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「心の在り方」

2018.11.02

10数年ぶりに、三浦綾子さんの『塩狩峠』という本を読み直しました。

この小説は、自ら命を投げ出して列車事故を防いだ鉄道員の話で、根底にはキリスト教の教えが説かれ「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん」という聖書の言葉の引用と共に「自己の犠牲」がテーマとなっています。実話がモデルとなっているこの小説からは、信仰というものが持つ力や、信仰に生きるという生き方を改めて考えさせられました。

 

さて、この小説の中に、主人公の鉄道員が想いを寄せるふじ子という足の不自由な女性が出てきます。その女性の兄と主人公が話す場面で、次のような会話があります。

「世の病人や不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねぇ。」

「もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。(略)病人や不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれてきているんじゃないだろうか。」

そして、「ふじ子(病人や不具者)のようなのは、この世の人間の試金石のようなものではないか。どの人間も、全く優劣がなく、能力も容貌も、体力も体格も同じだったとしたら、自分自身がどんな人間かなかなかわかりはしない。しかし、ここにひとりの病人がいるとする。甲はそれを見てやさしい心が引き出され、乙はそれを見て冷酷な心になるとする。ここで明らかに人間は分けられてしまう。」

 

思いやりとは自然に湧き出す心の在りよう。私はそう思います。しかし、その人のそれまでの生き方や、その時々の心の状態で、思いやりを持てたり持てなかったりと、心の状態は変化します。

様々な事象に会う都度、人は試金石のようにその時々の心の在りようが図られるのでしょう。さて、私たちの今の心の在り方は、真に自分に誇れるものでしょうか。

自らに正直に、その上で自らに恥じない心を持ち、人のことを思いやれるような生き方をしたい。心の在りようで自分の世界は変えていける。そのようなことを考え、自らの心の在り方を振り返る機会となった一冊でした。(宗教部)

平成30年度 学園長賞表彰式を行いました

2018.10.24

10月23日(火)、平成30年度 学園長賞表彰式を行いました。
学園長賞は、本学園の在学生で、学業・文化・スポーツ等において特に優秀な成績を修められた方や、ボランティア活動等で地域に貢献などをされた方を表彰する制度です。

 

今回は、個人で13名、団体で3団体が表彰され、学園長から表彰状と記念品が贈られました。
学園長は、「今回の結果が得られたのも自らの努力だけでなく、周りの仲間や家族、ご指導いただいている先生方に感謝することも忘れないでほしい、また努力した結果も大切であるが、普段の生活においても光華の心を持って、周りへの感謝、思いやりの心を持って過ごしてほしい」とお祝いの言葉を贈られました。
受賞者からは、「今後もさまざまなことに積極的にチャレンジしていきます」と力強い宣誓がありました。

 

入賞者の皆さんのますますのご活躍を期待いたします。

 

第2回KOKA ENGLISH CONTESTを開催しました

2018.10.03

9月29日(土)、第2回KOKA ENGLISH CONTESTを開催しました。
本コンテストは京都新聞、株式会社わかさ生活、株式会社京都銀行、株式会社ECC、リアリーイングリッシュ株式会社、京都府教育委員会、京都市教育委員会にご後援をいただき、光華小学校・京都光華中学校・京都光華高等学校・学校法人光華女子学園が昨年度から開催しています。
英語を学ぶ子どもたちに、日頃の成果を発表する機会を提供することで、英語での表現力、コミュニケーション力を高めるとともに、英語を学ぶモチベーションの向上に寄与することを目的としています。
当日は、一般の方にもお越しいただき、約90名の方にご参加いただきました。
 
予選を突破しこの日の本選に進んだのは幼稚園・保育園児から中学生まで15名。
しっかり前を向いて話す堂々とした様子や発表に詰まってもすぐに立て直す冷静さなど、日頃の学習とこのコンテストに向けて積み重ねてきた練習の成果を披露してくれました。
 
