All posts by tukiyomi

ご恩というものを思わない。だから、自分でやったという思いしかない。
(細川 巌『正信偈讃仰』)

2012.06.19

野に山に新緑が萌え立ち、生命の「めぐみ」を心身すべてで感じる季節です。
今月の言葉は、親鸞上人の開かれた浄土真宗の教え、阿弥陀如来の本願力(他力)による救いを信心せられ、自費を投じて創設した聞法の道場「巌松寮」(のち巌松会館)を中心に東奔西走、その教えを講じられた細川巌氏の言葉です。この細川巌氏の活動は、昭和十八年広島文理大学の学生であった時、当時、広島文理大学と高等師範学校の結核を患う学生の心身の療養のためにおかれた健民修練所の運営を引き受け、その土曜講座で『歎異抄』の講義をされていた住岡夜晃氏との出遭いに始まるといわれています。
細川氏は、多くのお話の中で「他力」の教えを私に伝えて下さった方へのご恩を思うことの大切さを語っておられます。それは、仏陀によって顕かにされた、煩悩に執らわれながら生きている私たち凡夫が、「南無阿弥陀仏」によって浄土に生まれることができるという「他力」の教えを、親鸞上人まで伝えてくださった多くの高僧たちへの報謝、そして、その教えを信心した「師」によって今「私」がその教えに遇うことができたことへの歓喜を語っておられるのではないでしょうか。そして、その教えを聞いていくことはすなわち自分を問うていくことであり、自分を知ることを示してくださっているからだと考えられます。そのことは、私は救われるべき「凡夫」であったことを知ることであり、その目覚めだからです。この機縁を与えてくださったご恩の大切さを語っておられるのではないでしょうか。細川氏にとって住岡夜晃氏がその人であったのかもしれません。
私たちは、教えを聞くことによって阿弥陀仏の「慈悲(めぐみ)」につつまれていることを知り、季節ごとに生命の「めぐみ」を体感し、生かされて生きる自分に気づかされるのではないでしょうか。(宗)

歩け!
(アントニオ猪木)

2012.05.19

今月の言葉は、プロレスラーのアントニオ猪木氏の詩集に掲載されている言葉です。
アントニオ猪木氏は、日本に生まれ、少年時代をブラジルで過ごされていましたが、プロレスでブラジル遠征に来ていた力道山に身体能力を買われ、その後スカウトされ日本に帰国し、多くの名勝負を演じてこられ、日本のプロレス界を常に牽引している人物の一人です。
この詩の全文は、「どんなに 道は険しくとも 笑いながら 歩け!」という詩ですが、何か私たちに元気や希望、勇気を与えてくれる言葉です。
私たちは、日々様々な困難と向き合いながら日常生活を送っています。それは、人間として生を受けた以上、致し方ないことです。しかし、そのすべての困難を現実として受け止めているのでしょうか。また、その物事が険しければ険しいほど現実として素直に受け止められず、できれば避けて通れないかと考えるのではないでしょうか。
仏教に四苦八苦という言葉があります。お釈迦さまが修行の後に世の中は苦に満ちていると悟ったときに残されたお言葉です。生・老・病・死を四苦とし、さらに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つを合わせて八苦と言います。要するに、生まれた瞬間から苦しみがはじまり、老い、病み、死に、人との別れ、会いたくない人と会い、満たされない気持ち、身体と心で受ける苦しみといった苦しみの連続であると説かれました。そして、その苦しみの捉え方を次のように説かれました。この世は移ろいゆくばかりで常なるものは何もない(諸行無常)、自分という存在も移ろいゆく(諸法無我)、すべてのものは苦しみである(一切皆苦)と説かれ、これらの事実を現実のものと自覚することで、煩悩のない悟りの世界、静かで穏やかな境地(涅槃寂静)即ち「極楽浄土」に導かれていくと説かれたのです。
つまり、一つ一つの困難は現実のものであり、自分のものであることに逸早く気付き、今できることを精一杯考え、やり抜くことが大切なのです。そして、その実践により、今月の言葉「歩け!」の詩のように、どんなに険しい道であっても笑いながら歩める人生が送れるのではないでしょうか。(宗)

