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「その時の出逢いが その人の人生を 根底から変えることがある」
(相田みつを)

2013.04.19

入学のシーズンが到来しました。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。 今年もまた、様々な形で京都光華と出遇った皆さんが、夢や期待、多少の不安などいろいろな思いを抱きながら新たな道を確かめつつ第一歩を踏み出されたところだと思います。

これからの学生生活では、多くの出遇いが皆さんを待っています。その出遇いの中にはこれからの人生を決定する大きな出遇いもあるでしょう。その出遇いを通して自分が進むべき道をしっかりと見定めていただきたいと願っています。

このことばは、こころの書家・詩人と呼ばれています相田みつをさんの「出逢い」の詩の一節にあることばです。相田みつをさんの詩は、掛け替えのない尊いいのちについて、慈愛に満ちたあたたかくてやさしいことばで私達に語りかけてくださいます。このことばの後には「人間を根底から変えてゆくもの 人間を本当に動かしてゆくもの それは人と人との出逢い そのときの出逢い」と続きます。

人は出遇いとともに成長し、すべての出遇いが今の私を成り立たせていると言えます。その中でたった一人の人との出遇いが、人生そのものを根底から変えることがあります。 宗祖親鸞聖人においては二十九歳の時、師の法然上人と感動に満ちた決定的な出遇いをされました。そして、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という仰せをいただかれました。この出遇いの感動と感謝のこころを憶念し終生その恩徳に励まされながらその恩に応えようとする人生を歩まれました。

この世の中の生きとし生けるものはそれそのものだけで成立するのではなく、様々な原因・条件が集まり起こって成立するものです。すべては他のものと無関係にあるのではなく、多くのものとつながりあって多くのものに支えられて存在しています。そのすべてを成り立たせている最も大きな要因が出遇いであり、日々の出遇いの連続が今の私を成り立たせていると言えます。また、出遇いの根源とは、限り無くはかりしれない、大きくて果てしない遠い遠い遥か昔からのご縁がはたらいていたからに他なりません。

仏教とは出遇いの宗教であります。様々な他者と出遇い、それを通して本当の自己に出遇い、その一切を成り立たせている大きなはたらきに出遇うことです。

皆さんも一つひとつの出遇いを大切にしていただきながら、自分自身の真の姿を見つめられ、そのことにより真実の教えに出遇っていただきたいと思います。(宗)

「子を抱いていると ゆく末のことが案じられる
よい人にめぐりあってくれと おのずから涙がにじんでくる」
(坂村真民)

2013.03.19

今月のことばは、20世紀を生きた仏教詩人である坂村真民(さかむらしんみん)の「めぐりあい」という詩の一節です。この詩は、「人生は深い縁(えにし)の 不思議な出会いだ」ということばで始まり、「めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう」ということばで結ばれています。子に対する無条件の愛情、これから起こりうるであろう困難への心配や幸せへの期待。よき人に巡り合い、長い人生を心豊かに生きてほしいと願う切実な気持ちが伝わってくる一文です。

人は無数のご縁の中で生きています。私たちに起こるすべての事象は、ご縁があって与えられたものであり、そのすべてを受けとめ生きていかなければなりません。時になぜこんなに辛いことが起きるのか、と悲観することもあります。しかし、また、人生は出会いの繰り返しで、人との出会いが今の自分を作り上げているのだとも感じます。当たり前に受けていた父母の愛情、価値観の違う人との出会い、時には対峙、厳しい叱責や生涯忘れることのできない印象的なことば、これらすべて一人で生きていたら体験できないことであり、なによりこれまで決して一人で生きてきたのではないことを思い知らされます。

出会いが自分の方向性を大きく変えてくれたこともあります。あの人なしでは今の自分はいないなと感じる出会いもありました。振り返ると一抹の後悔とともに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。出会いの持つ力の大きさは量りしれません。そして数限りないご縁の中で、今自分と関わっていただいているすべての人たちとの出会いに、それが決していい関係が結べなかったご縁であったとしても、何かしらの必然を感じざるを得ません。

中島みゆきさんの「糸」という歌の歌詞に、「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない」ということばがあります。糸にたとえ、人と人とのつながりが交差し合い、それは、あたたかい感情や何かを限りなく生み出す力があるのだと伝えてくれます。

子が生まれ、子は親に願われ生きていく。命の連鎖の中で、自分は尊い命を生きて欲しいと深く願われ生きてきました。そして今、自分もご縁を尊び、願いをつないで生きていくのだと、実感しています。(宗)