コンテスト出場者の発表後には、京都光華中学校・京都光華高等学校の生徒によるプレゼンスピーチも行われ、4名の生徒が授業での取り組みをテーマに発表を行いました。
 
京都外国語大学教授 ジェフ バーグランド先生を講師にお招きした記念講演では、英語と日本語のコミュニケーションの違いや英語の学習に大切な“ながら英語学習法”についてご紹介いただきました。会場も巻き込んだ分かりやすくユーモア溢れるお話に、参加者は笑顔で聞き入っていました。
 
【表彰結果】
◆暗唱の部A 幼稚園・保育園(年少)~幼稚園・保育園(年長)
金賞 植本 一翠 さん(年長)
銀賞 田中 美良 さん(年長)
 
◆暗唱の部B 小学校(1年生)~小学校(4年生)
金賞 藤野 優衣 さん(小3)
銀賞 小薮 結愛 さん(小4)
 
◆暗唱の部C 小学校(5年生)~中学校(2年生)
金賞 中野 まり珠 さん(小5)
銀賞 山田 悠綺 さん(小6)
 
◆わかさ生活賞
椿 心結希 さん(年中)
 
◆京都銀行賞
田中 佐蘭 さん(小2)
 
◆ECC賞
寺田 菜那 さん(中1)
 
◆リアリーイングリッシュ賞
堀部 菜々美 さん(中1)
 

 

 

無明長夜(むみょうじょうや)の燈炬(とうこ)なり智眼(ちげん)くらしとかなしむな

2018.10.02

お釈迦さまが亡くなられて後、仏法はそのありさまから、法(教え)・行(修業・実践)・証(悟り)が満たされている正法の時代、教えと行はあるが証のない像法の時代を経て、教えだけがあり行も証もすたれた末法の時代になり一万年続くと考えられました。日本では、永承七年(1052)が末法元年といわれ末法の時代に入ったとされています。謂わば救いのない、暗闇の世界の到来と信じられました。その頃の日本は、現実にも各地で戦があり、さらには大地震や冷夏など自然災害が起こり、飢饉が頻発,伝染病が流行、人々の生活は悲惨な状態にあり、出口の見えない暗闇の世界で、まさに末法の世を実感させられる時代でした。

こうした中、親鸞聖人は人々の救われる道を求めて修業の日々を送られました。そして、末法の世でも衆生を救ってくださる阿弥陀仏の本願を信じて、念仏することのほかに救われる道はないという法然上人の教えに遇われたのです。親鸞聖人は、この時の自らの求道の変化を「雑行を棄てて本願に帰す」と述べ、以降、本願念仏の行者として生き、獲得した念仏を広め、その教えを多くの著書や和讃として後世の人々に遺されました。

今月の言葉は、親鸞聖人が、行も証すたれた末法の時代に衆生を漏らさず救ってくださる阿弥陀如来の本願を讃え詠まれた『正像末和讃』の一説です。この和讃は「いつ明けるかもわからないほどの長い無明の闇の中にも、私たちを照らし包んでくださっている大きな灯火(阿弥陀仏の本願) があります。だから、自分は聡明な智恵の眼がなく、悩み、苦しみ、迷いから逃れることができないと、悲しまなくてもいいのです。」と詠んでおられるのです。

今を生きる私たち、この和讃の意(こころ)を尋ね、阿弥陀仏の本願につつまれて生きる自らの生き方を見つめていきたいものです。(宗教部)

「悪口」

2018.09.10

職場でもプライベートの場でも悪口をいう人が必ずいます。おそらく自分に自信がなく、不満を抱えやすい人なのかもしれません。口を開けば悪口ばかりいう人とその一方で悪口を言わない人もいます。そこで、今月は「お釈迦様と悪口男」というお話を紹介させていただきます。

あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい。」男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせる為の作戦を練っていました。
ある日、その男はお釈迦様が毎日、同じ道のりを散歩に出かけていることを知りました。
そこで、男は散歩のルートで待ち伏せをして、群衆の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。「釈迦の野郎、きっと俺に悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない。」そして、その日が来ました。男はお釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。弟子たちは悔しい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様に尋ねました。それでも、お釈迦様は、ひと言も言い返すことなく、黙って、その男の悪態を聞いていました。男は一方的に、お釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。どんな悪口を言っても、お釈迦様がひと言も言い返さないので、男はなんだか虚しくなってしまったのです。その様子を見て、お釈迦様は、「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は、一体誰のものだろうか。」こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら、贈ろうとした者のものだろう。分かりきったことを聞くな。」男はそう答えてからすぐに、「あっ!」と気付きました。お釈迦様は静かにこう続けられました。「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを、少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことは、すべて、あなたが受け取ることになるんだよ。」(出典:変わりたいあなたへの33のものがたり)

お釈迦様は、固くて強いこころで相手の悪口をすべて聞き、心で受け止めながらも言葉では言い返されませんでしたが、こころで相手にメッセージを送られました。私たちも自分自身のこころを強く持つ努力が必要です。同時に「他人は自分を写す鏡」という言葉がありますが、他人の言動を見て思うことは、自分が他人にそのように見られているということです。つまりは、他人の言動で自身の反省点を気付かせてくれたことに感謝することが大切なのではないでしょうか。(宗教部)

「とも同朋」

2018.08.03

親鸞聖人の言葉に「同朋・同行」があります。同朋とは阿弥陀如来の本願を信じて浄土往生を願う人々のことであり、同行とはその本願をともに聴き、その教えを生活の拠りどころとして生きるということです。この「同朋・同行」とは、真宗の教えに帰依し、その教えを拠り所としている人々のことを指しているのではなく、生きとし生けるもの全ては阿弥陀如来のはたらき(他力)によってひとしく平等に救われる身であり、これこそが自然のはからいである。このはからいに目覚めていきましょうという呼びかけではないでしょうか。今月はこの「同朋・同行」について考えたいと思います。
有名な『歎異抄』の第6条に、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉があります。これは「門徒を自分の弟子と思えばいいか、それとも如来・聖人のお弟子と申すべきか」という質問に対して答えられた一文で、親鸞聖人の「全ての人々は阿弥陀如来のはたらき(他力)によって平等に救われる身を歩んでいるのであり、そこに師弟という関係は存在しません。自分が皆さんを救うことができるのであれば師ということになるでしょうが、皆さんが救われるのは阿弥陀如来のはたらきによって自ずと定まっているものであり、私の力ではありません。私たちは、そのはたらきに目覚め生きている同朋です」という思いが込められています。
また、親鸞聖人の御消息の第5通に、「としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにても候わめとこそおぼえ候え」という一文があります。現代語に訳しますと「数年来、弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、友達や同じ念仏の法につらなる朋友ともまごころをもって互いに親しむようになること、これこそが本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないでしょうか」ということになると思います。ここには、「友達や仏教の教えである念仏の法につらなる朋友同士であっても、人と人がつながると、そのつながり・関係が苦しくなりストレスを抱えることもあるでしょう。その時は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のこと、即ち、私たちは同朋であると気づいていなかった昔を振り返り、皆がこの厳しい世の中を互いに助け合い、励まし支え合いながら他力を光として生きていきましょう」という親鸞聖人の励ましを感じます。
近年、組織や団体内でのさまざまなトラブルが起こり、社会問題となっています。また、会社や地域、さらには家庭内での人間関係に疲れ、ストレスを抱える人々も増えています。こうした時代にこそ、「一人ひとりは「とも同朋」であるということに目覚め、相互に敬いながら生きていきましょう」という親鸞聖人のお示しくださった考えを大切にする必要があるのではないでしょうか。(宗教部)

「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(愚禿鈔)

2018.07.03

この言葉は、親鸞聖人が著した『愚禿鈔』(真宗聖典p423)の言葉で、「私の心は、外見では賢く振舞っているが、その中身は煩悩にまみれ、愚かである」という意味です。

親鸞聖人は自らを煩悩だらけの愚かな凡夫として「愚禿釈親鸞」と名乗りました。愚は愚者の自覚、禿は破戒僧(戒律を破った僧侶)、釈は釈尊の弟子を表し、愚かな僧侶であるからこそ釈尊の弟子でいられることを表しています。
親鸞聖人は仏教を学んでいく中で、自分が自分のことをいかに分かっていなかったかということを知り、自分の愚かさに気づいていきました。

