標記の言葉は、宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の「総序」にある言葉です。
私たちは、日常生活の中で多くの方々と出遇い、多くのものを見聞きし、多くの言葉に接していますが、その中で生きる上での確かな依り処となる真実の教えを聞くということは、どれだけ時間を費やして努力を尽くしても極めて難しいことだと思います。
親鸞聖人においては、その本当に聞きがたい真実の教えを「確かに私は、すでに聞くことができました。」と述べられています。そこには、人生を根底から変える決定的な教えとの出遇いを果たし遂げることができたという因縁の不思議さと感動とともに、深い慶びのこころが強く込められています。親鸞聖人は、その真実の教えを釈尊以来のインド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の釈論との出遇いによって確かめられ「生死出ずべき道」を顕かにされました。殊に二十九歳の時のよきひと(師)である法然上人との出遇いによって、その仰せのままに人生の確かな依り処として一切の疑念をもつことなく一途に信じて、終生そのご恩に応える人生を生き抜かれました。苦難の連続であった人生の中で、そのすべてがこの出遇いに導く尊いご縁であったと受け止められました。そこには、生涯を通して、確信を持ってひたすら「聞く」という親鸞聖人が最も大切にされた根本姿勢がありました。
「聞く」ということを『一念多念文意』(親鸞聖人)には、「きくというは、本願をききてうたがうこころなきを 聞(もん) というなり、また、きくというは、信心をあらわす御(み)のりなり」と解説されています。「きく」とは、真実の教えの言葉を直に聞くことを通して、一切の衆生を必ず救うという本願の呼びかけを聞くことであり、疑うことなく、何のはからいもなくおまかせするという聞き方を「信心」と表すと述べられています。ただ単に「教えを聞いた」と言われるのではなく、「今、正に信心を獲得して如来のご恩の深いことを明らかに知ることができた」と言われています。聞くことがそのまま信心であり、聞かせていただいたことを慶び、信心を得させていただいたことをこころから讃えておられます。
このことから、私たちが真実の教えを「聞く」ということは、ただ聞くだけ、なるほどと単純に思うだけで終わるのではなく、それが人生においてどういう深い意味を持つのか、自らの問題として捉えて問いを見出し、思考すること、そして、その聞いた教えを固く信じて、私たちにかけられている大きな願い、呼びかけを確かな言葉として聞くことが最も大切なことであると標記の言葉から教えられます。
現代社会を生きる私たちにとって今、最も必要なことは、その日常生活のすべてにおいて、真の意味でただひたすらに「聞く(聞法)」ということではないでしょうか。(宗教部)
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