他人を思いやり、感謝し、自己を反省できる人
お釈迦様の出家の動機となったとされる有名なエピソードに、四門出遊があります。若きシッダールタ(出家前のお釈迦様‐カピラ城の王子)が、お城の東門から出て老人に会われ、南門から出て病人に会われ、西門から出て葬儀に会われ、悩める心を抱きながら北門から出た時に出家者に出会われ、心を強くひきつけられたというものです。すなわち私たちは、必ず年老いていきます、また、必ず病気にもなります、そしていつかは必ず死にます。つまり、「老いるべき若さ」「病むべき健康」「死すべき生」をもって生きているのです。ですが我々はこの「老いるべき若さ」「病むべき健康」「死すべき生」という事実を容易に受け入れることができません。いつかは死ぬことは当然なのに「自分は死にたくない」とその事実から目をそらしてしまいます。
つまり、死に対して嫌だという自己の「我」をはり、その「我」に執着し思い悩んでいる存在。
それが私たち人間ではないでしょうか。
ではこの「我」は無くすことができるのでしょうか、それともなくならないのでしょうか。
親鸞聖人は、私たちは「我」を消滅させることはできないが、瞬間的に「我」を折ることは
できると考えておられます。これはすなわち、「死すべき生をいかに生きるか」という私たちの
根本課題への答えとも言えるものだと思いますが、親鸞聖人はこの「我」の折り方について、三つの方法を示されていると思います。御消息集に「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ」という一文があります。現代語にしますと「弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、ご縁ある人々を大切にし、ていねいに接してこそ、本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないか」ということになると思います。つまり仏さまの願いに生きようとするには「人を思いやる」ということ、そして「反省する」ということが必要だと言っておられます。他人に対して、「大丈夫かな」と真に思ったその瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。「本当にこれでよかったのか」と真に反省した瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。また、有名な和讃に「恩徳讃」があります。「恩徳讃」とはつまり「感謝する」ということです。「ありがとう」と真に感謝した瞬間には「我」が消し飛んでいませんか。他人を思いやり、感謝して反省して生きる人、こういった人は「我」を折ることのできる人であり、そういった生き方こそが、私たちが真に求めるべき生き方ではないでしょうか。(宗)
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