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「はからいがないのが はからい」

2014.12.19

11月からTBSの木曜ドラマ劇場で、夫婦でがんになり余命宣告を受けた家族の実話をベースにした物語『ママとパパが生きる理由。』がはじまりました。このドラマは、幼い子供たちを抱えながら乳癌と診断され、間を置かず夫も肺癌の宣告を受けた芽生(めい)さんが、闘病や家族のことについて書き綴ったブログの内容をまとめた『私、乳がん。夫、肺がん。39歳、夫婦で余命宣告。』(大和出版)が原案となっています。

芽生さんはブログに癌の宣告を受けた後の心境や夢について「先日余命宣告を受けて、私の中で様々な変化がありました。同じものを見ても、宣告を受ける前と同じ感覚では受け取れなかったり、新しい考え方・感じ方をするようになりました」「私の夢は、夫婦2人で癌を克服して、その物語をたくさんの癌闘病中の人たちに知ってもらう事です」と書かれています。夫婦で癌になるという過酷な状況の中で、生きることの意味を見つけられ、力いっぱい生き抜かれた芽生さんの「生きる力」、「家族への愛」に多くの方が深い感動を覚えられるのではないでしょうか。

『夜と霧』で有名なフランクルというユダヤ人の精神科医は、「自分の人生の意味とは何だろう」という答えのない問いについて、「人間はむしろ人生から意味を問われているのであって、それに責任をもって答えなくてはならない」と言っています。つまり人生にはどんなときにも「なすべきこと」「実現すべき意味」が必ずあって発見され実現されるのを待っているという考え方です。芽生さんは癌という辛い人生の現実を受けて、逆に自分の「生きる意味」に気づかれたのでしょうか。

宗祖親鸞聖人は晩年「義なきを義とす」ということを度々おっしゃっておられます。義とは「はからい」のことであり、自分であれやこれや考え、悩むこと、例えば自分の人生についてその意味を考え、その価値をはかることです。親鸞聖人がおっしゃる「義なきを義とす」とは「はからいがないのがはからいですよ」、すなわち「自分のはからい=自力」ではなく、ありのままの自分自身の心の声を聞き、それに従うことが大切ですよとおっしゃっているのではないでしょうか。このありのままの自分の心の声こそが、実は仏様の声のことであり、その声に気づき任せる生き方が他力ということになると思います。

芽生さんは癌の宣告を受け自分の中でさまざまな変化があり、それまでとは違う新しい考え方・感じ方をするようになったと言っておられます。辛い人生の現実の葛藤の中から、ありのままの自分の声に出会われ、家族への愛、そして同じ病で闘病中の方々を思いやる境地へ辿りつかれました。もし自分に同じことが起こった時、芽生さんのような気持ちで生きれるかどうか。他力の生き方とは難しいものです。(宗教部)

「他人(ひと)の長所は少しでも早くほめよ」

2014.11.19

「自分は全然悪くない」「すべて相手が悪い」・・・・・。
自分が不利になったり、苦境に立たされたりした時に自分のことを棚に上げて、相手のことを大きな声を出して責めてしまう。また、口には出さないが心の中でそのようなことを思ってしまう。それが私達の日常ではないでしょうか。確かに自分の外側に原因を求め、相手のせいや社会の責任にした方が自分は苦しまず、その瞬間はとても楽になります。しかしそのような考えを繰り返し続けると他人を責めつけるばかりの空しい人生になってしまいかねません。そんな私達の心の在り方を蓮如上人は、

「人の悪きことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪きことは覚えざるものなり。」

『蓮如上人御一代記聞書』

と教えていただいています。
仕事や家庭での日常生活に照らし合わせてよくよく考えてみますと、私達は他人のよいところは、あまりよく見えません。反対に相手の欠点や短所などは細かなところまでよく見えます。それどころか、むしろ自然と目につくのが人間なのです。私達は常に他人と比べ、他人の短所や不満を口にするけれども、果たして相手を見る眼と同じようにその眼をもって自分を見ることができるのでしょうか。残念ながら私達にはそういう眼は持ち合わせていないと思います。だからこそ、仏に学び、仏から「智慧の眼」をいただかなければならないのでしょう。
「他人の長所は少しでも早くほめよ」とあるように、大切なことは日頃から他人のよいところを発見しようと思う心です。相手をよく見て、その人の長所をほめたり、他人の成功を讃えたりすることが自分自身の喜びとなっていく。ほめられた方も当然、認められ相手の喜びとなっていく。そこに自利利他円満の世界に出遇うことができるのだと思います。(宗教部)