光華の心
向上心  うるおいの心  感謝の心

2012.04.19

本学は昭和14年、東本願寺の故大谷智子裏方(昭和天皇妃-香淳皇后-の妹君)の「仏教精神による女子教育の場」をとの願いによって設立された真宗大谷派の宗門関係校です。校訓に「真実心」を掲げ、教育の基本を仏教、特に親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の教えを人間形成の基本に据えている学園です。今回は、光華女子学園の校訓「真実心」とその実践の心「光華の心」についてお話させていただきたいと思います。 光華女子学園の校訓「真実心」とは仏様の心のことであり、本学園に集う全ての者は「仏様の心にかなう生き方をして欲しい」との願いが込められています。それでは「仏様の心にかなう生き方とはどのような生き方でしょうか。宗祖親鸞聖人は仏様の心にかなう生き方についてご門弟に送られた手紙の中で、「自己中心的になりがちな自分に気づき、自己の行いを反省し、他者に対して潤いの心(思いやりの心)を持って接する生き方だ」と示されています。自己中心的でどうしようもない存在である自分に気づいた時、周囲に対する「感謝の心」が生まれ、ご縁のある全てのものへの「潤いの心」が芽生えます。従いまして、仏様の心にかなう生き方の実践としては、「潤いの心」と「感謝の心」を持とうという心掛けが大切であると言えるのではないでしょうか。このように考えますと、光華女子学園の校訓「真実心」に込められた願いとは、第一に勉学や課外活動に精進し、自己を高める「向上心」を持つということは言うまでもなく、その努力の過程で、他者を思いやり慈しむという「潤いの心」と、支えてくださる全ての者に対する「感謝の心」を育んで欲しいということといえます。
このように、今月のことばである「光華の心」とは、光華女子学園の建学の精神であり、校訓として掲げる「真実心」をより具体的に示した心のことで、

「こ」 向上心  (向上発展を目指す心)
「う」 潤いの心 (思いやり、慈しみの心)
「か」 感謝の心 (生かさせていただいていることへの感謝の心)

の3つの心のことです。
「光華の心」には、常に「向上心」を持って自己を精一杯生き、自我に偏することなく、他者をあたたかく思いやる「潤いの心」と、生かされていることへの「感謝の心」を忘れず、他者と共生できる人間。すなわち、光華女子学園で学ぶ全ての学生・生徒・児童・園児や教職員一人ひとりがこの心を持ち、「光華の心」の実践者として常に笑顔で心美しく生き、社会を照らすことのできる人間であって欲しいとの願いが込められています。この4月にご入学された全ての方に「光華の心」の実践者となって欲しいと願っています。

雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を
(相田 みつを)

2012.03.19

卒業のシーズンが到来しました。卒業生の皆さんは、今、将にこれまで過ごしてきた学生生活を振り返り、同時に希望に満ちた新たな道を確かめつつ、第一歩を踏み出そうとされているところだと思います。
このことばは、詩人であり、書家でもあります、相田みつをさんの作品集のタイトルにあることばです。相田みつをさんは、かけがえのない尊いいのちの大切さと人生の歩み方について、慈愛に満ちたあたたかくてやさしいことばで私たちに語りかけてくださいます。
このことばについてご自身が「雨の日には、雨を、そのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には、風の中を、風といっしょに生きてゆく。特別なことではない、ごくあたりまえの生き方のことです。」(『生きていてよかった』ダイヤモンド社)と解説されています。
雨の降る日が必ずしも悪い天気だとは言えません。農作物や草木の生長には、雨が降ることは都合がよく、むしろいい天気と言えるでしょう。天気に限らず、あらゆる事象においてそれがいいのか悪いのかは、その状況によって、また、立場によって変わります。私達は、自己中心的で自分の価値観で物事を見て、自分勝手に良し悪しを判断しているに過ぎないのですが、なかなかそのことに気付くことができません。
雨の日には晴れの日を思うのではなく、雨の日をご縁として、雨の日に相応しい受け入れ方、雨の日にしかできないことがきっとあるはずです。ただ今、数限りないご縁によって起こった出来事が、自分にとって都合のいい縁であっても、都合の悪い縁であったとしても、そのすべてをそのまま縁として受け入れ、向き合い、そして乗り越えていくことが肝要なのではないでしょうか。
また、同じ解説の中で「この場合の、雨や風は、次から次へと起きてくる人間の悩みや迷いのことです。」と言われています。
釈尊は、自分自身をしっかりと見つめられ、人生は「苦」であると断言されました。このことから仏教が始まったと言えます。苦とは、人生において何一つ自分の思い通りにならないこと、と換言できます。人にとって思い通りにならない最大の苦は、自然の営みであります「生老病死」だと思います。仏教は、この「生老病死」の苦悩、不安、痛みと向き合い、受け入れ、超えていく道を見出すことができる教えだと言えます。私達が様々な出来事に突き当たり、苦しみ、思い悩み、そこから逃れたくなった時には、この仏教が教えるところの理念、智慧、方法を拠りどころとすることで対処していけるのではないでしょうか。今、新たな道を歩まれようとされている皆さんの前途に、雨や風の日があったとしても、現実から目をそらさず、ありのままを受け入れ、前向きに進んでいただきたいと思います。(宗)

まるまるとまるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸
(木喰上人)

2012.02.19

今月のことばは、木喰(もくじき)上人という江戸時代後期に生きた修行僧のことばです。木喰というのは個人の名前ではなく、木喰戒という厳しい戒律を守っている修行僧の呼び名です。木喰戒は、五穀(米・麦などの穀物)を断ち、火を通した物を取らず、山菜や木の実を食べて生活するという修行です。木喰上人は、45歳で木喰戒を受け、56歳から93歳で生涯を終えるまで、全国を行脚し千体以上もの仏像を彫り続けた人物です。
木喰上人は各地で人々の悩みを聞き、救済の願いを込め仏像を彫りました。その仏像には、ふっくらと優しい笑みを浮かべた穏やかな表情のものが数多くあります。中には、人々がなでて一部色が変わってしまった仏像や、子供のそり遊びに使われすり減って顔がない仏像もあります。庶民の願いに寄り添うように仏像は彫られ、庶民の心のすぐ傍に仏像はあったのだと思います。
北海道から鹿児島までの2万キロの旅の道中、木喰上人は様々な人々の苦しみや喜びを見たでしょう。木喰上人の仏像の特徴である微笑みは、木喰上人が83歳を超えてからの晩年の作品に見られるものです。多くの人々の生き様を見、行き着いた先はすべてを包みこむようなあの穏やかな笑みです。そして、「まるまるとまるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸」ということばが生まれました。さて、私たちは日頃どんな表情で生活していることが多いでしょうか。仕事や家庭生活の中で、いつもにこにこ穏やかに笑えているでしょうか。 自分自身を振り返ってみると、例えば仕事がうまくいかないときは不機嫌な表情になっていると感じますし、そんな時は周囲の人にも優しくできていないと反省します。
笑顔は人を幸せな気持ちにします。そして笑顔は笑顔の連鎖を引き起こします。私は笑顔の根っこにあるものは、穏やかな心と敬愛の気持ちだと思います。自分を取り巻く事柄に不満の気持ちばかりを持っていれば、苛立ちこそあれ笑顔は生まれません。周囲のすべてに謙虚に感謝する気持ちがあれば、心は満ち足り、笑顔が生まれると思います。
河原の小石が丸い形をしているのは、川の流れに流され角がとれているからです。
人も同じだと思います。生きていく上で人の波にもまれ、角と角が触れ合い傷ついて痛みを知り、少しずつ丸くなって生きていけると思います。
心のありようで現実が地獄にも極楽にもなる、そんなことを思いながら、木喰上人の仏像のような柔らかく丸くあたたかな笑顔で生きていけたらと願います。(宗)

元旦や 今日のいのちに 遇う不思議 (木村無相)

2012.01.19

明けましておめでとうございます。新しい年を迎えた今月の言葉は、真宗の教えを喜ばれた念仏者で、多くの詩を遺された木村無相さんの言葉です。
木村無相さんは波乱の幼少期を送られました。そして、青年期になって親を怨むような自らの心のあり様に気がつかれ、以降、求道の道を歩かれました。その道程も幾度もの挫折を繰り返し、五十才半ばにして、一生懸命道を求めてもどうにもなっていない自分を「しみじみ思う身の愚か」と嘆かれています。しかし、そんな愚かな私が救われる道があることに気づかされられました。其れは阿弥陀如来の本願をたのむ事であり、念仏往生の道にしたがってお念仏を申していくということでありました。そのときの喜びの歌が「道がある 道がある たった一つの道がある 極重悪人唯称仏」です。
この真宗の教えを喜ばれた木村無相さん、私たちはこのように願われて生きている身であり、幾多の「めぐみ」によって生かされている、「おかげさま」で生きていることを十分に存知していても、元旦を迎えて、今、生きている(生かされている)ことを実感し、「老少不定」といわれる人間のこの「いのち」に今日も私は遇うことができた。この不思議を喜ばれて吐露された言葉ではないでしょうか。
私たちは、生きていることが当たりまえと捉えがちですが、生きていることを不思議と受け止めていく生活が大切ではないでしょうか。「報恩感謝」の生活もこの「不思議」と受け止める生活から始まるのではないでしょうか。(宗)

