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生かされていることに「ありがとう」

2008.04.18

私達は、充実した毎日を過ごしているでしょうか。
今では医学も進歩し、昔より人の寿命が二倍近く長くなっています。しかし、ただ単に長くなった命を喜ぶのではなく、むしろ長くなった命を、いかに充実した日々とするのか、いかに生きるかという事に「こころ」を置くべきです。
言い換えれば、時間の「量」から「質」へ転換することが大切なのです。
即ち、「一瞬一瞬が大切」なのです。と言い換えてもいいのかも知れません。
とは言うものの時間の質を高めることは、正に「言うは易く行うは難し」です。
ではどのようにして「質」を高めるのでしょうか。例えば、大半の人は一日の生活サイクルが決まっています。その生活サイクルの中で、無意識のうちに過ごしている多くの時間に、いかに意義を与え、見つけてゆくかを考えるのも一つではないでしょうか。
このように時間の「質」を高めることは、案外「何でもない」または「つまらないこと」に意味を与えていくことになりますが、生かされていることに「ありがとう」の感謝の気持ちを持つことで、はじめて充実した意義のある生き方が見えてくるのではないでしょうか。
つまり、ただ単に流れていく時間を「自分らしく」有意義に過ごすことなのです。
今ここにこうして自分がいるのは、自分だけの力ではありません。友人・知人・兄弟に支えられ、そして両親をはじめとする御先祖様の色々な思いを託されて生かされているのです。その事に「ありがとう」と素直に言えるようになりたいものです。(宗)

自分の我を折ることのできる人
他人を思いやり、感謝し、自己を反省できる人

2008.03.18

お釈迦様の出家の動機となったとされる有名なエピソードに、四門出遊があります。若きシッダールタ(出家前のお釈迦様‐カピラ城の王子)が、お城の東門から出て老人に会われ、南門から出て病人に会われ、西門から出て葬儀に会われ、悩める心を抱きながら北門から出た時に出家者に出会われ、心を強くひきつけられたというものです。すなわち私たちは、必ず年老いていきます、また、必ず病気にもなります、そしていつかは必ず死にます。つまり、「老いるべき若さ」「病むべき健康」「死すべき生」をもって生きているのです。ですが我々はこの「老いるべき若さ」「病むべき健康」「死すべき生」という事実を容易に受け入れることができません。いつかは死ぬことは当然なのに「自分は死にたくない」とその事実から目をそらしてしまいます。
つまり、死に対して嫌だという自己の「我」をはり、その「我」に執着し思い悩んでいる存在。
それが私たち人間ではないでしょうか。
ではこの「我」は無くすことができるのでしょうか、それともなくならないのでしょうか。
親鸞聖人は、私たちは「我」を消滅させることはできないが、瞬間的に「我」を折ることは
できると考えておられます。これはすなわち、「死すべき生をいかに生きるか」という私たちの
根本課題への答えとも言えるものだと思いますが、親鸞聖人はこの「我」の折り方について、三つの方法を示されていると思います。御消息集に「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ」という一文があります。現代語にしますと「弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、ご縁ある人々を大切にし、ていねいに接してこそ、本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないか」ということになると思います。つまり仏さまの願いに生きようとするには「人を思いやる」ということ、そして「反省する」ということが必要だと言っておられます。他人に対して、「大丈夫かな」と真に思ったその瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。「本当にこれでよかったのか」と真に反省した瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。また、有名な和讃に「恩徳讃」があります。「恩徳讃」とはつまり「感謝する」ということです。「ありがとう」と真に感謝した瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。他人を思いやり、感謝して反省して生きる人、こういった人は「我」を折ることのできる人であり、そういった生き方こそが、私たちが真に求めるべき生き方ではないでしょうか。(宗)

見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ(金 子 みすゞ)

