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不邪淫(ふじゃいん)「五戒」

2006.08.18

仏教徒であることの証しは、「五戒」と呼ばれる五つの戒めを守ることです。その第三が「不邪淫戒」です。とくにこの戒は、在家の仏教徒に向けて発せられています。
「邪淫」とは、夫婦以外の者と肉体関係を持つこと、もしくはそれに至るおそれがあるような行為全般を指します。仏教のみならず世界宗教の多くは、在家者に対しては一夫一婦制を掲げて、生涯の伴侶との結婚生活を求めます。キリスト教社会ではさらに徹底して、人間を動物の上位に位置付け、その証しとしての結婚を神に誓うべき秘蹟(ひせき)(※)としたのです。
仏教では、性欲に支配されることは貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)といわれる「三毒の煩悩」の中、正しいものの見方を妨げる、もっとも強大な煩悩であると考えました。
この戒は出家者には適応されず、「梵(ぼん) 行(ぎょう)戒 (かい)」を設けて、邪淫はもちろんのこと性欲そのものを抱くことが禁じられています。煩悩の異名である「繋縛けばく(心を繋ぎ止め縛られること)」によって、深い迷いの状態に陥るからです。(太)

(※)秘蹟(秘跡):キリスト教において神と人間とを仲介し、神の恵みを人間に与える儀式のこと

不偸盗(ふちゅうとう)「五戒」

2006.07.18

在家・出家を問わず、仏教徒であることの証しは、「五戒」と呼ばれる五つの戒めを守ることです。その第二が「不偸盗戒」です。
「偸盗」すなわち他人の財産を盗むことは、殺生・邪淫とともに人間の身に備わった根本的悪業の一つに数えられます。他宗教においても、人間が身に備えるべき基本的倫理として、「盗むなかれ」と諭(さと)されますが、仏教においては道徳を越えて、貪欲(とんよく)や瞋恚(しんに)という真実に対する叛逆の結果としての「盗み」を糾(ただ)すのです。
誤った相対的対立の娑婆の実相を、仏教者たちは盗みという行為に集約的に見ました。それは他でもない空虚な心を埋め合わせるためには、物質的補充は何ら意味をなさないという、卓見(たっけん)に基づいているのです。(太)

不殺生(ふせっしょう)「五戒」

2006.06.18

仏の教えに自発的に帰依することを表明した者を、「仏教徒」と称します。その者に求められるのは、仏・法・僧の「三宝(さんぼう)」に帰依し、「五戒」と呼ばれる五つの戒めを守ることです。「戒」には本来、悪い行いをしない「誓い」の意味があります。
五戒は在家の仏教信者の証(あか)しであり、仏教徒としての必要最小限の生活規範といえます。その第一が「不殺生」です。仏教徒である限り、生あるものの生命を殺害することは禁じられています。
仏とは、生きとし生けるものすべてに掛けられている無条件の大きな願いそのもののことであり、同質のいのちを等しく有する我々が、それを傷付け合うということは、仏の願いに根本的に背くことになるからです。(太)

正定(しょうじょう)「八正道」

2006.05.18

仏陀が悟りの内容としてお示しになった四つの真理(四聖諦(ししょうたい))のなか、心を集中するための修道方法として挙げられた「八正道(はっしょうどう)」の最後が、「正定」です。
身口意(しんくい)の三業を、正業・正語・正命の徳目として示された一々の戒を身に付けることによって調整すれば、おのずと健全な肉体と精神が得られます。その結果、至り着く正しい精神統一の状態のことを、正定と呼ばれるのです。
仏教の基本的な修道法は、まず戒によって身を修め、それによって物質的欲望を超越した正しい精神統一を獲得して、仏陀の悟りの内容である「無常・苦・無我」の智慧に至り着くというものです。この過程を、「戒・定・慧の三学(さんがく)」といいます。ただ三学は、直線的段階的なプロセスを指すのではなく、三者がつねに相即不離の関係にあると見るべきです。心身の調御と高度の精神統一によって、正しい智慧が身に備わるのです。(太)

正念(しょうねん)「八正道」

2006.04.18

正念とは、邪念を払い常に仏道を心に思いとどめることを意味します。
「念」の原語であるパーリ語の「サティ」という言葉には、「心の中で思うこと」、「過去を追念すること」、「専念」といった意味があり、一般的にいって「正念」とは正しい気づかい、注意、思慮を指すことになります。
大乗仏教になるとさらに、仏が衆生を救済しようとする真実の思いに心をめぐらすという意味が発生し、真実をあらわす姿である仏を念ずることが「正念」であるとされるようになります。
すなわち常に仏を念じて、間違いなく浄土に往生すると信ずる心そのものを、「正念」と呼ぶのです。(太)

