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正見(しょうけん)「八正道」

2005.10.18

仏陀が悟りの内容としてお示しになった四つの真理( 四聖諦(ししょうたい))のなか、私にとっての一切の苦を滅し、無常・無我の境地に至るための道程として示されたのが、「 苦滅道諦(くめつどうたい)」です。すなわち心を集中するための修道方法のことで、「 八正道(はっしょうどう)」がそれに当たります。
八正道の第一に「正見」が説かれ、それだけで苦滅道諦を代表する修道法でもあります。「正」とは「正しい」ということです。それはこの世の秩序を守るために 拵(こしら)えられた既成の価値のことではなく、今・ここで起きていることに、利害や打算を抜きにして、「ありのまま」に接するということです。そして「ありのままに見る」ことを通して、私たちの正しい見解つまり「今、自分は何をどうすればよいのか」という方向を与えられるのです。(太)

中道(ちゅうどう)

2005.09.18

もっとも古い時代に成立したパーリ語三蔵経典によれば、仏陀が悟りを開きその内容を同行の五人の修行者に初めて説き示したのが、「中道」という説であったと言われています。
それまでの仏陀の生涯は、時に歓楽に溺れ、その反動から身に苦行を強いて解脱を希求するという、極端なものでした。生死を賭した最後の瞑想の中で仏陀に生じたのは、苦行と快楽の二つからは、正しい悟りを得ることはできず、両極単に偏することなく中正の道を歩むことが、真実の智慧に至り着く唯一の道程であるとするものでした。
常・断の二見や有・無の二辺に依る限り、我々は対立や苦悩から離れることはできません。 貪欲(とんよく)(利害の対立)・ 瞋恚(しんに)(自尊心の相剋)・ 愚痴(ぐち)(真実を知らない愚かしさ)に代表される無明の煩悩とは、中道に反するすべて幻想としての対立・差別の構図を指摘したものです。(太)

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) 「四法印」

2005.08.18

本来、無常にして無我であるというこの世の理法を 体解(たいげ)するには、決して一般化をすることを許さない、まさしく個別の不安や苦悩と向き合い、その不安や苦悩を抱くことそのものが永遠の理法への反逆であるという自己否定によってのみ、到達することができるのです。そのために八万四千通りに展開されたといわれる仏教の教法の中から、我々個々の 機根(きこん)や状況に合致したものを、道しるべとして選び取るのです。
「四法印」と呼ばれる仏教の標語の最後は、そのような道程を経て得えられた、苦すなわち自我の滅却の境地を示しています。
サンスクリット語の「ニルバーナ」に起因する「涅槃」の語は、一切の煩悩の炎が吹き消された状態を意味します。生まれたら必ず死ぬという根源的な不安や苦悩を超越してみれば、そこにはただただ調和安定した「バラバラでいっしょ」とでも表現すべき「 生死一如(しょうじいちにょ)」「 自他一如(じたいちにょ)」の世界が開けます。
「涅槃寂静」なる境地を求めて、共に歩みを進めることが、仏教の本旨であります。(太)

一切皆苦(いっさいかいく) 「四法印」

2005.07.18

仏陀が発見されたこの世の理法とは、「一切は無常であり無我である」という、 厳然(げんぜん)とした事実そのものでした。この理法を日常の生活の原理として我々が生きるならば、そこに 貪欲(とんよく)や 瞋恚(しんに)や 愚痴(ぐち)といった煩悩は、生じないはずです。
しかし現に自らの一生を見渡す時、やがて老いたり病んだり死んだりすることに対して、心穏やかな者は一人もいないことも、また事実です。むしろ老病死の苦を 隠蔽(いんぺい)して、刹那の日々を享楽的に過ごしているのが、我々の実際だと言えます。
老少不定(ろうしょうふじょう)と言われる各人の死期に直面した時、初めて我々は生きていることの意味を 真摯(しんし)に考えざるを得ないと言えるでしょう。
ゆえに仏陀は「一切はみな苦である」と感じ取る、個別の苦を介してしか真実の理法には出会い得ないということを、第三番目の真理として掲げられるのです。(太)

諸法無我(しょほうむが) 「四法印」

2005.06.18

ここで説かれる「諸法」とは、一切の事物のことを意味します。すべての事物は、たとえば諸行無常(すべては変化する)と言われるような「法則」に支配されているから「諸法」なのです。
そういうこの世の理法に沿ってある事物に対して、我々の我欲は常に自分に都合の良いように、時にどこまでも変化しないことを求め、また時にすぐさま排除することを求めて、 止(とど)まることがありません。
仏陀は一切の事物が永遠であるのかないのか、唯一絶対であるのかないのか、そういうことに執着するあまり、正しい生き方を踏み誤って、自らに 賜(たまわ)りものの一生を 虚(むな)しく過ごすことのないよう、「一切の事物は永遠不滅の実体ではない」ということをここに説かれるのです。(太)

