「襟巻のあたたかそうな黒坊主こやつが法は天下一なり」
2014.02.19
一年で一番寒い時期を迎えました。通勤や通学者のマフラー姿をよく見かけます。このマフラーですが昔は襟巻きといいました。襟巻きで思い出すのが、とんちで有名な一休さん(一休宗純禅師 以下「一休さん」と表現)が寛正二年(1461)本願寺で営まれた親鸞聖人の二百回忌法要にお参りされたときに詠まれた「襟巻きのあたたかそうな黒坊主こやつが法は天下一なり」という歌です。親鸞聖人の御木像黒漆で塗られているところから、一休さんは親鸞聖人のことを『黒坊主』とか『こやつ』と詠んだといわれています。他宗派の禅僧であったにも拘わらず「この人の教えは天下一だ」といえる一休さんはすごい方ではないでしょうか。
この一休さんは臨済宗大徳寺派の禅僧でしたが、本願寺八代の蓮如上人とは宗派を超えて同時代を生きる(年齢差約20歳)友としての出会いがあり、非常に仲が良かったともいいます。
二人の間で交わされた歌がいくつか残っています。
例えば、一休さんは浄土三部経の一つである『仏説阿弥陀経』に極楽が「従是西方過十万億仏土」(これより西方に十万億仏土を過ぎて)と説かれていることを指して、「極楽は十万億土と説くならば足腰立たぬ婆は行けまじ」(足腰も立たないようなお年寄りにはとても行けないのではないか)と詠んだのに対し、蓮如上人は、「極楽は十万億土と説くなれど近道すれば南無のひと声」(極楽は遠いと言われているけれども南無阿弥陀仏と念仏一つ称えれば行ける近道があるのだ)と返されています。
確かに自分の力で極楽へ往けと言われればとても十万億仏土の極楽へはとても往くことはできません。しかしお念仏を称えたならば、『今のこの状態』が浄土へ通じているということですのでこの上ない近道となります。
一休さんにはこんな逸話もあります。一休さんがあるお寺の住職をしているとき、日頃のつきあいのない檀家の主人が亡くなったのでお経を頼まれたときの事です。
一休さんは亡くなった主人の前に行くと家の者に金づちを持ってくるように頼み、金づちを手にすると、亡くなった主人の頭をたたいたそうです。もちろん痛いとも言わないし反応がないそれをみた一休さんは「もう、遅い、手遅れだ」と言いました。帰りかけた一休さんをみた家の人がお経をあげてくれるように頼むと「もう手遅れ、死人に用はない」と言って帰ってしまったということです。
つまり一休禅師は亡くなってからお経をあげるのではなく、生きている間にお経をきくべきであると言っているのです。
日頃の忙しさにかまけてお経を聞くことを忘れている私たち、またお念仏を称えることを忘れて自分勝手な毎日を生きている私たちに対し、本当の仏の道の基本を一休さんが私達に教えて下さっているのではないでしょうか。
最後に一休さんの「成仏は 異国本朝もろともに 宗にはよらず こころにぞよる」
つまり「仏になることとは どんな国や身分に生まれたかは関係がありません。また宗派によるものでもありません。何が大切かと言いますとその人の心が大切なのです」と述べられています。
私たちの生き方を振り返った時、果たしてどんな生き方をしているのでしょうか。それぞれが考えてみることも大事ではないでしょうか。 (宗)
わずか一尋(ひとひろ)のこの身のなかに 『赤馬経』
2014.01.19
今回は初期経典の一節を紹介します。老いることもなく死ぬこともない「世界の極限」<つまりわたしたちが理想郷や天国と言うようなところ>はどこにあるのかと問うローヒタッサに対して、そのような世界の極限<釈尊は「世界の極限」を「苦しみの終極」と言い換えています>は「わたしの外」にあるのではなく、「思いがあり意識を備えたこの身体のなか」にあると釈尊が答える箇所の一部です。
「尋(ひろ)」とは、「大人が両手を広げた長さ」を意味する長さの単位で、「一尋」は約1.8メートルとされています。経典では、苦の消滅のみならず、苦なる世界も苦なる世界の原因も、そして苦なる世界の消滅に至る道も、このわずか一尋1.8メートルもあるかないかの身体の中にあると語られています。
わたしたちはそれぞれに、たった一度のかけがえのない人生をこの身体ひとつで引き受けて生きています。そしてわたしたちがその中を生きる「世界」を、仏教では、自らの経験を通してこの身体で日々刻々と感じ、この身体に備わったこころでそれを理解し作り上げているものであり、じぶん自身にほかならないとします。したがって、先に述べたように、苦なる世界もその原因も、そして苦なる世界の消滅もそこに至る道も、「思いがあり意識を備えたこの身体のなか」にあるということになります。
