だと思います。(宗)

あなたは あなたであることにおいて尊い

2009.06.18

釈尊は、すべてのいのちが等しく尊いことを私達に懸命に伝えてくださいました。
私のいのちは、天にも地にもこの世の中にたったひとつしかない、かけがえのないいのちであるからこそ尊いのです。また、私のいのちが尊いということは、他のいのちもみんな等しく尊いということになります。しかも、無条件であるがままで尊いのです。誰とも代わることができない存在として、このいのちのままで尊いのです。
決して、他者と比べて自分の方が尊いなどと優劣がつけられるものではありません。
人は、自分と他者をどうしても比べてしまいます。そして、他者を羨ましく思うことが往往にしてあります。時には、自分は価値のない存在だと思うことさえあります。
しかし、あらためて自分自身を見つめ直してみてください。自分のいいところが必ず見つけられます。他者とは比べることのできない尊い私のいのちを今、ここにいただいていることに気が付くことができるはずです。
そして、それぞれのいのちは、輝きをもっています。花は、それぞれ青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、赤い花、白い花・・・すべての花は、自らの色そのままで光り輝いて咲いています。「色」は「個性」と言えます。その個性が光り輝くこと、私が私の色で輝くことが尊いことなのです。他者と比べる必要などまったくないのです。私が私らしく生きること、その個性を大切にし、他者の個性を尊重することによって、すべてのものが輝くことができるのです。
私が私であるがままで認められる世界、全てのものが等しくそのままで受け入れられる世界、そのままで光り輝ける世界を真実の世界と言うのではないでしょうか。
釈尊が説かれたように「あなたは あなたであることにおいて尊い」そういう眼差しで本当の自分自身に出遇うことができたならば、そして、同時に自分の周りにある全ての尊い存在に気が付くことができたならば、その時は必ず、真実の世界に生まれることができるのではないでしょうか。(宗)

前に生まれん者は後を導き、後に生れん者は前を訪(とぶら)え。

2009.05.18

この言葉は、中国唐時代初期の僧・道綽禅師の言葉で、その著『安楽集』に見えます。道綽禅師は、浄土教の開拓者といわれ、親鸞聖人も「真宗七高僧」の一人として尊崇され、主著『教行信証』の末文にこの言葉を引用されています。
親鸞聖人は苦しみ悩む人間の救われる道を求められました。九歳で得度し、その後二十年間にわたって比叡山で仏道修行に励まれましたが、求めるものは得られず、やがて、阿弥陀仏の本願を信じてただ念仏することのほかに救われる道はないという法然上人の教えに遇われたのです。以降、法然上人の弟子として、本願念仏の行者としていき、獲信したその教えを多くの著書や和讃として後世の人々に残されました。
今月のこの言葉は、前に獲信し、後を教え導く法然上人と、救いの道をもとめる親鸞聖人との関係を表したような言葉です。実は、仏教はこのような関係でお釈迦様以来伝えられ、苦しみ悩む人々に応えてきたのです。親鸞聖人が、『教行信証』の末文の総結びとしてこの言葉を引用されているのは、自らの求道の経験から、後の世に生きる私たちの生き方への呼びかけではないでしょうか。
この道綽禅師の言葉は、四十二歳で乳癌を発祥してから四十六歳で亡くなるまで、苦しい闘病生活のなかで、仏法を聴聞し続けた鈴木章子さんのこの言葉を思い出します。
「道に迷ったら、たちどまって道を知っている人に尋ねるのが一番」 (宗)

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

2009.04.18

今月の言葉は、江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取れます。要するに限られた「いのち」です。
皆さん少し平生を振り返って考えてみましょう。今の世の中は色々悩み事が多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のこと等、幸せな事より悩み事の方が多く重たくのし掛かっている毎日ではないでしょうか。
しかし、物事にはすべて結果があることは言うまでもありません。無常にも時間は止めることができません。ならばどう時間を過ごすのかを考えること。 即ち、限られた「いのち」の中で、その結果に到るまでを如何に充実したものにし、悔いの残らないようにすることが大事だと思います。
また、この良寛和尚の句から親鸞聖人が得度をされる時にお詠みになられたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を連想させられます。「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものならもう見ることはできません。」とそのような心境で親鸞聖人は慈鎮和尚に得度を願われたことと思います。
この二つの歌から伺えることは、今生きている命を「如何に生きるか」ということではないでしょうか。自分自身が積み重ねてきた過去の経験(苦しみや楽しみ)を現在に生かし、そして未来につなげていくことができるのは、自分一人の力ではありません。いろいろな人に支えられているからこそ実現できるのです。
そのことに気付き、そして感謝の気持ちを持って日々充実した生活を過ごさせていただくことが私たちの使命なのではないでしょうか。(宗)

足るを知ろう

2009.03.18

皆さん「今、幸せですか?」と聞かれたらなんとお答えになられますか。一度、少し立ち止まって考えてみませんか。
南アジアにブータンという仏教国があります。国民の多くが自給自足で生活しており、決して経済的に恵まれているという国ではありませんが、GDP(国内総生産)よりGNH(国民総幸福量)を国家目標に掲げ、「どちらが本当の幸せなのか」を問いかけている国です。このブータンの国勢調査で「今、幸せですか」と質問をしたところ、国民の90%以上の方々が「幸せ」と答えられたそうです。その理由は、「家族に心配事がない」や「飼っている家畜が元気にしている」といったことだそうです。家族を慈しみ、日々の日常の一つひとつの場面に満ち足りた思いがある、言い換えれば、「家族や村々で心からの笑顔が見られたら充分」という思いを持っておられるのではないでしょうか。
日本では戦後、「より便利で、より楽に、豊かで」という「幸福感」のもと、それを追求 することが第一であり、そのためには、大量生産、大量消費、過度な競争であっても仕方が ないといった考え方が中心であったと思います。この考え方は確かに私たちに「便利で、 豊かな社会」を与えてくれましたが、一方、競争に敗れた多くの弱者を生み出す社会、 資源を湯水のごとくに消費し、暮らしも体もメタボになり地球温暖化を引き起こす社会を 作ってしまったことも事実です。欲望を満たしても、満たしても、もっと、もっと、 と次から次に湧き出てしまい、「求めても、求めても得ることのできない苦」の中に生き てしまっている今の私たちは本当に幸せなのでしょうか。百年に一度の大不況といわれる 今、このような「幸福感」を追求することが本当に良かったのか、ということが問われようとしています。
私たちの幸せとは、モノの豊かさや便利さ、ましてやお金の多さ社会的地位で決まるものではありません。心の豊かさ(心の持ちよう)で決まってくるものではないでしょうか。お釈迦様の言葉に「足るを知らざるものは富めりといえども貧し。足るを知るものは貧しといえども富めり」があります。「足るを知る」とは簡単に言いますと「満足することを知る」ということかと思います。「日々のあるがままを受け入れ、おかげさまでと満足できる喜びを知ること、それがあなたの幸せなのですよ」というお釈迦様の教えだと思います。今あるもので満足すればきっと幸せに暮らせるはず。仏教とはそのことに気づかせてくれる教えなのかも知れませんね。