初期仏教経典の『サンユッタニカーヤ(相応部)』に収録されている『比丘尼相応』「ソーマー経」のお話です。禅定中の女性出家者であるソーマーに、マーラ(悪魔)が近づき、女性は知恵が少なく、努力しても覚りを得ることはできないと蔑み、修行の邪魔をしようとします。ソーマーは、そのマーラ(悪魔)に対して、「心がよく安定し、知恵が現に起こっているとき、法を正しく観察する者にとって、<女性である>ということが何だというのだ」と反論します。その上で、「私は女性である」あるいは「男性である」と、また何かしらのものを「私である」とこだわっている者に対して、そのように語りかけなさいと言って、マーラ(悪魔)を退けます。このように仏教は、当初から教義として、女性の出家、覚りの獲得を肯定しています。心を落ち着け、知恵をもって、正しくものごとを考察していくことが重要であり、そこで男女の性差は問題にならないのです。
大乗経典になると、私たちの性別も存在しないという教えが示されます。例えば『維摩経』では、男性であることにこだわるシャーリプトラに対し、天女が神変をもちいて、彼を女性に変化させた上で、「あらゆる存在は女でもなく男でもない」と仏陀はお説きになったはずだと諭します。水に写った月のように、あらゆるものは無我であり、固有の性質はないのだということです。そのような大乗思想によれば、男であるから、女であるから、あるいはそれ以外であるからと囚われ、こだわること自体が、私たちの分別だということになります。
一方、男尊女卑の社会・文化の影響を受け、仏教の典籍には、さまざまな女性差別表現、差別思想が存在するというのも事実です。有名なものとしては、女性は、梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏陀にはなれないとする「女人五障」の教えや、女性は男性に変身してから成仏すると説く「変成男子」の思想があります。そのような思想から、仏教は男性性を肯定し、女性性を否定する宗教であると批判されることもあります。
仏典に性差別的な表現があることに疑問を感じることもあるでしょう。しかし、そこで、そのような差別的表現をあげつらうことに終始するのではなく、立ち止まって考え、自らの中にもある差別的な分別、無意識のうちに刷り込まれたジェンダーバイアスに気づいていくということが大切なのではないでしょうか。
知らず知らずのうちに今の社会の価値観に影響を受け、それを当たり前と思って、自らの可能性を狭めてしまわないためにも、多様な角度から考察する思考力が必要です。ソーマーのように、心を落ち着け、知恵によって正しくものごとを知り、社会の真実を見つめ歩んでいきたいものです。(宗)
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