諸行無常(しょぎょうむじょう) 「四法印」

2005.05.18

仏陀が菩提樹の下で悟られた内容には、ふたつの側面があります。
ひとつは一切が無常であり、苦であり、無我であるという、この世の 理(ことわり)を発見されたことです。いまひとつは、その理を受け入れないために「生死の苦」すなわち生まれたら必ず死ぬという悲哀に沈む人間が、苦を脱却する方法としての「 四諦八聖道(したいはっしょうどう)」を説かれたことです。
「諸行無常」とは、「あらゆるものは変化する」という当然の理法のことを指します。むしろこの世の一切は、いろいろな要素の集合体として仮に 和合(わごう)しているだけであって、その縁がなくなれば再び分散して元の形はなくなってしまうのです。
なのに、この理法に無知なため、いたずらに目先の出来事や人間関係にこだわって正しく物事を見る目を失い、苦しみの一生を過ごしてしまう人間のなんと多いことでしょう。(太)

みずから僧に帰依したてまつる 「三帰依文」

2005.04.18

仏の教えに自発的に帰依することを表明した者を、「仏教徒」と称します。
仏教徒としての三番目の証が、「僧」に帰依するということであります。
「僧」とは、仏陀の教えすなわち「法」を信奉する集団のことで、「サンガ」と称します。仏陀を取り巻く五人の修行者が、悟りを開いた仏陀の教えに触れて深く帰依したのが、その始まりです。以後、僧団の規範である戒律を順次授けられて、今日まで仏教が伝承されてきたのです。それ故に仏教徒は、僧団に対して絶対の信頼を置くのです。
親鸞聖人は自らの悪性を深く見据えられて、「 愚禿(ぐとく)」と名告られました。それは「僧侶に列せられる自分ではない」という自省に依っています。
今日、仏教を標榜する僧団の構成員は、自らの仏性に深く目覚めて、「自信教人信」を道しるべとして、衆生を導いてもらいたいものです。(太)

みずから法に帰依したてまつる 「三帰依文」

2005.03.18

仏の教えに自発的に帰依することを表明した者を、「仏教徒」と称します。
仏教徒としての二番目の証(あかし)が、「法」に帰依するということであります。
「法」とは、二千五百年前のインドに実在された仏陀が発見された、この世の理法のことです。具体的には「諸行無常 諸法無我 一切皆苦」という普遍的なこの世の原理を指し、それをさまざまな事象に展開して説明したのが、仏教の経典であります。それゆえ、仏教経典は「法蔵」すなわち「教えの蔵」と呼ばれるのです。
この仏教の教えに帰依することによって、 涅槃(ねはん) 寂静(じゃくじょう)なる安楽の世界に到り着くことができるのです。(太)

みずから仏に帰依したてまつる 「三帰依文」

2005.02.18

仏の教えに自発的に帰依することを表明した者を、「仏教徒」と称します。宗派や国情を問わず、世界中の仏教徒たちに共通の条項として、仏と法と僧に帰依することが求められます。
「帰依」とは「絶対 信順(しんじゅん)」のことであり、「仏に帰依する」とは、自らのいのちの 拠(よ)る 辺(べ)を仏そのものに 委(ゆだ)ねるということです。いのちの根源に仏を見出す人々を、仏教徒と呼ぶのです。
仏とは、永遠の過去、無限の彼方から、この私一人を生かそう生かそうとしている、無条件の大きな願いそのものなのです。(太)

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) 「四弘誓願」

2005.01.18

我々と一緒に仏道を歩むことを宣言された菩薩たちが、人間に約束された最後の誓願が、「必ずや一人残らず仏に成らしめる」という、成仏の保証であります。
人はいったんこの世に生を 享(う)ければ、必ず死ぬというのが、仏教の説く普遍的真理です。人間のみならず、生きとし生けるものはすべて、誰一人としてこの法則にもれるものはないのです。そしてこの世の生が尽きれば、安養の浄土といわれる、もはや二度と死の恐怖にさらされることのない、無上の世界に生まれることもまた、我々には約束されているのです。
いま、我々一人一人が、この菩薩の誓願に応え、主体的に生きる自信を回復して、虚心にこの世を生き切りたいものです。(太)