人は徒に嘆き悲しむ。中村元訳(『ブッダのことば』582)
生まれた者に死を逃れる道はない。生はひたすら死へと向かう走路に過ぎないが、なぜかわれわれは死を遠ざけ、忙しく世事に明け暮れる。しかし、いずれは力尽き、その試み、その夢、その家族・・・すべてを残して、独り死出の旅に赴く時、人は死を畏れ、また愛するものの死を看取り、愁嘆に暮れる。
生まれたと言っては喜びの涙を流し、死んだと言っては悲しみの涙を流す。これが人の世と言われるところであろうが、その実、世々生々に迷っているわれわれ人間(親鸞の言葉)は何度もこの悲喜の涙を流してきた。それ故に釈尊は、生と死の両極を見極めないで、人は徒に嘆き悲しむと言う。まるで、生(生まれる)とは、死とは何かを知った者に悲しみなどないと言わんばかりである。事実、悟りとは、生死の夢(「生もまた夢幻、死もまた夢幻」白隠)から目覚め、生もなければ、死もない永遠のいのち(不生不死の生)に目覚めることであり、かく目覚めたものを覚者(仏)という。つまり、生死に迷うわれわれが死の悲しみから逃れる方法はただ一つしかない。それはこの生死なき本分のいのちに帰っていくことなのだ。
浄土教は本分のいのちを無量寿仏、すなわち阿弥陀仏と呼び、またこのいのちに復帰することを往生という。つまり、われわれがいのちと呼んでいるものは、生じては消える波のようなものであり、それらの根源に繋がる永遠なるいのち(同様に「弥陀の願海」という)に帰入するのでなければならないということだ。でなければ、人は有限の生しか知らず、いつまでも生死の波に翻弄され、徒に嘆き悲しむことになる。(可)
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