何も恐れることがない。 中村元訳(『真理のことば』39)
仏教とは何かを簡潔に纏(まと)めたものに、『ダンマパダ』にも登場してくる、「悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸仏の教えである」(183)というのがある。釈尊をはじめ、過去の七仏すべてが仏教を上記のように説いてきたというので、古来、「七(しち)仏通誡偈(ぶつつうかいげ)」として知られている。 その彼らが、初めに行為の善し悪しを持ち出してくるのは、仏教が因果の法則を説いていること、つまり、われわれの未来は現在のわれわれが形作るという極めて厳しい倫理観に立っていることに由(よ)る。しかも、ここでいう未来は、ただ死ぬまでの時間ではなく、死をも超えてわれわれの有り様を規定することを含む。例えば、善き業(行為)は順次生(当有)に人・天の受生となるかもしれないが、その縁が尽きれば三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に生まれる恐れもある。それよりも何よりも、人・天といえども六道に輪廻する迷いの存在であって、仏教が説く「安寧の境地」(涅槃)を約束するものではない。それは親鸞が、人・天も加え、われわれが避(さ)けるべき「五悪趣」としたことからも明白である(『尊号真像銘文』)。 翻(ひるがえ)って、善と言えるほどのことを為すことは難しい。否、親鸞も言ったように、悪性はなかなか止められないのが人間という生き物なのだろう。しかし、そんな自分をことさら貶(おとし)めるのではなく、むしろ、善悪のはからいを捨てて、真理に目覚めた人(覚者)となるよう勧めているのが仏教であり、その時、われわれは生死の流れ(六道輪廻)を渡って涅槃の境地(浄土)へと趣(おもむ)く。しかし、そのためには「浄土を得んと欲せば、当にその心を浄むべし」とあるように、心を統一し、自らの心の本性(自性清浄心)を知るのでなければならない。(可)
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