朝、教室に行くと、子ども達は、「待っていました!」というように、「聞いて、聞いて、聞いて。」と集まってきて、周りを取り囲まれます。他愛もない話ですが、それぞれの話を聞くと子ども達は満足してその場を立ち去ります。
しかし、自身を振り返ってみますと、自分の心の余裕がある時には、子ども達の話を聞けますが、忙しい時や自分の都合を優先させている時などは、相手の話す内容をしっかり理解するのではなく、結果的に聞いている「ふり」をしているだけで、聞いていないことが多々あります。そんな時に限って子ども達からのサインを見逃し、信頼関係をそこねた苦い経験もあります。
日常生活においても、「聞く」ことそのものを自分の善し悪しで判断し、人の話を自分と関連付けて自分にとって関係があるかないかで聞いてしまいがちです。そして、自分にとって都合のよいことは聞きますが、都合の悪いことは聞いていない。それどころか、切り捨ててしまっています。そんな時に自分の中で聞くという行いが、どういうことなのかが問われてきます。
「こころ」の授業の導入に、子ども達と共に『三帰依文』を斉唱します。その二句目に
「仏法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、今すでに聞く。」
とあります。「今すでに聞く。」・・・。この言葉を聞く度に「自分は仏法を聞けてるのかなあ」と思い返します。「今すでに聞く。」とは、「すでに聞きました」ということではなく、「あなたは本当に聞くことができていますか。」「他人事ではなく自分のこととして聞いていますか。」「自分の価値観で物事を聞いていませんか。」というように、仏から呼びかけられているような気がします。
親鸞聖人の著書『教行信証』の「総序」の最後に
「聞くところを慶(よろこび)び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと。」
とご自身の胸のうちをあらわされています。この言葉は、親鸞聖人が生涯をかけて自分の進むべき確かな教えに出遇い、その教えを聞かせていただいているという慶びをご自身で受け取られています。人生を変えるただ一度の出遇いに聞いていく。「聞く」ということは、今ある自分を引き受けて、聞かせていただいた教えや言葉に頷いていくことなのかもしれません。
聞くことは難しいです。更にいうならば、私達は自分のこととして聞くことは、もっと難しいです。しかしながら、聞いていく他に道はないわけです。もし、聞くことができなければ、世の中の価値観に振り回され、それを繰り返してこだわり、本当に大切なものの出遇いに気づきません。自分のこととして聞くことによって気づいて行く世界があるんだといつも教えられています。
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