2008.02.18

童謡詩人 金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」の詩の一節にあることばです。
金子みすゞさんの詩は、生かされてあること、違うことのすばらしさなど、どれも慈愛に満ちた広く深く、そしてやさしさに溢れたことばで私達に語りかけてくれます。また、一切衆生すべての生き物の立場から物事を見て、すべてのいのちを我がいのちとして見つめる心を持った方でした。そのすべてのいのちに平等に注がれる眼差しは、仏の心ともいえるでしょう。
この詩は、星とたんぽぽをあげて、昼間の星も地中にある冬のたんぽぽの根も眼には見えませんが、「見えないけれどもあるんだよ、見えないものでもあるんだよ、しっかり存在しているんだよ」と詠まれています。
人はそれぞれに自分の物差しを持っています。それに合わないもの、計算できないもの、あるいは、眼に見えないもの、知らないものを往々にして否定したり、遠ざけたり、無視することがあります。しかし、この世の中は、自分の考えが及ぶことと及ばないこと、見えるものと見えないものの二つで一つなのです。その二つがあってこそはじめてすべてが成り立つのです。
金子みすゞさんは、しっかりとその両方を見る眼差しを持った方でした。そして、見えないものの中にこそ大切なものがあり、真実があるのだとこの詩を通して伝えたかったのではないでしょうか。
すべての生きとし生けるものは、数限りない眼に見える、見えない両方のはたらき、すなわち、大いなるみ仏の慈悲によって生かされていることに気付かれて、自分自身がその真っ直中の世界にいることを実感して、その慈悲の光の中に見えないけれども確かにあるみ仏の存在に気付かれていたのでありましょう。
そして、その見えないけれども確かにあるはたらき(慈悲の光)に照らされて、自分自身とまわりのすべてのものを見つづけていかれたのではないでしょうか。(宗)

小さきは 小さきままに 花 
咲きぬ 野辺の小草の 安けきを 見よ(高田 保馬)

2008.01.18

明けましておめでとうございます。新しい年を迎えました。寒い日が続いていますが、来るべき季節へ、確実に自然の営みが行われています。去年、健気(けなげ)に咲いた野辺の小草の地に新しい芽吹きが見られ、小草は小草の「いのち」を受け継ぎ、次ぎへ伝えています。時が来れば小草はその「いのち」のままの花を咲かせ、
精一杯生き、枯れていきます。自然の相(すがた)です。
仏教では「自然」を「じねん」と訓じ、「自ら(みずから)然る(しかる)」(人間の作意のないそのままのあり方)という意味に解しています。人間は、自然環境(すがた)を自分たちの都合のよいように改造できると考え、それを
実行してきました。その結果、心身ともに安らぐことの出来ない多くの問題を惹起(じゃっき)することになりました。
人間は自然を超えた存在でなく自然の一部であることに今一度思いをいたすべきでしょう。自然のままに
咲く野辺の小草に「安けき」生き方を学びたいものです。(宗)

※仏教に「自然法(じねんほう)爾(に)」ということばがあります。「法爾」は、法(真理)が「そのまま」に顕現していることを意味し、「自然」と「法爾」は同義語とされています。人間の作意のない、真理のままに生きることをいいます。

他人の欠点がよく見えること自体
自らの欠点である(あるお寺の掲示板)

2007.12.18

皆さんこの言葉を聞いてどう思われますか?
私たち人間は、何に対してもよく比較する習性があります。自分以外の事が気になり自分と比べ、自分への都合の良し悪しの中で自分自身の基準を作り、善悪・優劣を決めてしまいがちです。そこから生まれるのは、他人に対する「優越感や自慢、逆に劣等感や嫉み、僻みのこころ」です。こういった「こころ」は誰もが持っています。
しかし、その様な「こころ」は、正しい・良い「こころ」でしょうか。
私達自身の中でこう言った「こころ」を正しく見つめることが必要なのです。
今月のことば「他人の欠点がよく見えること自体 自らの欠点である」は、「自分自身をよく知らないが故に、他人の欠点がよく見える」と言いかえてもいいと思います。私達は自分自身のことを正しく見極めていません。
要するにまず「他人の欠点は自分の欠点」であると認識することです。そして、その繰り返しによって自分自身を正しく知ってゆくことだと思います。
大切なのは、他人の欠点を自分の欠点として捉え、「他人の欠点から、自分自身何を学んだか」ということではないでしょうか。(宗)

