「みんなちがってみんないい」(金子 みすゞ)
2007.06.18
童謡詩人 金子みすずさんの「わたしと小鳥とすずと」の詩の一節にあることばです。
金子みすずさんの詩は、どれを読んでも慈悲に満ちたあたたかい、おもいやりのあることばで、私達にやさしく語りかけてくれます。また、真実を見つめる心をもち、相手の悲しみを自分の悲しみとし、相手の喜びを自分の喜びとする仏の心をもった方でした。
人は誰でも他者をうらやましく思うことが多くあります。「鳥のように空を飛ぶことができたらいいのに‥」しかし、よくよく考えてみると鳥にはないものを自分がもっていることに気がつくはずです。そして、すべてのいのちは、あるがままで尊い存在であり、それぞれがいのちの輝きをもって生きていることがわかります。
宗祖親鸞聖人が最も大切にされたお経の中のひとつ「仏説阿弥陀経」の中で花の色について、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ちながら美しく咲き誇っていると示されています。
各花が自らの色そのままで咲くことが尊いのです。私達も、一人ひとりが自らいただいている尊いものに気付くことが大切です。人それぞれには、「色」があります。それは、「個性」といえます。その個性が光り輝くことがすばらしいことなのです。
さらに、その輝きがお互いに輝きあって微妙な色合いを織り成すことにより全体としてすばらしい色合いで光を放つ、そこにこそ金子みすずさんが理想としたさとりの世界があるのではないでしょうか。(宗)
「人の一生は 人との出遇いの連続である」―南御堂掲示板から―
2007.05.18
春、それは、人生の新たな第一歩を踏み出す季節です。また、多くの出遇いがある季節でもあります。
人の生涯には、さまざまな出遇いがあります。大きな出遇い、小さな出遇いの連続であります。人は、出遇いとともに成長し真の人間になっていくものであります。そうしたすべての出遇いが今の私を成り立たせてくれています。
その中には、たった一人の人との出遇いが人生にとって大きな意味をもつ、人生を根底から変えるようなことが時としてあります。
宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、師(よき人)法然上人と決定的な出遇いをされました。
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」ということばを感動をもって受け止められました。そのことにより、親鸞聖人に「念仏申さんとおもいたつこころ」が湧きおこったのでありました。この時の出遇いの感動と感謝のこころを憶念し、恩徳に励まされながら幾多の苦難を乗り越え人生をおくられました。
仏教とは出遇いの宗教であります。自己に出遇い、他者と出遇い、その一切を成り立たせている大きなはたらき(真実の教え)に出遇うことです。親鸞聖人が、よき人である法然上人と決定的な出遇いをされ、そのことを通して真実の教えに出遇われたように、私達もこれからの一つひとつの出遇いを大切にしていきたいと思います。毎日顔を合わせている人も改めて考えてみますと実は新鮮な出遇いの連続なのではないでしょうか。(宗)
「その光、華のごとし」―『仏説観無量寿経』「水想観」―
2007.04.18
浄土真宗を開かれた親鸞聖人がもっとも大切にされた経典(お釈迦様の教えを纏めた典籍)の一つに『仏説観無量寿経』があります。この経典には、「王舎城の悲劇」という物語で、悩める一女性が、お釈迦様の教えによって、理想世界としての阿弥陀仏の浄土へ救われるというお話が語られています。この物語の中で、お釈迦様は、一女性に阿弥陀仏の浄土の様子を観せられました(水想観)。浄土はたくさんの宝石が飾られ、五百色もの光を放ち、星・月のごとくに輝いてる。そして「その光、華のごとし」であったと表されています。
光華女子学園の「光華」は、阿弥陀仏の浄土を表したこの言葉を拠りどころとして名づけられました。この学園で学ぶ一人ひとりが、慈しみの心を持ち、華のような光り輝く女性になってほしいとの願いからです。また、そうした女性を育む場として、この学園は存在していくことを確認するために…。(宗)
花は言葉を持たないが 唯、尊しと今年も咲く―南御堂掲示板から―
2007.03.18
二月の初旬、庭の紅梅に花が一輪咲いた。やがて日に日に花芽が膨らみ次々と花が咲いた。少し遅れて、隣の白梅が花を咲かせて馥郁(ふくいく)たる香りを漂わせている。この梅の下に、赤の沈丁花が枝の先端に花芽を膨らませ今にも咲こうかと待っている。遅咲きの水仙が庭石の傍らに細長い葉をまっすぐに伸ばし、花を二~三本咲かせている。隣には球根から芽吹いたチューリップの芽が勢いよく土を分けて伸びている。寒風にさらされ、枯れたように見えるカエデの小枝には、真っ赤な色の小さな新芽が朝日を受けて輝き始めている。毎年繰り返される見なれた光景である。
今年咲いた花は、芽吹いた葉っぱは、去年の花や葉っぱではない。花や木は言葉で話しかけてはこないけれど、自然の営みの中に「いのち」を輝かせ、自らの役割に精一杯生きている。次に「いのち」を伝えることが大切な使命であることを誇るように…。
「其の光、華の如し」(『仏説観無量寿経』より))本学の校名である。限りなき尊い「いのち」を生きる私たち、校名のごとく光り輝く華のように生きるとは…いつも自らに問うていたい。(宗)
若葉が出る 花が咲く なんと いのちの不思議さよ
―南御堂掲示板から―
2007.02.18