悪を離れ善を修むるには必ず三宝を以て本と為す
(聖徳太子『維摩経義疏』)

2013.02.19

推古天皇30 (622) 年2月22日、お釈迦さまの教え(仏教)を正しく理解し、仏教興隆につとめられた聖徳太子がなくなりました。仏教、なかでも親鸞聖人の明らかにされた真宗(浄土真宗)の教えに基づく教育を行い、「いのち輝く人間」の育成を建学の理念とする光華女子学園では、聖徳太子を大切にし、御命日にあたる2月22日には「太子忌」を行い、ご遺徳を偲ぶとともに太子が広められた仏さまの教えを聞思する機会としています。

聖徳太子は、「十七条憲法」「冠位十二階」の制定、遣隋使派遣など「国づくり」に力を注がれましたが、中でもその基礎ともなるべき「人づくり」を大切にされました。それは、人間を正しく理解することで、仏教の説く人間理解でした。太子は、仏教を「四生(生きとし生けるもの)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(依るべき教え)」と捉え、また、人間については「人は皆凡夫である」と理解されたのです。
「凡夫」即ち、人は執われ(我執)から離れられず、煩いや悩みをもつ生きものであるとの領解でした。そのような人間のする善・悪の判断は、真実の判断とはいうことができない。したがって、「人づくり」は仏教の教えに基づくものでなくてはならないのです。「今月のことば」は、聖徳太子の仏教理解と人間理解からの言葉で、「三宝(仏・法・僧をいい、仏教をあらわす)を以て本」としなければ人間を正しい生き方に導いてくれるものはないといっておられるのです。

自らを省みるとき、信国淳先生の「わたし「が」 仏教「を」学ぶのでなく 仏教「に」わたし「を」学ぶのだ。」の言葉が思い出されます。(宗)

生は偶然 死は必然

2013.01.19

今月の言葉は、当たり前の単語を並べてみました。当然のことながら「命」は、いろいろな条件が重なった上で偶然に生まれ、そして、「命」は必ず死を迎えます。
皆様は「生は偶然 死は必然」と思って毎日をお過ごしでしょうか。勿論、歳を重ねるごとに生と死について真剣に考えるものです。また、重い病になり、自らの命について考えるのも当然です。さらには、命について考えた末、残念ながら自ら命を絶つ人、生きたくても生きられない人もいます。

しかし、皆様にもう一度自分自身を見つめ直していただきたいと思います。人がこの世に生まれることは宝くじが当たる確率よりはるかに低いのです。私達には父と母があります。その父にも父と母があり、母にも父と母があります。このように遡っていくと一代前は2人、十代前は1,024人、二十代前は104万8千576人、三十代前では10億を超すご先祖さんがおられることになります。系図で言えば私達はその末端の方を生きていることになります。
そして、これらのご祖先さんの1人が欠けても私達は存在せず、不可思議な偶然の中に賜った命であり、お預かりした命だということです。残念なことにこの世に生を受けた以上、私達は必ず死んでいきます。頭では「必然」と理解しながらも「必ず明日がある(当たり前)」と思って日々生活しているが故に「まさか自分が」と考え、自ずと「生は必然 死は偶然」だと錯覚してしまうことになるのではないでしょうか。

宗祖親鸞聖人は、私達人間が持っている煩悩は脱却できない、煩悩のこころは毒蛇や蠍のように恐ろしい、たとえ善行を修めても、そこには煩悩の毒が混じっているので、それは虚仮の行といって真実の行とはいえない、と煩悩の深さを自覚されました。しかし、聖人はこの自覚から煩悩を断ずる自力の行を棄てて、本願他力の道に進まれました。そんな心境を聖人は「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽 証せしむ」(高僧和讃)と残されています。
親鸞聖人はつねに阿弥陀仏の本願力の素晴らしさを随所に讃嘆されていますが、「煩悩はやめることはできぬけれども、煩悩だと知ることはできる」という言葉も、本願力によって煩悩具足と信知せしめられて、その信知せしめられた私が、また、この本願力によって救われることを意味しているのではないでしょうか。その意味でも、仏法に親しんで意義ある人生を歩み、死を忘れずに日々精一杯生きていくことが大事なのではないでしょうか。(宗)