「あの人がゆくんじゃわたしはゆかない あの人がゆくならわたしもゆく あの人あの人わたしはどっちのあの人か?」

2014.10.19

私たちは、会社や学校では仲間と共に行動することが多いようです。これは人間も他の動物と同じように群れをなしていると言うことなのです。

では何故群れをなして私たちは行動しているのでしょうか。それは自分達の既得権を守るためなのです。
そしてその群れに入らないと仲間はずれやいじめが起きてくるのですが、私たちはその仲間はずれやいじめを恐れたり、一人になってしまうことを恐れるあまり仲間はずれやいじめの加害者になってしまう場合が少なくありません。また直接手を出さないまでも傍観者として見ている場合も少なくありません。
そして何か問題が起こると本当は「何もやらなかった」にもかかわらず「私は何もやれなかった」という弁解をしてしまいます。その弁解は、時にまわりの人に対してだけでなく、自分をも無理やり納得させようとしてしまうのです。でも本当にそんな自分でいいないでしょうか。「やらなかった」ことを「やれなかった」自分に弁解して納得させる。これを続けると、自分にとって都合の悪いことから逃げる私になり、最後には「何もできなかった自分」だけが残るのではないでしょうか。

私たちの人生にはいい時もあれば、絶不調の時もあります。この絶不調の時、また間違った事をしたと気付いた時、一度一人になって、じっくり自分を見つめることも大切ではないでしょうか。

相田みつをさんの言葉に「あの人が行くなら私も行く。あの人が行くなら私は行かない」という言葉があります。
このように、自主性がなく、人任せ、あるいは人のせいにしてしまうような生き方で本当に良いのでしようか。そういう「わたし」は、他者から見た場合、一緒に行きたいと思われる方の「あの人」にあたるのか、それとも一緒には行きたくないと思われる方の「あの人」にあたるのか。さてどちらでしょうか?(宗教部)

自己が自分の主である。-故に、自分をととのえよ。『ダンマパダ』

2014.09.19

期経典の一つ『ダンマパダ』の第380偈の抜粋です(中村元『真理のことば・感興のことば』63頁)。この中の「主」と訳されていることばを、この経典の注釈書は「拠り所」と理解するようにと解説します。「私が私の拠り所」というのは一体何を意味しているのでしょうか。

『ダンマパダ』第1偈では、ものごとは「心」によって作られていると語っています。この「ものごと」を、注釈書は、我々がものごとを認知する一連の作用を意味することばを使って説明します。つまり、心のありようによって認識作用が変化し、それにしたがって認知される世界のありようも変化していることが指摘されています。

この身体で経験している世界を私はありのままに理解しているつもりになっているけれど、実は心のありようによって歪められた形でしか理解していない。しかもこの心は「欲するままにおもむく」ふわふわしたものであって、「悪しきことを楽しむ」ものです(35, 116偈)。

なぜ心はものごとを歪め、悪事を楽しむのか。それは、私たちの心が、欲望と慢心から生まれ、その場その場の心地良さのみを追求するものだからだと説かれます。そして、このような心の傾向は、心の奥深くに遺伝子のように組み込まれています(294,153-154偈)。

私自身が意識しないような心の奥底にある欲望や慢心が私を突き動かしているなら、私には自由はなく、同時にその行為に何の責任もないように思えます。しかし、欲望や慢心を宿す心が快楽を求め、快楽の喜びを自分のものとするならば、それを失う恐れが生じ、ほかならぬ私自身が苦しむことになります。そうであるのに、私たちはそのことに気づかず、欲望に駆られ「まるでわなにかかったウサギのようにあちこちをはいずり回り」、欲望にとらわれて「長きに渡って繰り返し苦しみを味わう」ことになります(214 ,42偈)。

