釈尊が悟りを開いた時、彼は一体何を知ったのであろうか。その答えの一つが、この世のすべては泡沫(うたかた)の如く果敢なく、また陽炎(かげろう)の如く実体がないということであった。しかし、身体も含め、私たちが目にし、触れるものはもちろん、日常的に経験する喜びや悲しみに実体がないとは誰も思っていない。それどころか、「鏡中の像」のように実体がないものに、私たちは心奪われ、あれもこれも手に入れようとして、かえって多くの問題を抱え込み、一喜一憂しているのではないか。
否、問題はそれだけではなかった。ことは私たちの生存(生と死)にまで及ぶ。なぜなら、釈尊はこれに続いて「世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない」と付け加えているからだ。その意味は、この世を陽炎の如く実体はないと本当に知った(覚った)人は二度と死の憂き目を見ることがない。つまり、この生存が、この肉体が「最後の身体」であるとはっきりと知っているということだ。
逆に言うと、この世の様(さま)を実体的に捉えている限り(現在、私たちはそうしているのであるが)、生死の絆を断ち、涅槃(悟り)の世界に趣くことはできないということだ。すべてはヴァーチャル(仮有実無)にしか存在しないにもかかわらず、それに囚われていく妄執ゆえに、私たちはそうと気づくこともなく、迷いの生存を繰り返すことになるからだ。「生存に対する妄執を滅ぼし、実体についての固執を断ち切った修行僧にとっては、生まれを繰り返す輪廻が滅びている。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない(ウダーナヴァルガ)」。(可)
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