今回は初期経典の一節を紹介します。老いることもなく死ぬこともない「世界の極限」<つまりわたしたちが理想郷や天国と言うようなところ>はどこにあるのかと問うローヒタッサに対して、そのような世界の極限<釈尊は「世界の極限」を「苦しみの終極」と言い換えています>は「わたしの外」にあるのではなく、「思いがあり意識を備えたこの身体のなか」にあると釈尊が答える箇所の一部です。
「尋(ひろ)」とは、「大人が両手を広げた長さ」を意味する長さの単位で、「一尋」は約1.8メートルとされています。経典では、苦の消滅のみならず、苦なる世界も苦なる世界の原因も、そして苦なる世界の消滅に至る道も、このわずか一尋1.8メートルもあるかないかの身体の中にあると語られています。
わたしたちはそれぞれに、たった一度のかけがえのない人生をこの身体ひとつで引き受けて生きています。そしてわたしたちがその中を生きる「世界」を、仏教では、自らの経験を通してこの身体で日々刻々と感じ、この身体に備わったこころでそれを理解し作り上げているものであり、じぶん自身にほかならないとします。したがって、先に述べたように、苦なる世界もその原因も、そして苦なる世界の消滅もそこに至る道も、「思いがあり意識を備えたこの身体のなか」にあるということになります。
一方で、ときにわたしを襲う大きな苦しみ、あるいは日々経験する怒りやいら立ち、孤独感などネガティヴな感情は、わたしとは別に存在する世界や人々との軋轢の中に生まれるものだとわたしたちは思いがちです。つまり、ネガティブな感情を生みだす原因は「この身体の外」からやってきて、今このわたしのこころをさいなんでいると。
しかし、「この身体の外」だと思っているものが、釈尊の言うように、わたしがつくり出したわたしの一部であるのなら、それを「わたし」から切り離すことは、じぶんの一部に対してこころを閉ざし切り離すことであり、孤独と苦しみのループに陥ることを意味します。他の誰とも変わり得ないこの人生をこの身体ひとつで引き受けて生きていかなければならないわたしたちにとって、これはさみしいことではないでしょうか。
たった一度のかけがえのないこの一年を、こころを閉ざすことなくこの身体でめいっぱい受けとめて生きていければ、それだけで素晴らしい一年だと言えるのだと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。
なお『サンユッタ・ニカーヤ』所収「赤馬経」の現代語訳は、中村元『ブッダ 神々との対話』(P.143-145):片山一良『パーリ仏典 相応部 有偈篇I』(P.275-279)をご覧になってください。(宗)
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