私にはこの身体以外に居場所はありませんし、誰も私の行いの結果を代わりに受け取ってはくれません。すべてをこの身体で受けとめていくしかない。このような因果応報の考え方が「自己が自分の拠り所である」という一節の背後にあります。そして、行いの結果がわたしにとって苦しみとならないよう、ふわふわした心を落ち着け、避けることのできない現実から目をそらそうとする自分自身を内省していくことが必要だとされます(40偈)。そのことが「自分をととのえよ」という一節で語られています。(宗教部)

「一切の有情は みなもって世々生々の父母兄弟なり」『歎異抄』

2014.08.19

この言葉は『歎異抄』の「第五条」の中にある言葉です。『歎異抄』は、宗祖親鸞聖人の門弟であり、聖人の晩年に直接教えを受けられた唯円の作とされています。

その著書の中で、親鸞聖人が語られたお言葉として「自分(親鸞)は、亡くなった父や母への供養のために念仏したことは未だかつて一度もありません。その理由は、そもそも一切の生きとし生けるものは、すべて遠い過去から現在までくり返し、くり返し何度となく生まれ変わり、生き変わりするあいだにすべてがつながっていくものであり、時に父母となり、時に兄弟姉妹となり、いのちあるものすべてが家族のような存在だからです。」と述懐なされたと記されています。

よくよく考えてみますとわたしたちのいのちは、過去無量のいのち、数えきれない連綿と続くいのちのバトンが受け継がれてきたおかげで今の自分のいのちがあると言えます。また、このいのちは、現在あるあらゆる他の多くのいのちと互いに深く関わり合い、支え合い、つながり合っているいのちであると言えます。他のいのち(人間以外の存在も含む)の深い関わりを抜きには成り立たないのです。遠い遙か昔、38億年前に地球上に誕生した一つの細胞から進化をくり返してきた、その進化の過程を辿れば、親鸞聖人が述懐なされたつながりの中にあるすべてのいのちは、父母兄弟姉妹であるということが実証できるのではないでしょうか。

このようにわたしのいのちは、わたしだけのいのちではなく、すべてのいのちによって生かされているいのちであり、遠い過去から引き継がれた尊いいのちであることが顕かになりますと、誰もがいのちを私物化することはできなくなります。また、すべての事象を自己中心的な視点で見ることは極力避けなければならないことがわかります。

現在もなお世界各地で国際間・民族間・宗教間等の紛争や戦闘がくり返されて多くの尊いいのちが奪われています。大変心が痛む悲しいことです。これらはいのちの私物化、自己中心的なものの見方・考え方の最たるものではないでしょうか。自分の側だけの利益をはかり、論理を押し付けようとする自己中心的な考え方に執着することを一刻でも早く改めなければならないと思います。

この惨状を目の当たりにして、親鸞聖人のお言葉を思い起こさずにはいられません。わたしたちは、あらためて親鸞聖人が「生きとし生けるものはすべて父母兄弟姉妹なり」と述懐なされた御こころを深く受け止めて憶念することとともに、一人でも多くの方にお互いがつながり合っている等しいいのちをいただいている家族であるということを伝えていくことが今、最も大切なことではないかと思います。(宗教部)

「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」(道元)

2014.07.19

このことばは、曹洞宗の開祖である道元の著書である『正法眼蔵』にあることばで、「どのような場合でも柔和な態度ですべての物事に接しなさい」という意味です。そしてそれは、人の幸せを心から願う利他の心を持つということに他なりません。私たちの日常は人との関係性において成り立っています。私たちの心の動き、喜びや悲しみもその関係性の中で生まれるものです。一緒に頑張ろうという励ましに元気をもらい、心無い一言に傷つき、ありがとうのことばに心があたたかくなります。