一方で、ときにわたしを襲う大きな苦しみ、あるいは日々経験する怒りやいら立ち、孤独感などネガティヴな感情は、わたしとは別に存在する世界や人々との軋轢の中に生まれるものだとわたしたちは思いがちです。つまり、ネガティブな感情を生みだす原因は「この身体の外」からやってきて、今このわたしのこころをさいなんでいると。
しかし、「この身体の外」だと思っているものが、釈尊の言うように、わたしがつくり出したわたしの一部であるのなら、それを「わたし」から切り離すことは、じぶんの一部に対してこころを閉ざし切り離すことであり、孤独と苦しみのループに陥ることを意味します。他の誰とも変わり得ないこの人生をこの身体ひとつで引き受けて生きていかなければならないわたしたちにとって、これはさみしいことではないでしょうか。
たった一度のかけがえのないこの一年を、こころを閉ざすことなくこの身体でめいっぱい受けとめて生きていければ、それだけで素晴らしい一年だと言えるのだと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。
なお『サンユッタ・ニカーヤ』所収「赤馬経」の現代語訳は、中村元『ブッダ 神々との対話』(P.143-145):片山一良『パーリ仏典 相応部 有偈篇I』(P.275-279)をご覧になってください。(宗)
ひとえに親鸞一人がためなりけり 『歎異抄』後序
2013.12.19
この言葉は『歎異抄』の「後序」の中にある言葉です。『歎異抄』は、宗祖親鸞聖人の門弟であり、聖人の晩年に直接教えを受けられた唯円の作とされているのが定説です。
その著書の中で、晩年の親鸞聖人が常常よく語っておられたお言葉に「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。思えば救いようのない多くの罪を背負ったこの罪業深い身を生きるほかないこのわたしを何としても助けようと決意していただいたことは、なんともったいなく、有難いことであろうか」と述懐なされたと記されています。
親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」「罪悪深重の身」それがわたしという人間の本当の相(すがた)であるとご自身を深くかつ厳しく見つめられました。そして、師である法然上人との決定的な出遇いを通して、このような自分一人のために大きな願いがかけられていることに気付かれて、その仰せのままに一途に信じていかれました。自分一人のためだと言われますと自己中心的で傲慢な考えのように思われますが、決してそうではなく、どこまでも自分自身を厳しく見つめられたことによるものであり、真の相が明らかになるほどに自分一人のためにという思いがつよくなられたのだと思います。そして、その一人への救いという理解は、実は生きとし生けるものすべてに平等にかけられている願いであるという理解につながっていくことになります。
さて、私達はどうでしょうか。親鸞聖人のように厳しく自分自身を見つめることは容易なことではありませんし、罪深い身であると思いたくはありません。しかし、よくよく考えてみますと、私達は他のいのちをいただかずして自分に賜ったいのちをつないでいくことはできません。また、欲望にとらわれて自分を見失ったり、すべての事象を自己中心的にとらえて知らず知らずのうちに他者を傷つけて悲しませていることがあるのではないでしょうか。そして、いのちの事実である生老病死の苦悩を避けることができないで私のつもりや考えではどうすることもできずに迷い続けている、それが私という人間の本当の相(すがた)なのではないでしょうか。将に親鸞聖人と同じ課題を私達もかかえていると言えます。そのような私達に親鸞聖人は、同じように迷い悩む人間なのだから共に励まし合って歩んで行こうと呼びかけてくださっているように思います。
私達は、親鸞聖人が「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と述懐なされた御心を憶念しながら、常に本当の自分自身の相(すがた)を見続けること、そして、親鸞聖人と同じ課題を持つ私達であるからこそ、そのような私達にかけられている大きな願い、はたらきに出遇っていくことが最も大切なことなのではないでしょうか。(宗)
「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」
2013.11.19
例年になく長かった残暑が終わり、ようやく本格的な秋の到来です。木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。
心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」
自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。(宗)