実力ある者は 自分に反対する者を愛す

2011.12.19

今月の言葉は、今から四十五年程前に東本願寺から出版された「今日のことば」に掲載されていた言葉です。どの世界、業界にもいわゆる「実力者」が存在します。「実力者」とは、おかれた環境の立場立場において、抜き出た力(影響力・支配力)を持っている人のことを指します。ただし、今月の言葉のようにすべての「実力者」が「自分に反対する者を愛す」のかと言えばそうではありません。では、本当の「実力者」とはどのような人なのでしょうか。
「実力者」は、二つに分類することができます。一つは「表の実力者」、もう一つは「影の実力者」です。同じ実力者でも全く性質が異なります。前者の特徴は、いわゆる人前にどんどん出ていき、いろいろなしがらみの中で実力を発揮しているタイプです。後者の特徴は、出しゃばることもなく自然体でいながらも、牽引力や統率力を発揮するタイプです。皆さんの身近にも思い当たる人がいるのではないでしょうか。しかし、何れの「実力者」にも必ず「初心」があったことには違いありません。
例えば、親子の関係ではどうでしょうか。子育ては非常に大変なことです。しかし、楽しみに満ち溢れています。さらに親は、子供に対し、親としての「初心」を持ち、いろいろな夢や希望を抱きます。ところが、親の意思どおりに子供が成長するかと言えば、そうともいえません。親子のぶつかり合いは、必ず起こります。しかし、親子の中では絶対的に「自分に反対する者を愛す」という関係が成り立っているのではないでしょうか。大切なことは、子育ての中で子供の意思も尊重し、親の意向も子供へ伝え、可能な限りお互いの意見を尊重しながら育てていくのが理想ではないでしょうか。
仏教に、菩提(煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること)を求める心、「発菩提心」または「発心」という言葉があります。この「発心」が正しくなければ、何をやっても虚しい時を過ごすことになってしまいます。その「発心」は、最初に一回だけ発せばいいというわけではありません。日々何度も何度も繰り返し発し、自らの言動や行動を軌道修正していくものです。
私たち人間は皆、それぞれの立場や環境が変わるにつれ、初心を忘れてしまいがちです。
そうした中で、初心を忘れずに物事を判断し、絶えず相手の立場に立って行動する人こそ、真の「実力者」であり、その実践者のみが「自分に反対する者」を愛することができるのではないでしょうか。(宗)

尽くす

2011.11.19

宗祖親鸞聖人750回御遠忌を記念して制作された「宮崎哲弥 こころのすがた」というBS放送の番組があります。この番組は、ナビゲータの宮崎哲弥氏が「現代人の生き方」についてさまざまな分野で活躍されているゲストをお迎えし、日々の身近な話題や出来事についての考えを伺いながら、さまざまな事件や社会の風潮に対してどう向き合うのか、どうあるべきなのかを考えつつ、ゲストが紹介するこころのキーワードを通し、「生きるヒント」を提供する番組です。今月のことば「尽くす」は、ゲストとして迎えられたピアニストの仲道郁代さん(ジュネーヴ国際コンクール、エリーザベト王妃国際コンクールなどに入賞し、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルをされるなど、日本はもとより、海外でも非常に評価をされているピアニスト)が、こころのキーワードとして紹介された言葉です。
仲道さんは「尽くす」ということは、心を尽くすということで、全てを受け入れて、自分なりに惜しまないで尽くすことである。「尽くす」ということに対象はなく、人であり、自分であり、行為であったりする。それは「何かに対して何かを尽くす」という限定的なものではなく、最後の瞬間まで自分の全てを尽くすという、自分の心の動き・作用のことであると話しておられました。皆さんは仲道さんが紹介された「尽くす」という言葉を聞いてどのように感じられましたでしょうか。
仏教言葉で「自利利他円満」という教えがあります。「自利」というのは自分が幸福になるということであり、「利他」というのは他人にも幸福になってもらうということです。「自利利他円満」というのは、自分が幸福になることが他人の幸福にもつながり、他人の幸福が自分の幸福にもなるということです。この教えは、「なるほど」と思う反面、実際は非常に難しいことです。何故なら、私たちは自分の幸福を得るために尽くすことはできても、それを後回しにし、他人の幸福のために尽くすといことが苦手なものです。ましてや、他人の幸福が必ずしも直接的に自分の幸福につながると思えなければなおさらです。しかし、他人のことをほっておいて、自分の「幸福」のみを追求すればどうでしょうか。皆さんそれで満足されるでしょうか。やはり「心の葛藤」が生じ、満足感、達成感を得ることはできないのではないでしょうか。
今回「尽くす」という言葉を伺い、「自分は尽くしているのだろうか」「自分の生き方のプライオリティ(優先順位)は何だろう」という自己に対する問かけとともに、「尽くす」ということは心の本質の働きであり、だからこそ豊かな心があってはじめて人生は「豊かな」ものとなる。逆になければ「尽くす」ということが自分の人生を不幸なものにするかもしれないと考えさせられました。豊かな心を持ち、「尽くせたな」と思える人生を歩みたいものです。