お釈迦様の教えの中に、「四無量心」というものがあります。「慈・悲・喜・捨」の4つですが、慈(すべての人の幸せを願う親愛の気持ち)、悲(すべての人の苦しみを取り除きたいと願い、寄り添う心)、喜(他人の喜びを心から喜べること)、捨(人に施した恩も人から受けた害も忘れ、一切の執着を捨て去ること、愛する人にも憎む人にも同一の心を持つこと)を意味します。 そして道元は、四無量心の実践方法として「四摂法」という四つの行を説きました。それは、布施(施すこと)、愛語(愛のある言葉をかけること)、利行(人のために行うこと)、同事(相手と事を同じくし喜びも悲しみも同じように感じること)です。 これらの行いが日常できているでしょうか。

いつも心穏やかであたたかくいたいと願いながらも、心の状態によってはそうできない時もあります。しかし、あたたかいことばや態度は、相手にあたたかい気持ちを届けます。日々、限られた時間の中で、同じようにことばにするのであれば、あたたかいことばを選びあたたかい態度で伝えた方がお互い幸せになることは自明の理です。 心がいらいらしている時は、一呼吸おいて、ことばをかけること、そして自分がそのことばを受け取ったらどう感じるかを考えてみることが大事ではないでしょうか。 ひとりひとりの周りに、あたたかなことばの輪ができればと願います。(宗教部)

「根を養えば 樹は自ら育つ」東井 義雄『根を養えば 樹は自ら育つ』

2014.06.19

六月、野や山の樹木が、春に芽吹いた新緑からそれぞれの樹木の個性をあらわす深緑に変化し大きく成長するときです。燃えさかる「いのちの息吹」を感じます。この葉や枝・幹が成長する「いのちの息吹」もそれらを支える根がしっかりと大地に張り巡らされているからにほかなりません。根は大地をつかみ樹木の成長に応じて必要な栄養や水分を供給する、成長の土台ともいうべき大切なものなのです。

今月の言葉は、浄土真宗の僧侶であり、初等教育を大切にし、「いのちの教育」の実践者であった東井義雄さんの言葉です。教育は人間が育つための土台となるものを養うことで、それが養われれば人間として自ずと育っていくということです。それでは人間の土台とは何でしょうか?

仏教は永遠のいのちを説き、そしてすべてがそのいのちに生かされて生きていることを教えています。それは、全ての生きとし生けるものはつながりの中で生かされ生きている。「お陰さま」「ご恩」に生かされていることを教えているのです。この教えを領解せしめることが人間としての成長の土台を養うことと言っていいのではないでしょうか。それが「感謝の心」「慈しみの心」「努める心」など、いのちの尊さを実践する心をもった人間を育てることとなるのではないでしょうか。

「其の光、華の如し」(『仏説観無量寿経』より)本学の校名です。校名の如く光り輝く華のように生きる人間の育成、すなわち、人間としての成長の土台(根)を養う学園として本学園は歩み続けています。(宗教部)

「自己をならう」

2014.05.19

今月の言葉は、鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の御開祖道元善師(1200年~1253年)のお言葉です。この言葉は、正法眼蔵の中の現成公案の巻の一節に書かれており、「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり」と続きます。

私たちは、日常生活を送る中で、本当の自分を見失いそうになることがあります。それは、これまで自分が培ってきた考え方が優先し、それ故自分の価値観で物事を考え、結果として、自分以外の者に対しその価値観を押し付けてしまうことがあります。そして、その延長線上には、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなり、自分自身を見失うのではないでしょうか。
しかし、自分の価値観と言うものは大切なものです。人それぞれ育ってきた環境が違い、それぞれに個性があり、一人一人の人間性や価値観があってこそ今の世の中が成り立ち、今の自分が存在するのです。

「自己をならう」とは、「自己を知り、自己を超える」と換言できます。ただし、それは永遠の課題でもあります。常に自己を知り、自己を超えられれば苦悩など感じなくなります。 これは、人間として生を受けた以上いたしかたないことです。