Stay hungry , stay foolish

2012.12.19

アップル社の創設者の一人であり、元アップル社CEOの故スティーブ・ジョブズ氏は、仏教に対し、非常に深い関心と理解を持っておられたそうです。今月のことばは、スティーブ・ジョブズ氏が、2005年6月12日にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの締めくくりとして、卒業生へ送った言葉です。
Stay hungry,stay foolish 直訳すれば「ハングリーであれ、愚かであり続けろ」ということになりますが、皆さんはこの言葉をどのように受け取られたでしょうか。スピーチは、「点と点を繋ぐ」「愛と喪失」「死」の3つの実体験を学生に語りかけ、最後に学生へのメッセージとして表題の言葉を贈る形で締めくくられています。私が初めてこのスピーチの原稿を読んだ時、スピーチ全体にも感動もしましたが、特に最後の短いこのフレーズが非常に印象的で、閉塞感が漂う現代社会を生きる私たちにとって、普遍的で、非常に大切な言葉であり、仏教にも通じる言葉だなと感じました。

Stay hungryとは、挑戦する心を持つことの大切さを語っており、ともすれば現状維持、安易な方向に流されがちな自分に対する叱咤激励、すなわち「これで良いのか問い続けなさい」という励ましでではないでしょうか。また、Stay foolishとは、周囲の意見や世の中の常識・慣例に捉われ、利口さを演じてしまう自分、アイデンティティを見失いがちな自分、また常に自分は正しいと我を張っている自分に気づかされる言葉、すなわち「自分を守ることに執着していませんか」というメッセージではないでしょうか。

往生念仏を説かれた浄土宗の祖である法然上人は、「浄土宗の者は愚者となりて往生す」と言っておられます。これは愚者、すなわち「愚かな身、どうしようもない自分であることに気づきなさい。ほんとうにそのことに気づくことができれば、自分に対する執着から解放され、平穏に暮らすことができますよ」ということで、愚かな身であることを気づかせてくれるのが念仏ですよと説いておられます。念仏とは、今がこれでいいか問うことですので、法然上人は「今がこれでいいかを問うことによって、愚かな自分というものに気づきますよ。その気づきが執着にまみれる自分を救ってくれるのですよ」ということをおっしゃりたかったのではないでしょうか。そう考えますと、Stay hungry ,Stay foolishというジョブズ氏のメッセージは、「今がこれでいいか問い続けなさいよ、愚かな身である自分に気づきなさいよ」という温かみのある励ましのように聞こえてきませんか。まだ、ジョブズ氏のスピーチを読まれたことのない方は、是非一度読まれることをお勧めします。(宗)

「苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、
助け合って生きていく事が、これからのわたくしたちの使命です。」
気仙沼市立階上中学校 梶原祐太さん 卒業式答辞より

2012.11.19

東日本大震災から1年8ケ月が経ちました。震災直後の様子がテレビで何度も放映されていますが、その度に多くの尊い命が亡くなったことを通して被害の甚大さを再確認させられ、何度も胸が痛くなります。
そのような中で、東日本大震災直後の3月22日、気仙沼市の階上(はしかみ)中学校で卒業式が行われました。卒業式といえば華やかな日。例年であれば、教師や友達との別れ、そして母校からの旅立ちの日であるのですが・・・・。子どもの写真を抱えた父親が代理で卒業証書を受け取る姿や、祝辞を述べる声が涙でつまる校長先生の様子が放映されていました。
今月の言葉はそんな悲痛な状況の中、中学校の卒業式で読まれた答辞からの抜粋です。 答辞を読まれた梶原祐太さんの困難な状況を引き受けてそれに耐え、謙虚に力強く生きようとするこの言葉には、同じ境遇に立つ多くの被災者が勇気づけられたことだと思います。

仏教には「如実知見」という言葉があります。それは、事実を事実としてあるがままに、ものの真実の相を正しく見極めるという教えです。私達は嫌なことがあるとどうしても現実から逃げ出したり、何かのせいにしたりしてしまいがちです。何かのせい、誰かのせいにするのではなく、自分を如実に見てこれからを考える。 先の震災は、口では言い表すことのできないつらい、悲しい事実ではありますが、この答辞から、ただ歯をくいしばって我慢するだけでなく、現実をしっかり受け止めて前に進もうと努力していくことが大切だと感じました。どんな困難な状況やたとえ地獄のような現実があっても、事実をしっかり引き受けて立ち上がっていきたいと思っています。(宗)

かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祗をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす 「正像末和讃」 親鸞聖人

2012.10.19

意味
悲しいかな、いまの世の僧侶も俗人も、目先の欲望を満たすために日時の善悪吉凶を選び、現世の幸せを与えるとされる天の神、地の神をあがめ、占いや祀りでもって幸福を得、災いを除こうと努めている。

私たち人間は弱さを持っています。その弱さから生まれる「迷い」につけ込んで商売をする人たちが、この世の中にたくさんいます。
皆様も目にしたことがあると思いますが、例えば日本のカレンダーにはよく、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口という「六曜(六輝)」 が載っています。結婚式は「大安」や「友引」が良いといわれています。事実仏滅の日の結婚式の披露宴は、値段を比較的安く設定しているところも多いようです。逆に葬式は「友引」を避けたほうが良いなどといわれています。実際、以前は私の知っている火葬場は友引の日を休館日にしていました。(その後、多方面からの指導により、友引の日の休館はなくなり毎月1回、日を定めて休館日にしています。)また、友引の日の葬儀執行についても、私ども僧侶がいくら友引の葬儀執行はかまわないと御門徒様に説いても、「理屈はそうかもしれないし理解できるが、もし当家が友引に葬儀を行って誰か亡くなったら他の人に何を言われるかわからない」などと言って友引の葬儀執行には難色を示されます。当然これは科学的には何の根拠もないものです。また「仏滅」という言葉は、これも仏陀や仏教とは何の関係もありません。それなのに浄土真宗を含む少数の宗派を除いたいくつかの宗派が、六曜を載せたカレンダーを系列出版社などから発行していたそうです。それも一部の暦は、わざわざ「これは宗門の教えと関係のない迷信です」という断り書きを載せたうえで売られていたそうです。迷信とわかっているなら何故販売するのでしょうか。
夏になるとよく幽霊などが写っているという、いわゆる「心霊写真」を集めて特集を組んだ番組が放送されますが、何の根拠もないのではないでしょうか。また、皆様がよく耳にする話題の一つに、血液型や誕生日の星座の話があります。この血液型による相性等を証明した学術研究はありませんからこれは一種の占いです。
このような占い、迷信に振り回され、その弱さにつけ込んでくる人たちに仏陀だけでなく多くの宗教者が嘆きの言葉を残しています。その一つが、上記にあげた親鸞聖人の和讃なのです。(宗)

「あなたが人生に絶望しても、
人生はあなたに絶望していない」(ヴィクトール・フランクル)

2012.09.19

オーストリアのユダヤ人精神科医フランクルは、 2年半に渡るナチスの強制収容所での生活を余儀なくされました。そしてそこでの体験を著した『夜と霧』は今も世界で読み継がれています。今回取り上げたことばは、フランクルが生前語っていたことばだと、彼の妻が日本人心療内科医永田勝太郎氏に贈ったものです。(2008年5月2日付朝日新聞より。2012年8月現在もasahi.com にて閲覧可能http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200805020032.html:『夜と霧』池田訳p. 129参照)
強制収容所-過酷な強制労働・環境・暴力が支配するなか、所持品だけでなく、名前も、尊厳も奪われる-そのような極限状態は人の心の奥底を暴きだします。保身のために自ら人としての尊厳を放棄しあるいは生を放棄する人がいる一方で、過酷な現実を真正面から受け入れ、苦しみながらも勇敢さと尊厳を保ち内的な高みに達する人がいたことが記録されています。しかし、その高みへと達した人たちは“普通の人々”とかけ離れた英雄なのではないとフランクルは言います。彼らの英雄的ふるまいは、もともとの特別さからではなく、彼ら自身のその場その時の決断によるのだと言うのです。
フランクルは言います。人間らしさとは善悪の合金のようなもので、その善と悪の間には亀裂が走り、それは心の奥底にまで達していると。つまり、そこで暴きだされたのは、心の深淵でその人が、その場その時に、善悪のどちらを選び取ったのかということです。先にあげた永田医師に贈ったことばの直前にある「人は誰しも心のなかにアウシュビッツを持っている」という一節も、わたしたちの中には、自ら飢えながらも人にパンを分け与えるような善性とともに、収容所で起こったようなあらゆる非情をなす可能性をも宿していることを指摘しています。わたしたち人間は、そのいずれをも選び取れるほどに自由なのです。
では、彼ら英雄的なふるまいをなした人たちは何を選び、何を決断したのか。生きる意味を、自分の側から人生に求めるのではなく、人生が自分に求めていることに答えていくことのうちにあると受け止めたということなのでしょう。
現代は心の時代だと言われています。しかしその心には善悪の亀裂が走っているとフランクルは言います。そうであるならば、人生からの問いかけに耳を澄ます心の存在を確かめなくてはならない、そのような時代だということになります。
ところで仏教の枠組みで考えるならば、この人生からの問いかけは、仏からの問いかけと言えるかもしれません。また、仏教では生きとし生けるものの在り方を6つに分け(六道)、仏の教えに出会うためには、人間に生まれなければならないとしています。いかなる状況にあっても、勇気と尊厳を失わず世界に対して心を開いていく者が人間であり、仏の教えつまり、仏からの問いかけに出会う。そして、心を開くことができなかった者が人間以外の呼称、餓鬼畜生などと呼ばれている…お経はこのようなことを語っているのかもしれません。