「遇(あ)いがたくして 今(いま) 遇(あ)うことを得(え)たり」
(親鸞聖人 『教行信証』 総序)
2013.10.19
この言葉は、親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」の中にある言葉です。
親鸞聖人は建仁元年(1201年)29歳の時、法然上人と出遇われました。この出遇いは親鸞聖人の求道の人生にとって決定的なことでした。それは、どうしたら皆が救われることができるかを求めて修業を続ける生活から、法然上人が信じ説かれる阿弥陀仏の本願の教えに出合い、救われる道が明らかになったからでした。親鸞聖人はこの出遇いによる求道の変化を「雑行を棄てて本願に帰す。」と記し、自分の力で救われようとする自力往生の修業の道から、阿弥陀仏の大慈悲の本願に身を任せる他力往生への「回心(えしん)=心の変化」を述べておられます。この「回心」には煩い・悩みから逃れることができず、迷いの生活をしているのが人間であるとの親鸞聖人自身の覚(めざめ)があったからと思われますが、この阿弥陀仏の本願の教えを聞くことができた喜びを吐露されたのがこの「今月の言葉」です。
親鸞聖人は、さらに、この「教え」をお釈迦さま以来、法然上人まで伝えてきてくださったインド・中国・日本の高僧方がいてくださったからこそ、この「教え」に遇うことができたとの喜びを述べておられます。
私たちは「師」や「友」、多くの人々と出遇い、多くの教えに出遇ってきました。またこれからも出遇うでしょう。その出遇いが自身の人生にいかなる意味を持つのか、また、自分にとってかけがえのない出遇いとはどんなものか考えてみたいものです。(宗)
「今日の私は これまでの私 今日の私が これからの私」
2013.09.19
今月の言葉は、某お寺の伝導掲示板に書かれていたお言葉です。
私達は、日々過去の出来事を教訓にしながらこれからどのように生きていくか、生きていきたいかを考えて生活しています。同時にたくさんの人々と共に支え合いながら生活しています。当然のことですが、誰しも過去の失敗を繰り返すような生き方を望んでいません。もし、願いが叶うのであれば、万事が上手く、思いどおりにいくことを願っています。しかし、現実は思いどおりにいくどころか、次から次に問題が起り、それらをいかに解決していくかの繰り返しではないでしょうか。
仏教は、気付きの宗教だと言われています。阿弥陀様や神様、自分以外の誰かにお願いして幸せを得ることよりも、過去から現在に至るまでの自分の生活、人間性を見つめ直すことで、今ある幸せに「気付くこと」であり、 その中で宗教を拠り所に自分以外の人の意見や考えを聞き、最終的に自分なりの答えを導き出していくことが重要なのです。つまり、仏教で一番大切なことは、「自分を見つめ直し、自分自身と冷静に向き合うこと」だということです。では、「どうやって自分自身と向き合うのか」が問題となります。 私達は普段、頭や心の中で「あれがほしい」「これは嫌だ」「あの人は好き、嫌い」など、さまざまな感情や欲望(煩悩)に溢れて生活しています。
古代中国の哲学者である老子は「知足」という言葉を残されています。 「足るを知る」ということです。字句どおり、充分に満ち足りていることを知り、不足感を持たないということです。私たち人間は、欲が深く、「足るを知る」ということができない生き物です。充分な金や物、名誉や名声、地位、権力を得ても、さらに欲張って、『より多く、もっと欲しい』と、自分に快楽をもたらすものを限なく追い求めます。まさに、お釈迦様のお説きになられた四苦八苦の中の「求不得苦」です。しかし、人間として生を受けた以上、いたしかたない苦しみの一つです。
今月の言葉「今日の私は これまでの私 今日の私が これからの私」の本意は、過去の出来事もすべて私のこと、未来に待ち構える様々な出来事も私のことと自覚し、現実と向き合う「こころ」が大切であるということなのではないでしょうか。これまでの成功や失敗も含め、一日一日を大切にし、すべて自分のものだと気付ける人生を送っていただきたいと思います。(宗)
「天命に安んじて人事を尽くす」
2013.08.19
今月の言葉は、明治時代の真宗大谷派の僧侶で、大谷大学初代学長である清沢満之先生の言葉です。
皆さんは「人事を尽くして天命を待つ」という言葉はよくお聞きになられたことがあると思います。広辞苑には「人間として出来る限りのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」と書かれており、私は「結果がどうあれ、最善を尽くすことが大切なんだ」というふうに理解しています。