では、「自己を知り、自己を超える」にはどの様にすればよいのかが問題となります。
それは、自らのルーツも含め、人生そのものを知り、人生におけるあらゆる苦悩を見届け、それを超えることにほかありません。その手段として、仏教が挙げられます。決して、幸福実現のため、お金や物、病の治癒、人間関係の修復などの手段として仏教を拠り所とするのでなく、自らを振り返り、自らを見つめ直し、自らに問い掛けるものでなければなりません。
その実践として、自分自身について客観的な智慧や知識が増え、新しい物の見方で自らを捉え直せるようになり、自ずと今までの苦悩が小さく感じられ、偏った価値観を捨て去ることができるのです。 つまり、仏教の教えを通じて自問自答を繰り返し、常に自分自身の立ち位置を見極め、自らを見失わないように軌道修正していくことが大切です。

是非とも今一度、自分自身の生き方を見つめ直し、「自己をならう(自己を知り、自己を超える)」機会にしていただければと思います。(宗教部)

「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」

2014.04.19

今月のことばは、親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌です。親鸞聖人が9歳の時、仏門に入られる決心をされ天台座主である慈円を訪ねましたが、すでに夜だったので、「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。

今年も3月11日がきました。あの大震災から早くも3年が経過し、あの時に感じた災害の悲惨さ、そして命のはかなさというものが薄れつつあるように思えます。私たちは当然のように自分には明日もあり、また明後日もあり、そして10年先、20年先もあると思っています。また、知らず知らずのうちにそういうことを前提とした生活習慣となり、今ここにしかないこの命を大切に生きられていないことも多くあるのではないでしょうか。3年前の3月11日には一瞬にして2万人近くの方々がお亡くなりになり、そして3年経過した今もなお、26万人以上の方々が避難生活を余儀なくされているという現実。この現実を経験しても、時間の経過とともにその記憶が薄れ、また当然のように自分には明日があり、今を精一杯生きられていない自分。親鸞聖人の詠まれた歌から、改めてそういった自分に気づかされます。

4月は新年度です。本学も多くの方々が新しい生活に期待を膨らませご入学されます。心機一転、新たな気持ちで新たな生活をはじめていきたいものです。今までは「明日やればいい」と言って、先延ばしにしていることはないでしょうか? 「もう少し落ち着いたら、新しいことを考えよう」「もう少し落ち着いたら、改善に取り掛かろう」「もう少し落ち着いたら、資格の勉強を始めよう」と言って先延ばしし、結局なにも手をつけられなかった今までの生活を改め、これからは「今を精一杯生きる」ことを目標に、何事も先送りせず取り組む生活を送りたいものです。
親鸞聖人のこの和歌は日野の誕生院の石碑にきざまれています。是非一度、観光をかねて足をお運びになってご覧ください。 (宗)

「どんなところにも必ず生かされていく道がある。」 (中村久子)

2014.03.19

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

これは「無手無足」という自らの障害を受け入れ、明るく生きることで人々に生きる力と輝きを与えた偉大な人物、中村久子さん(以下、「久子」)の言葉です。

久子は、明治30年、岐阜県高山市で生まれました。3歳の時に、凍傷がもとで突発性脱疽となり、左手が手首から崩れ落ち、脱疽が転移していた右手と両足を切断、両腕の肘から下と、両足の膝から下を3歳の時に失うという絶句するような過酷な人生を背負わされます。
障害者でありながら、自立した人として強く生き抜いた久子という女性の強い心と輝きを感じます。そして、どんなに辛くて苦しくても、自立し周囲と対等に付き合える自分になるという決意に自分の境遇をしっかり引き受けてそこから立ち上がっていく様子が窺えるのではないでしょうか。

私達は、日常生活の中で知らず知らずのうちに、自分と他人の違いを区別したり比較したりします。他人との生活や仕事、学歴、容姿・・・。挙げればきりがありません。それはやがて自他を比べて妬んだり、うらやんだりするようになり、私達はどんどん苦しい状況になってしまいます。久子は、両手両足がないのが私自身であり、人と比較してどうなるものでもないことを身を持って知らしめてくれています。そして、「仏様から賜った体」や「両手両足がない体のお蔭でかけがえのない人生を豊かに生かせて戴いた」という久子の言葉から全てを引き受けて生きられた力強い「信」というものが私達に伝わってきます。

「どんなこところにも必ず生かされる道がある」
念仏者として生きた久子のこの言葉が、私自身に試されているような気がします。(宗)