正精進(しょうしょうじん)「八正道」

2006.03.18

「精進」とは、我々の日常生活でも用いられる馴染(なじ)みのある言葉です。物事に精魂を込めて、ひたすら進むことを意味します。これが仏教の世界では、出家をして欲望に惑わされない宗教的な生活そのものを意味するようにもなり、ついには肉食(にくじき)をしないことも「精進」と呼ぶようになりました。肉食は欲望を増大させるだけで なく「殺生」につながるので、悪を遠ざけ善に近付く「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の修行のために、ひたすら精進するのです。
しかし親鸞聖人は、凡夫こそが仏の救済の対象であるという自覚に立って、凡夫のままの肉食妻帯(にくじきさいたい)生活を実践されました。真実の経典と仰がれた『大無量寿経』には、「和顔愛語(わげんあいご)」の言葉とともに「勇猛精進語(ゆみょうしょうじん)>にして志願倦(う)むことなし」の語があって、ここでは「精進」の語は一切の衆生を救うという仏の誓願成就に向けての固い決意を物語っています。これこそが「正精進」といえるでしょう。(太)

正命(しょうみょう)「八正道」

2006.02.18

八正道でいう「命」とはサンスクリット語の「アージーヴァ」の訳語であり、「ジーヴァ」には「寿命」とか「生命力」という意味があります。すなわち「正命」とは、与えられた命に正しく立ち向かうことであり、それはまた正しい生活態度のことを指すのです。
生活の基本は衣・食・住ですから、それを正しくすることが正命であるということになります。では正しい衣・食・住とは、どのような生活態度を指すのでしょうか。それは、仏陀の示された「諸行無常」「諸法無我」という縁起の理法に叶った生活をすることにほかなりません。諸法は滅壊(必ず滅びる)の法であることを身に刻んで、与えられた衣食住を無駄にすることなく、かといってそれらの事物に執着することもなく、賜った自らの寿命を精一杯この世で生かし切ることが、正命の本旨と言えるでしょう。(太)

正業(しょうごう)八正道」

2006.01.18

「業」とはサンスクリット語の「カルマ」の訳語であり、インドの全宗教・哲学において、きわめて重要視されてきた概念です。「行為」そのものを指し、広くは心で思い、口に発し、身体で行うという、三つの領域を含みます。従来、「身(しん)・口(く)・意(い)の三業」と呼び習わされてきました。
「八正道(はっしょうどう)」の中では、ことに身業に関して単に「業」と捉えられ、身体的行為を正しくすることが「正業」と呼ばれます。それはまた、仏陀が説かれた世俗の人々の守るべき十の戒め(十善戒)の中、殺生を行うなかれ(不殺生)、盗むなかれ(不偸盗)、男女の道を乱すなかれ(不邪淫)という三つの徳目を実践することを意味します。身体的行為のなかで、これら三つが人間を苦に誘う最大の要因と考えられたからです。
新年を迎え、身を慎むことの大切さを、改めて胸に刻みたいものです。(太)

正語(しょうご)

2005.12.18

仏教は人間の行為を「 身(しん)・ 口(く)・ 意(い)の三 業(ごう)」に分類します。「口業」すなわち言語行為を 糾(ただ)す修道法が、「 八正道(はっしょうどう)」の三番目の「正語」です。「正語」とは、正しい言葉を語ることです。
仏陀が説かれた世俗の人々の守るべき十の戒め(十善戒)のうち、実に四つまでが言語行為に関わるものです。偽りを言うなかれ(不妄語)、ふざけたことばを言うなかれ( 不綺語(ふきご))、悪口を言うなかれ(不悪口)、仲たがいさせるようなことを言うなかれ( 不両舌(ふりょうぜつ))を実践することが、正語ということになるでしょう。
正しく語るためには、正しく聞くということが大前提になります。古来、仏道は「 聞法(もんぽう)」にはじまると言われてきましたが、真実を語る仏法に生き方を聞くとき、はじめて他に正しく語りかけることもまた、出来るのです。(太)

正思(しょうし)「八正道」

2005.11.18

仏教の基本的な修道法である「 八正道(はっしょうどう)」の二番目が「正思」です。「 正思惟(しゆい)」ともいわれるこの修道法は、正しく思惟すること、よく考えることを意味します。
八正道すべてに共通の「正」の語が意味するところは、有か無か、善か悪か、苦か楽か、といった極端な考えに 偏(かたよ)ることなく、現に今この身を取り巻いている諸般の状況を冷静に見聞きし知って、適切な判断を下すことを言います。仏教の基本的な立場としての「中道」の思想がここにも息づいています。
そのような公正な智慧に基づく思考法を、仏教は「正思」と位置づけるのです。(太)