寒風の吹きすさぶ寒い寒い季節、枯れてしまったように見える枝にもひっそりと、若芽が小さな頭をもたげている。やがてこの若芽は清々しい葉っぱに成長し、私たちに生命のいぶきを感じさせてくれる。また、輝くばかりの花と咲き、生命の美しさを見せ付けてくれる。 この生命のいぶきも輝きも美しさも、昨秋に役目を終えて散っていった葉っぱや花のあとに、新たに芽吹き成長してきたものだ。木々に毎年繰り返されるこの移ろいを見るとき、木という「いのち」の中で、葉っぱとして生き、花として生き、精一杯自らの役割を全うして散っていくこれら「葉っぱ」や「花」に「いのち」の不思議さを思わずにはいられない。自然の大地の「いのち」に生かされる木、その木の「いのち」に生かされる葉っぱや花、全て「いのち」を受け継ぎ、次へ「いのち」を引き継でいく。私たち人間も大いなる「いのち」に生かされ、生命を生きている。 生かされている「いのち」、葉っぱのように、花のように、そして私たち人間も、その役割を精一杯全うしていきたい。(宗)
生かさるる いのち尊し けさの春(中村久子)
2007.01.18
中村久子さんは、一八九七年、飛騨の高山で誕生されました。三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされました。中村さんは、その障がいの事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障がい者への差別の厳しい、生きていくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として七二年の生涯を生き抜かれました。晩年詠まれた「手足なき身にしあれども生かさるる今のいのちはたふとかりけり」に、自己の「身の事実」を機縁として、真実の世界に目覚めていくという、中村さんの心の軌跡が窺えます。 春は、全ての「いのち」をはぐくみ、育てる自然の営みの尊さをひとしお輝かせて見せてくれます。中村さんは、その中に生をうけ、生かされている自らに気づかされ、その事実によろこばれたことと思われます。目覚めるたびに今朝も生きているとの確認は、生かされていることの体感であり、実感であったのでしょう。その体感が苦難の中を精一杯生きる力となったものと思われます。 「今月のことば(句)」は、新しい春を迎え、あらためて人間の存在の真実を考えさせてくれます。(兒)
南無不可思議光「正信念仏偈」
2006.12.18
親鸞聖人が自らの思想の集大成として纏められた『教行信証』の中心に、七字百二十句の漢詩にして表現された信仰告白があります。その名を「正信念仏偈」と言います。保つべきは邪信ではなく「正信」であり、行ずべきは雑行ではなく「念仏」一行であるからこの名があります。 親鸞聖人の教えに帰依した人々は、上下関係のない「御同朋」と敬称で呼ばれ、集いの度にそして朝夕の内仏荘厳(仏様をお飾りすること)の際に、「きーみょうむーりょうじゅにょらーい なーむーふーかーしーぎーこー ・・・・」とこの「正信念仏偈」を同朋唱和して、信仰の確認をすることが習わしとなっています。 耳底に残る「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の巻頭二句は、我々一人一人を無条件に生かしてくださる無量寿・不可思議なるいのちの本源に、親鸞聖人と共に立脚することの証しであります。(太)
帰命無量寿如来「正信念仏偈」
2006.11.18
親鸞聖人は自らが選び取られた「浄土真宗」の教えを、「大乗のなかの至極なり」と位置付けられました。すべての人を救い取らずにはおかないとする大乗仏教運動のなかでも、その究極体が念仏の教えであると受け止められたのです。 この世の森羅万象には、ひとつ残らず永遠の過去、無限の彼方から、どこまでもそれを生かそう生かそうとする無条件の願いが掛けられています。そのいのちの本質のことを、「無量寿如来」すなわち「阿弥陀仏」と呼びます。 われわれがこのいのちの法則に目覚めた時、おのずと如来に絶対的に帰依せずにはおかないとする心の声が、「帰命無量寿如来」となって発露するのです。(太)
不飲酒(ふおんじゅ)「五戒」
2006.10.18
仏教徒の生活規範ともいうべき「五戒」の最後が、「不飲酒戒」です。
暑熱の国インドで成立した仏教は、砂漠の宗教であるユダヤ教やイスラム教と同様、飲酒を禁じます。酒は人の心を狂わせ、飲み続ければたちまちにして中毒症状を呈するからです。ましてや当時、精製技術の未熟な酒類を摂取することで、身体そのものも害する例が頻発していました。 さてそれならば、酒ばかりでなく煙草や麻薬も禁じてしかるべきですが、仏陀の時代、それらはまだこの世に存在しなかったのです。そこで翻(ひるがえ)って「不飲酒」ということを解釈すれば、身体を害し判断を狂わせるような嗜好(しこう)品を摂取すべきではなく、正しい食生活に務めるべきであると読み替えることができるでしょう。(太)
不妄語(ふもうご)「五戒」
2006.09.18
仏教徒の生活規範ともいうべき「五戒」の第四が、「不妄語戒」です。
世界にはさまざまな言語がありますが、言葉を相互交流の手段にするのは、人間だけの特徴です。他者に幸福を伝えるのも言葉を通してならば、逆に他を傷付けるのも言葉です。
あらゆる宗教が人間関係の枢要(すうよう)としての言語の使用について、厳しい制約を設けるのは、本来、一つのいのちから派生したはずの我々であるのに、自他を「わたし」「あなた」という言葉によって区別し、そこに優劣をはじめさまざまな差違を主張するようになるのです。
こうして人間における言語の使用は、仏智・神智ヘの叛逆という結果となって、対立・混乱の世相を助長してきたのです。
五戒では、悪口(汚い言葉)、両舌(二枚舌)、妄語(うそをつくこと)、綺語(おべんちゃら)のすべてを「妄語」取り込んで、これを戒めるのです。(太)