私たちは、つい自分を良く見せようと、本当の自分を隠して、理想の姿を装ってしまうことはないでしょうか。そうしているうちに、偽ることに疲れてしまったり、時には本来の姿を隠している自分に嫌気がさしてしまうこともあるでしょう。

「今を生きることに目を背けないで 決してきれいなことばかりじゃないだろう」(本学テーマソング)

生きていると、楽しいことばかりではありません。悩み、苦しみ、ときには辛く悲しいときもあります。人間関係がうまくいかず、誰かに腹を立てたり、そねみ妬むこともあるでしょう。しかし、そんな自分を隠して、誤魔化してばかりいると、本当の自分の姿がわからなくなり、自分を見失ってしまいそうになります。偽った自分を見逃さず、しっかりと見つめてほしいのです。

「ゆっくりでいいよ、でもあきらめないで、決して自分を嫌いにならないで」(本学テーマソング)

自分自信を見つめるということは、自分を悪く評価するということではありません。自己と向き合う中で自分の弱さや傲慢さに気づき、落ち込んだり、反省したり、苛立ちを覚えることもあるでしょう。しかし、決して自分を嫌いにならないでください。ありのままの自分を知り、それを受け止めていく。そうやって自分自身と丁寧に向き合い続けていくことが大切なのです。

親鸞聖人のこの言葉は誤魔化し続けて本当の自分がわからなくなっている私たちに、一人ひとりの生き方が問われているのではないでしょうか。(宗教部)

「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」(善導)

2018.06.04

 自宅には少なくとも1つは鏡があるのではないでしょうか。私たちは、出かける前にはどんなに急いでいても1度は鏡の前に立ってみないと不安なことはありますね。これから人前へ出るのですから、まず服装は?髪型は?お化粧は?というように1度鏡を見て確認しなければ安心はできないものです。鏡も見ずにさっと家を出ることができる人はよっぽど自分の容姿に自信があるのかもしれません。私は完璧。いつも大丈夫。しかし、この大丈夫という言葉が一番危ないのではないかと思います。鏡は外面の姿を映し出すものとして使われます。
 しかし、残念ながらいくら高価な鏡でも自分の心を映し出すことはできないのです。鏡を見て身だしなみは整えますが、自分の心を見ることがあるのでしょうか。自分の心は見えませんし、実はありのままの自分の心は見たくないものです。

 今月の言葉は、中国の僧である善導が『観経疏』の中で「お経は鏡のようである。」と記されています。つまり、お経の教えは自分の心を映し出す鏡であると・・・。お経とはお釈迦様が私たちに説いて下さった真実の教え、いうなれば、現代の私たち対してのメッセージです。
 お経という鏡は、普段は上手に隠している、本心とか本性というのがあぶり出されてきます。。。自分が見たり聞いたりしたものは絶対に間違いないという、根拠のない自信で自分は決して間違わない、間違っていないと思って暮らしているのが私たちです。すると一生、相手を責めることで終わってしまいます。自分のことには気がつくことがないのです。ですから、私たちは、他人のことはよく見えるのですが、自分のことはなかなか見えません。だから、私たちには生活の中に教えという「鏡」が必要なのです。
鏡を見るときには自分の都合の良い面しか見ません。あるいは、人から良く見えるように体裁をしっかり整えます。そのような見方で鏡(経)を見て、映った自分の姿を見ても、私の本当の姿は見えて来ないのです。鏡は、私の姿を映し出すと共に、私を照らし出してもくれます。「鏡」の喩えは、光に照らされている私であるということを表現されているわけです。

私たちが自分をしっかりと見ようとする時には、見るための鏡が必要であることを確かめましたが、お釈迦様によって明らかにされた教えが、私たちの内面を見る鏡となるのです。その鏡で自分をしっかりと見て大事な教えとして次の世代に伝え、またその喜びをさまざまに表現することが3500年もの間、脈々と続き、現在に至っているのです。
経は自らを映し出す鏡であり、私たちの心の暗闇を照らす鏡である。その教えを通して日々の生活の中でしっかり振り返り、自分を見つめことが大切なことではないのでしょうか。

