世間とは、われわれが今いるこの世界を指しているが、そのすべてが虚妄(陽炎の如く実体を持たないこと)であると釈尊は言う。その一方で彼は、自分にとってここは仏土(浄土)と映っているが、あなた方の目にそうは見えていないということで「我がこの土は浄けれども汝は見ざるなり」(『維摩経』)と弟子たちを前にして言った。しかも、そう見えていないのはあなた方の咎(過ち)にあるとした。しかし、それは彼らだけではなく、われわれにも当てはまる。つまり、われわれが見ているものはことごとく虚妄であるけれども、覚者の目(それを仏眼、あるいは慧眼という)には同じこの世が真実と映っているのだ。
すると、この世が虚妄となるか、真実となるかは認識するわれわれの見る姿勢にかかっていることになろう。果たして仏教は、人間には「世俗の我」と「真実の我」の二つがあるという。もちろん前者は、世間(世俗)に留まって、徒に生まれ、徒に死を繰り返しているわれわれ自身のことであり、後者は真理に目覚めた覚者を指している。つまり、見る私が「世俗の我」であるか「真実の我」であるかによって、世界もまた虚妄ともなれば、真実ともなるのだ。
ところが、ここに重大な問題がある。それは、この世が虚妄であると知るのは覚者に限られるということだ。言い換えれば、「真実の我」(親鸞の言う「まことのひと」であり、臨済の「真人」にあたる)を知るのでない限り、われわれはこの世が虚妄の世界であると気付くこともなく、生々死々を繰り返すことになるからだ。一方、「世間における一切のものは虚妄である」と知った者はこの世とかの世をともに超えた真実の世界に至り、再び空しく生死の円環を巡ることはない。(可)
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