例えば、資格試験などに挑戦するとき、合格するかしないかを考えるより、開き直ってとにかく出来ることを一生懸命頑張ろうと心掛けたりします。しかし、最善を尽くした結果、自分にとって悪い結果がでれば非常に落胆しますし、また、心掛けてはみるものの結果のことが気になり、不安で仕方がなく、委縮したり、頑張りきれなかったりすることもあります。人間の心は弱いもので、「結果がどうあれ、最善を尽くすことが大切」というわけにはなかなかいかないものです。一方、清沢満之先生がおっしゃった「天命に安んじて人事を尽くす」とは、「ありのままの自分を受け入れ、最善を尽くす」というものです。ありのままの自分、すなわち悩みや不安を断ち切れず、それに惑わされる自分というものに気づき、そんな自分を導いてくださる大きなはからい(天命=他力)に任せ、最善を尽くしましょうということではないでしょうか。
親鸞聖人は「自力」ではなく「他力」によって人は生かされると説かれました。ここでいう「他力」とは、他人任せであったり、運任せということではありません。「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根(ぜんごん)をたのむ」(『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』)という人間の小さな自我(自力)に任せるのではなく、自力を超えた大きなはからいによって自然とある結果におのずと導かれるという「他力」を救いとし生きていきましょうということです。すなわち、「他力」によって人は生かされるとは、無数の縁によって今ここにいさせていただいているという大きなはからいに感謝し、その感謝の心をもって安心して頑張っていきなさいということではないでしょうか。
このように考えますと清沢満之先生のおっしゃった「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉は非常に趣の深い言葉として受け止めることができるのではないでしょうか。「なるようにしかならない。しかしおのずと必ずなるべきようになるのだから、皆さん安心して全力で生きていきなさい」という励ましのように聞こえませんか。皆さんはいかがでしょうか。(宗)
「仏法には、無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり」
『蓮如上人御一代記聞書』より
2013.07.19
「あの人には絶対に負けたくない。」・・・・そのように「人に負けたくない」という思いは誰しもが心の中にもっていることだと思います。私達は、いつも何事に対して「他人には負けない」と勝つために努力し、懸命に頑張り続けます。今日の社会や教育を見ても、徹底的に「勝とう」「勝たせよう」「勝ち抜こう」と教えることが多いと思います。たしかに、自分より優れた人を見て頑張り、「競争心」をもつことは、自分における様々な向上に繋がっていくのも事実です。ですから、そのような心は少しは必要なのかもしれません。
しかし、仏法ではどうでしょうか。釈尊の教えに「諸法無我」があります。それは、「あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がないということ」(大辞林より)です。蓮如上人は「仏法では無我であると説かれるからには、自分が自分がという執着する思いもなく、人に負けて、信心を得るものですよ。」とおっしゃっています。 「人に負けたくない」「少しでもよく見られたい」というこの心が邪魔をして、仏の教えを素直に聞けない私がいるかもしれません。心の奥底には、自分の思いが中心であり、その思いが強い分だけ思い通りになっていない現実を受け入れられないことになります。
今の現実から逃げるのではなく、私に降りかかる困難な現実をありのまま受け入れることができる。そのことが「負けて信をとる」という意味なのでしょう。正しい道理を得て自我を退ける。それは自分の思いやはからいの中にある、勝ち負けの世界というものを超えていくところに信心がおこってくるのかと思います。 (宗)
「長い目で見れば人生には無駄がない」
(本田 宗一郎 : 本田技研工業 創業者)
2013.06.19
人生には、様々な試練や転機があります。試験や就職、恋愛や結婚等々。私たちはこのような場面で、もちろん誰しもが失敗するよりも成功することを願っています。
しかし私たちは、これらがいつも成功するとは限らないことを、過去の経験から知っています。人生には無駄な経験は何一つないのです。どんな場合でも、その人の捉え方ひとつで後の人生に役立てることができるのです。
「ホンダ」の創業者である本田宗一郎氏は生前次の様に述べられていたそうです。「私の現在が成功というなら、それは過去の私の失敗が全部土台作りをしていたのである。仕事は押しなべて失敗の連続である。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%が現在の私である」。