ともに生きよう

2007.11.18

「ともに生きる」とはどういうことでしょうか。友人や家族と仲良く生きようということでしょうか、また、助け合い、支え合いながら生きようということでしょうか。今月は、浄土真宗における「ともに生きる」意味を考えていきたいと思います。
皆さんご承知の通り、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人がその生涯をかけて探し求め
られたのは、全ての人々が平等に救われる道です。全ての人々が救われるとはつまり、聖人
自身もその道に出会われ救われたのです。親鸞聖人が関東の門弟に送られた手紙である
御消息に「とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ」という一文があります。
現代語にしますと「ご縁ある人々を大切にし、ていねいに接してこそ」ということになると
思います。ここに浄土真宗における「救い」の本質があるのではないでしょうか。
私たちは家族や友人など、多くの人々とともに生きています。しかし、そんな私はその家族や友人をどのように見ているでしょう。まず自分という自我(自分が正しいと思う心)を通して見ているのではないでしょうか。もし、そうであれば、真の意味で「ともに生きている」のではなく、自分という世界と違う世界を生きている存在、つまり、家族だから一緒にいる、仲が良いから、気が合うから一緒にいるということになってしまいます。しかし、この自我に執着し続ける自分という存在、つまりどうしようもない自分であることに気づき、それを受け入れて生きていく・・・そのことに気づいた瞬間、自分の傲慢さがはじけとび、他人を「とも同朋」として平等に見ることができるようになるのではないでしょうか。浄土真宗における「ともに生きる」とは、他人を「とも同朋」という自分と全く平等な存在、もっと言えば、弥陀によって救われるべき尊い命を生きている存在であることに気づき、そうした他人を「とも同朋」として同じ世界を生きていくことです。そうしたことに気づくことができたなら、他人に対して傲慢でなく、また、気後れもなく、「とも同朋」として自分と平等な存在として接して「ともに生きていく」世界に出会うことができるのではないでしょうか。 (宗)

私がさびしいときに
仏さまはさびしいの (金子 みすゞ)

2007.10.18

童謡詩人 金子みすゞさんの「さびしいとき」の詩の一節にあることばです。
すべてのものにあたたかい眼差しを向け、清らかさを失わない澄んだ眼と純粋な心で書かれた
金子みすゞさんの詩は、どれも慈愛に満ちたやさしくて思いやりのあることばで私達に語りかけて
くれます。
この詩は、「私がさびしいときに、よその人は知らないの、お友だちは笑うの、お母さんはやさしいの、仏さまは
さびしいの」と私がさびしい時の私と他者との関わり方が書かれています。まったくの他人は、気持ちを分かってくれません。友達は、気持ちを察してくれて明るく振舞ってくれるのですが、本当のところはなかなか通じません。母親は、さびしい私をじっと見つめて、一方的に励ますことはしないでやさしく接してくれます。しかし、私には、本当の意味でさびしさを共有できる、丸ごと受け入れてくれる存在が必要なのです。私がさびしい時にがんばれと励まされるより、心に寄り添うように「さびしいね」と言われることの方がどれだけさびしさが和らぐことでしょう。
あなたの悲しみ苦しみは私の悲しみ苦しみであり、あなたの喜びは私の喜びである、といつも共に同じ立場に立って慈悲の眼差しをもって見とどけてくださる大きな力(はたらき)を仏さまというのでしょう。私がさびしいと仏さまもさびしい、私がさびしい時、仏さまも一緒にそのさびしさを背負ってくださる、そういう仏さまのお心が聞こえた時、私の心は安らぎ癒されるのではないでしょうか。
人は、苦しいことやつらいこと、生きることの厳しさにつまずいた時、「孤独」ということを実感します。その時一番欲しいものは「共に」という存在であり、自分をそのままの姿で尊い存在であると認めてもらえる世界です。
仏教の教えとして「一切の衆生を必ず救う」という願い(本願)が示されています。
この教えをいただく私たちは、この願いを心の拠所として決して孤独ではなく、共に喜び共に悲しみ
「さびしいね」と語りかけてくださる存在(はたらき)があることに気が付いていくことが大切です。
金子みすゞさんは、すべての生きとし生けるものは、大いなるみ仏の慈悲によって生かされている
ということに気付かれて、その慈悲の光の中にすべての事象と自分自身の真のすがたを見つづけて
いかれたのではないでしょうか。(宗)

