光華女子学園

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「愚か者よ!」(中部第63経「小マールンキャ経」)

「小マールンキャ経」は、いわゆる「無記」(形而上学的な問題に判断を示さないという釈尊の態度)と「毒矢のたとえ」を説くことで、よく知られた経典です。

「愚か者よ、お前は、いま何者としてここにいて、誰を拒んでいるのか」(片山一良『中部』第3巻p. 225)と続きます。

釈尊の弟子マールンキャプッタはふと、この世界はどのようになっているのか、人は死後どうなるのかといった問いにとらわれ、その答えを釈尊に示してもらわなければ、修行が続けられないという心境に陥ります。そして、その思いを釈尊にぶつけに行きました。マールンキャプッタの問いを受けた釈尊は、彼の問いを繰り返し確かめた後に上述の応答をします。

マールンキャプッタは苦しみからの解放を求めて、釈尊のもとで学び、修行をしていました。つまり、大きな、そして重大な目標があり、そこに向かう道も示されているにもかかわらず、彼は、釈尊によって説き示されていないことが何か重要なことのように思えて、取り組んでいた修行を後回しにして、さらには、釈尊から答えが示されない限りは修行そのものをやめてしまおうとさえ思っていたのです。

わたしたちは、このマールンキャプッタのように、しばしば自分が向き合うべき大事な課題を後回しにして、他の問題にとらわれたり、事柄と感情をごちゃごちゃにして物事をいたずらに複雑にしたりしています。釈尊が「愚か者よ」と叱責して、「お前はいま何者としてここにいるのだ」と問うのは、目的を見失い、そのことに気づいてさえいない自分自身のあり方を振り返らせるものだといえます。

こうして、無記の後には「毒矢のたとえ」と四聖諦が説き示されます。毒矢に射られた者に必要なのは、その矢を誰が射たかでもなく、その矢や弓の形状でもなく、まずその矢を引き抜くことです。すなわち、それが、釈尊によって示された、苦しみを乗り越えるという大事な課題に取り組むには、自分の現実を確かめ、自分自身をみつめていくしか道がない、ということを意味する四聖諦です。

慌ただしい日常の中にあって、大事な目的を見失うことなく、やるべきことにコツコツと取り組む一年でありたいものです。(宗教部)

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