また、仏教を開かれたお釈迦様は29才の時に出家され、35歳の時に菩提樹の木の下で悟りを開かれ仏陀(目覚めた人)となられました。これはよく知られている事実です。私たちはこの場合、悟りを開かれた事ばかりに目がいき、お釈迦様の6年間の修行をつい否定的に考えてしまいます。しかしお釈迦様が悟りを開かれたのは、6年間の修行(禅定・苦行)があればこそではなかったのでしょうか。
よく私たちも一日ボーッと過ごしてしまった日の夜に「今日は無駄な時間を過ごしてしまったなー」というような思いを持つことがあります。でも本田宗一郎氏の失敗、お釈迦様の6年間の修行、そして私の一日は本当に無駄なものでしょうか。
人間も含め、動物、植物、建物等形あるものは変化し続け、いずれ滅びていくのが世の常です。
私たちは年をとり、日々死に向かっている事実を少なからず肌で感じ、有限な時間の中での営みをつい「無駄」等と感じてしまうのかもしれません。
しかし本田宗一郎氏やお釈迦様のように一見失敗とか無駄だと思えることでもそのことの積み重ねがあればこそ、それが花開く事もあるのです。しかし必ず花開くとは限りません。いや花開かないときの方が多いかもしれません。私たちの人生は一見すると無駄の連続かもしれません。しかしどんなに無駄と思える時間も、長い目で見れば何かの教訓になっているのではないでしょうか。
何が無駄で何が無駄ではない、これは誰にもわからないことです。たとえば私が無駄だと思って放っておいたことを他の方が行って大成功を収め後で悔やむこともあるかもしれません。
「人生には無駄がない」という言葉は、「忙しい、忙しい」が口癖の様になって、何でも先延ばしにして結局何もしようともしない私たちに「人に勝つより自分に負けないように生きていって下さいよ」と教えていて下さるのではないでしょうか。(宗)
「その人を、慈しみの心で満たすように生きていこう」
(鋸喩経)
2013.05.19
初期経典群のひとつ『マッジマ・ニカーヤ』に収められた経典の一節です(片山一良『パーリ仏典 中部 根本五十経篇I』, pp. 330-346)。
この経典は釈尊が弟子たちのいさかいを諫める内容を記録しています。諭しても納得しない弟子に対し、釈尊はたとえ話を始めます。ある女性資産家の屋敷に、賢明で働き者のカーリーという女召使がいました。カーリーはある時、自分の主人は温和で従順で冷静だが、怒ってもそれを表に出さないだけなのか、そもそも怒りという感情を自分の中に起こさない人なのか、どちらなのだろうと疑問を持ち、わざと朝寝坊をしてみます。日中に起きてきたカーリーに対し、女主人は渋面をしてカーリーをののしりました。それを見てカーリーは、この主人は怒りを起こさない人ではなく、自分が彼女の思惑通りに働いているから怒らないだけだと理解し、なおも朝寝坊を続けます。結局、女主人は怒り狂い、棒で彼女を打ちつけてしまいます。この例え話を終えて、釈尊は、この女主人のように自分の都合のいい時だけ怒りを出さないのではなく、どのような時でも怒りや攻撃性を起こしてはいけないと説法を続けていきます。
しかし、棒で打ちつけたのはともかく、仕事を怠ける者に対して怒るのは当然といえば当然で、なんだか女主人が気の毒にも思えます。このたとえ話を通して、何が言われたことになるのでしょうか。
生きるために社会の中にいる必要があり、最終的に老病死に直面する私たちにとって、生きていく中で自分の思い通りにならないことがあるのは当然だと仏教は言います。苦しみとは、周囲の状況が自分に好ましい状態にあるべきだと思いこんで作り上げている「私の世界」と「現実の世界」がぶつかり合い軋む時に生じる痛みと言うことができるでしょう。
こうあるべきだと思っているファンタジーの世界とリアルな世界がかみ合わない時、人は自分や他人を責めるでしょうし、責めるための武器(棒とは限りません。正当性を誇示する言葉だったりもします)を取ることでしょう。しかし、たとえ自分が正当でありその自分を守るためであっても、武器を取ることが更なる恐怖を引き起こすと仏教は言います(『スッタニパータ』第935詩)。怒りや攻撃性は「私の世界」と「現実の世界」がぶつかり合いから生じるものであって、結局、自分を不自由にするということでしょう。そのような時は「私の世界」「私の思い」から離れてみる必要がありそうです。
気持ちがささくれ立ったとき、何かいらいらしたときに、すっと深呼吸をして、その原因になったこと・人に対して、怒りではなく慈しみの気持ちを向けてみる。これも心をコントロールし、自由でいるための一つの術なのかもしれません。(宗)