みんな見てます 知ってます けれどもそれもうそか知ら
(金子 みすゞ)

2011.10.19

童謡詩人 金子みすゞさんの「海とかもめ」の詩の一節にあることばです。
金子みすゞさんは、慈愛に満ちたあたたかくて思いやりのあることばで、数多くの詩を残してくださいました。また、すべてのいのちに対して平等にやさしい眼差しを向けられ、常に真実を見つめる心を持ち続けられた方でした。
この詩の全体は、「海は青い、かもめは白いと思っていたが、今見るとねずみ色。みな知っていると思っていたが、それはうそでした。空は青い、雪は白いと知っていますが、それもうそか知ら」という内容です。
天候、光の反射など自然の条件次第で海の色がねずみ色に見えることがあります。また、見る人のこころの情況によって色が変わって見えることもあります。人は、境涯が変われば、ものの見方も変化していくものです。
金子みすゞさんは、知っていると思っていることが、ほんとうは何も知らなかったこと、見えているつもりでもほんとうは何も見えていなかったこと、あたりまえだと思っていることが、実は真実の姿ではなかったことに気付かれたのではないでしょうか。
すべての事象が縁によって変化する中で、真実の世界を見ることは極めて難しいことです。また、人は、自分の価値観でものごとを見て自分のものさしですべてをはかり判断しているため、正しく見ているつもりでも実は自己中心的にしか見ていないのです。
それでは、真実の世界を見るためには何が必要なのでしょうか。
そのためには、損か得かという自己中心的なものさしではなく、何がまことで何がうそかという仏のものさし(智慧の眼)で真実を見つめることが大切だと思います。そして、真実の世界に触れるためには、限り無きいのちともいうべき仏教の教えをいただくことが肝要だと思います。
金子みすゞさんが生まれたいと強く願われた真実の世界とは、すべてのものがあるがままで等しく尊い存在であることが認められる世界であり、一人ひとりが光り輝ける世界であったのではないでしょうか。
経済中心主義の世界の真直中に身を置き、自己中心のこころから離れられず、うそかまことかがわからずに迷い続けている私たちに、心の糧の大切さと人間としての本当の生き方をこの詩を通してはっきりと示してくださっているように思います。(宗)

わたしは、生きようとする生命に取り囲まれた、生きようとする生命である。
( アルベルト・シュバイツァー )

2011.09.19

今月のことばは、ドイツ出身でフランスの哲学者・神学者・医者・音楽学者のアルベルト・シュバイツァー博士のことばです。博士は、牧師の子として生まれ、30代の頃より長くアフリカのガボンという国で医療に従事しました。自らを犠牲にして、アフリカの人々の為に献身的な活動を行ったことから「密林の聖者」とも呼ばれています。また、第2次世界大戦時の日本への原爆投下を知り核問題を中心に反戦運動を展開するなど平和への貢献が認められ、1953年にノーベル平和賞を受賞した人物でもあります。

さて、このことばは、身の周りにある命の存在やその尊さを、改めて考えさせられることばだと思います。普段の生活では、生きていることが当たり前で、命がありがたいとはなかなか考えませんが、本当は「生きようとする数多くの生命」の中で、自分自身も「生きようとするひとつの生命」なのです。連綿と続く命のつながり、そして命の躍動を感じる能動的なことばだと思います。今、ここに生かされている命は、自分の思いを超えて生きたがっているのだと、そう願う無限の集合体の中で自分は生きているのだと思うと、まるで宇宙に浮かぶ無数の星々のひとつの星に自分がなったような、はてしない命の広がりを感じます。博士はまた、命あるものすべてを価値あるものとして尊敬しよう、そして共に生きようという「生命への畏敬」という考え方を残しています。これは、宗教を超え、すべてに通じることです。

残暑厳しい中、蝉の鳴き声もヒグラシのものへと変わりました。蝉の寿命の短さ故か、その鳴き声は、精一杯命をふりしぼるように聞こえます。
松尾芭蕉の句に、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」というものがあります。命の儚さ、無常を感じる句ですが、同時に命の輝きを考えさせられる句です。
今年は、未曾有の災害により多くの生きとし生けるものの命が失われました。多くの人が命の重さ、尊さを強く感じた年になったのではないでしょうか。
今、まさに、当たり前にある命の、存在の大きさに気づかされます。(宗)