11月28日は親鸞聖人のご命日ですが、真宗の寺院ではこの時期に、念仏の教えを私たちにお伝えくださった親鸞聖人への報恩感謝と、その教えを聞くご縁の場として報恩講という法要をお勤めします。報恩講では、親鸞聖人が真宗の教えを簡潔にわかりやすくまとめられた正信偈と、仏さまや大切にされている高僧(七高僧)の教えを優しい言葉で皆が一緒に唱えられるようにお作りになった和讃をお勤めします。ちなみに、本学園の式典や宗教行事でよく歌う恩徳讃も報恩講の時にお勤めする和讃にある一文です。
今月のことばは、報恩講の時にお勤めする和讃の中にある「義なきを義とすと信知せり」です。
聖道門のひとはみな 自力の信をむねとして
他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり (『正像末和讃』第五十四首目)
「自分の力で行を積み悟りをひらこうとする方は、自らをたのみ自分を拠りどころとしているが、阿弥陀如来の不思議なはたらきに帰依すれば、すべては自分のはからい(義)ではなく、阿弥陀如来(他力)のはからいによることなのだと頷くことができますよ」
親鸞聖人はこの「義なきを義とす」ということをお手紙などでも何度も書かれており、とても大切にされています。有名な歎異抄の第十章にも「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とあり、その著者といわれる唯円も、このことが親鸞聖人の教えの重要な部分であると受け取っておられることを感じることができます。「南無阿弥陀仏という念仏は他力である。それは言い表すことも説明することも想像することもできない、そういうものなのだから」という親鸞聖人の言葉からは、他力をいかに勧めたらよいのかということに苦心された聖人の思いが伝わってきます。
私は最近、親鸞聖人がさまざまなお手紙や書きものに繰り返し「義なきを義とす」という言葉を書かれた意味を、善悪に囚われ善行を積んで良い結果を得ようとする自力の私たち(廃悪修善)に対し、「煩悩から逃れられない凡夫である私たちにはそれこそが難しく、できないことですよ、だからそんな私たちを救うと誓って仏になられたと、経典に書かれている阿弥陀如来のはたらき(他力)、これは言い表すことも説明することも想像することもできないものですが、このお力にお任せするしかないと信じているのです、そして私も法然上人との出会いによってそのことに頷かせていただいたのです」ということをお伝えされたかったのではないかと思うようになってきました。そう思うようになってはじめて真宗大谷派の僧侶であり、大谷大学の初代学長の清沢満之先生が語られた「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉を、「ありのままの自分を受け入れ、そんな自分を導いてくださる大きなはからいに任せ最善を尽くそう」という生き方のアドバイスとして受け取ることができるようになりました。これが正しい理解なのかどうかはわかりません。私も親鸞聖人と同様に、さまざまな人との出会いや体験のなかでそのことを確かめていければと思っています。何年か後にまたその報告を「今月のことば」のなかで書ければと思っています。
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