かんじんなことは
目に見えないんだよ (サン=テグジュペリ)

2012.08.19

このことばは、フランスの作家・飛行士 サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の一節にあることばです。この小説は、児童文学でありますが、大人向けのメッセージに満ちあふれていて、人間にとって大切な事柄、真実の教えが随所にちりばめられています。
小説の中で王子は「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」と教えられました。
ただ目に映るものが必ずしも真実とは言えないこと、心の目で見ること、子供のように心の 曇りがなく、純真な目でものごとを見ることが大切であることをこの小説は伝えています。
人は、正しくものを見ているつもりでも、自分にとって損か得かという自己中心的で自分 勝手な見方でしかものごとを見ていないため、何が本当で何が偽りなのかを見極めることができません。
現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われて、数値ばかりを追い求めてきました。その典型が経済至上主義の考え方であると言えるでしょう。その結果、私達は、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かなくなってしまったのではないでしょうか。
今こそ、物質の豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時だと思います。そして、一人ひとりが、ものごとの本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならないと思います。そのためには、純真な子供の心と真実を見定める智慧の眼が必要であります。
仏教の教えをいただく私達は、大いなる仏の慈悲によって、生かされていることに気付き、その慈悲の中に目に見えないけれども確かにある大きなはたらきに気付くことができるはずです。その見えないけれども確かにあるはたらき(慈悲の光)に照らされて、自分自身とまわりのすべてのものを見ることにより、ものごとの本質・真実を見定めていくことが最も大切なことだと思います。
皆さんにとってかんじんなこと、本当に大切なことは何でしょうか。心の目でしっかりと見つけてください。(宗)

「晴れた日は晴れを愛し 雨の日は雨を愛す
楽しみあるところに楽しみ 楽しみなきところに楽しむ」(吉川英治)

2012.07.19

最近は、梅雨空のすっきりしない天気が続いています。雨の日というのは多数の人にとってはありがたいことではなく、天気を表現するのにも「天気が悪い」であったり「あいにくのお天気」というマイナスのことばを使ったりします。ついつい気持ちまで曇りがちな天候の日に思い出されるのが、時代小説を多く手掛けた、作家の吉川英治さんのこのことばです。
このことばはとても前向きで、気持ちを曇らせていた自分を方向転換させてくれます。天気のことだけでなく、その日起こった出来事について、どんな日でも気持ちの持ちようでいい一日になるのだと、いい一日だと思うのも悪い一日だと思うのも、すべて自分次第なのだと教えてくれるからです。
似たようなことばに雲門禅師の「日々是好日」というものがあります。一瞬一瞬を大切に生きよという意味のことばです。自分自身が生きているのは、今この瞬間です。過去は過ぎ去ったものであり、すがる必要はありません。また未来は何が起こるか分かりません。すべてが期待通りになる訳ではなく未来に起こる不安を心配してもどうしようもありません。過去や未来に囚われず、今この瞬間になすべきことを行うことが必要なのでしょう。しかし、今をよりよく生きる為に過去を内省し、未来への希望を繋ぐため、今を懸命に生きるということは必要だと思います。
今日という一日は、晴れの日であっても雨の日であってもであっても二度と繰り返すことのできない、かけがえのない一日です。空しく過ぎる人生ではなく、生きる意味を見つけるために、一日一日を大切に、今この瞬間を尊びながら、時を過ごしていけたらと思います。(宗)