「どのような道を どのように歩くとも いのちいっぱい 生きればいいぞ」
相田みつを『にんげんだもの』より

2007.09.18

「いのち」の尊さを見つめ続け、その生き方を、自分の書、自分の言葉で、温かく、そして優しく語りかけた相田みつをさんの「子供へ一首」と題したことばです。
私たちは、面子(めんつ)や体裁(ていさい)、カッコよさなど、みんなまわりを気にして、そんなことにとらわれて生きています。しかし、みつをさんは、そんなことにとらわれて生きる生き方よりも、体裁が悪くても、カッコよくなくても「充実感のある生き方」をしたらいいんだよと、語りかけているのです。
それが「いのちいっぱい 生きる」ということだと・・・。
「いのち」を受け継ぎ、その尊い「いのち」に生かされて生きる私たち、その「いのち」をいっぱい生きているだろうか?

明治期の哲学者で宗教者であった清沢満之は「生かされて生きる」ことの自覚にたった人間の生き方を、「天命に安(やす)んじて 人事を尽くす」と表しています。 (宗)
※ 清沢満之 : 仏教の近代化を推進した真宗大谷派の僧侶、大谷大学初代学長

「“ありがとう”と言ってくれてありがとう」
(A君 10才) ―松蔭 裕―

2007.08.18

ある時、私の知り合いのA君が突然私に「ありがとう」と言ってきた。
何のお礼を言ってもらってるのか分からない私は、どうしてありがとうと言ってくれるの?とA君に聞き返しました。その時の彼の返事が「”ありがとう”と言ってくれてありがとう」という言葉でした。その日、A君に対して私が「優しくしてくれて、ありがとう」と言ったのだそうです。その言葉に対してのお礼を10才のA君は言ってくれたのでした。

人は、生かされて生きているのです。自己中心で物事を考えていてはこういう「生かされて生きている」という発想は浮かんでこないでしょう。「生かされているという謙虚さ」と「生きているという感謝」の気持ちにほかならないのです。
理屈を捏(こ)ねなくても、「ありがとう」の本当の意味を感覚で「感じている」A君。
A君は「生かされて生きている」ことを身で感じています。

私たちは、様々な場面で「ありがとう」と言い、感謝の気持ちをあらわします。何かをもらった時や手伝ってもらった時など、自分が助けてもらった時には「ありがとう」と言います。
しかし、本当に「ありがたい」のは何でしょうか?
私たち一人ひとりが、数多くの縁に支えられて生かされているという、あたりまえではあるけれどなかなか気づかない、これこそが本当に「ありがたい」ことなのではないでしょうか。
「生かされて生きている」と頭で知ることと、「生かされて生きている」という受け身の感動(心で知ること)とは全く違うんだと、A君の言葉は私の中で今も教え続けてくれています。(宗)

「何ごとも原点が大切」―阿部 恵木―

2007.07.18

ものごとには原点というものがあります。「あらゆる展開がそこからはじまり、すべての展開がそこに帰する」これが原点というものです。「原点に立ち帰ろう」「原点を見つめなおそう」という言葉をよく耳にしますが、原点についての理解が曖昧になり混乱すれば、おのずと意欲も薄れ、行動も行き詰まりますし、また、他者からも不審の目を向けられることにもなりかねません。しかし、原点に立ち帰ってみれば、「やはりこれが本当だ」という具合に、自らの意見もおのずと帰すべきところに落着き、進むべき方向も開けてくるものであります。
話は変わりますが、親鸞聖人によって開かれた真宗の教えは、およそ750年以上もの時を経て、今日の私たちの時代になお伝えられています。日本のありようが、社会の仕組みが、また、人々のものの考え方や価値観がいかに変わろうとも、その時代々の人々に真宗の教えが脈々と伝承され、人々にまことの救いをもたらし続けてきたのは、教えの「原点」がしっかりしていたからです。そしてその上に、その原点こそが自分の一生を支えてくれた「まこと」であると、その原点を繰り返し繰り返し尋ねてくださった先達がおられたからこそであります。ではその原点とはなにか? それは『歎異抄』第2章の書き出しの一節「各各十余ヵ国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり…」からうかがい知ることができるのではないでしょうか。このお話しについてはまたの機会に…。(宗)