「第二の誕生」

2018.05.07

昔、ある青年がいた。小さいときに父親を病気で亡くしてから、母親が反物の行商をして彼を育ててきた。
大学4年生になったとき、彼はとても有名な会社の就職試験を受験して、難関を突破し一次試験に合格した。そして二次試験の面接で、彼は社長さんからこんなことを言われた。
「君はお父さんを早く亡くして、母一人子一人だね」
「はい、そうです」
「それじゃね、今日帰ったら、お母さんの体をどこでもいいから洗ってあげなさい。明日続きをしよう」
青年はぶつぶつ文句を言いながら家に帰った。だが、落ち着いて考えてみると、やはりどうしてもあの会社には入りたい。 そうや、おふくろは毎日、反物の行商をして歩いているんやから、足が汚れているだろう。足なら簡単に洗えばすむ。
「お母さん、お帰りなさい。実は今日会社の面接に行ったら、変な社長がお母さんの身体を洗わんと面接のつづきをせんと言うんや。だから済まんけどお母さん、洗わせてくれ」
「そう、それじゃ、しょうがないわね」
青年は母親の足を洗おうと思って、何気なく母親の足をにぎった。しかし、それから彼は化石したように動けなくなった。
彼がにぎった母親の足は、真っ黒に汚れた、石のように硬いごつごつした足だった。その母親の足を握ったとき、その青年の胸に何とも言いようのない熱いものがこみあげてきた。
父親が亡くなってから、どんな思いで、彼のことを育ててきたのか、今まで愚痴一つ言わなかった母の、真っ黒な、石のような足が、すべてを物語っていた・・ついに青年は耐えきれなくなって、お母さんの足を握ったまま、男泣きに泣きつくした。
青年は翌日、会社に行って社長にこう言った。
「社長さん、私は今までだれ一人からも、親の恩ということを教わりませんでした。社長さんにはじめて親の恩ということをわからせていただきました。そして私は今まで、自分の力だけで生きていると思っていましたが、母や、私の周りの大きな力に支えられ、生かされているのだということがよくわかりました。
私はこの会社に採用されてもされなくても結構です。でも生涯、母親を大事にしていきたいです。そして、自分も人のために生きられるような人間になりたいと思います」
人間には一生の間、二回の誕生がある。一回目はお母さんのお腹から生まれる、生き物としての誕生。
そしてもう一回は、親の恩を通じて、さらに大きないのちに目覚めていくとこと、それこそが「第二の誕生」である。
(竹下哲『いのちに目覚める』東本願寺伝道ブックス22より)

「学園花まつり」を開催しました

2018.04.20

4月19日(木)、本学園において幼稚園から大学・大学院までの全設置校の在籍者が一堂に会する「学園花まつり」を行いました。
 
この行事は、仏教をお開きになったお釈迦さまの誕生日を祝う会であり、お釈迦さまが深く問われた、「人生をいかに生きていくか」、「本当に歩むべき道は何か」を園児~学生はもとより教職員を含めて、今一度自分自身を見つめなおす機会として、本学園の創立当時から続けている大切な行事です。
 
本学園では、小学生マーチングバンド、中高吹奏楽部、大短吹奏楽部、中高バトントワラー部による演奏パレードや、小学生が引く白像の行進、中高軽音楽部や中学校3年生による讃歌を取り入れた音楽法要的な内容で行ないました。また、真宗大谷派僧侶でアナウンサーの川村妙慶先生の法話では、どんな状況にあっても周囲の方や自身の尊い命を大切にしてほしい、とお話いただきました。

 

当日は、中学・高校正面玄関にお釈迦さまの誕生仏をおまつりし、在校生や来校された方々に自由に甘茶を灌仏していただけるようにして、学園全体でお釈迦さまのご誕生をお祝いいたしました。
 
【各校園「学園花まつり」の様子はこちら】
大学/短期大学部
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