ある弁護士事務所の所長から伺った話ですが、揉め事の仲裁で大切なことは、双方の言い分をしっかり聞いたうえで、「揉め事に対する客観的な意見を言えるか」ということだそうです。その所長によると、当事者は自分こそが正しいと言ってなかなか譲らないものだが、多くの場合「良い」「悪い」の判断は、自分の経験という主観に基づく判断を客観的な判断と捉え、客観的に見て自分が正しいと頑張ってしまう。しかし、それは主観的客観性を持った意見であり、客観的な意見とは言い難いことも多い。本当の意味での客観的な意見とは、自分の主観を超え、今の環境や情勢をしっかり再確認したうえで冷静に判断されたことに基づく意見、すなわち客観的客観性を持った意見のことであり、それを、ていねいに説明できるかどうかが揉め事解消の秘訣だそうです。
同じような話として、江戸時代の曹洞宗の僧、良寛の詩に次のようなものがあります。
昨日之所是 昨日の是とせしところを
今日亦復非 今日 亦復(また)非とす
今日之所是 今日の是とせしところも
安知非昨非 安(いず)くんぞ 昨の非にあらざるを知らん
是非無定端 是と非と定端なし
この詩の意味は「昨日は良いことであったものが今日には悪いことになる。今日は良いことであったものも昨日には悪いことであったかもしれない。良いも悪いも基準はないものだ」ということだと思います。つまり、「自分中心に物事を判断しては駄目ですよ。まわりの状況や周囲の環境の変化をしっかり把握して、自分の考えを整理することが大切なのですよ」という教えではないでしょうか。
また、聖徳太子の十七条憲法の第十条に「十に、曰く。忿(いか)りを絶ち、瞋(いか)りを棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各(おのおの)執ること有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖(ひじり)に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定むべき。相共(あいとも)に賢愚、鐶(みみがね)の端(はし)无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえっ)て我が失(あやま)ちを恐る。我独り得たりと雖(いえど)も、衆に従ひて同く挙(おこな)へ」とあります。これは「人にはそれぞれ考えがあり、その考えに捉われることがある。私たちは皆凡夫であり、その是非をつけることはできない。それは耳飾りの輪の端がどこかわからないようにはっきりとしないものだ。だから相手が自分に怒りをぶつけたり、自分が相手に怒りをぶつけようとした時は、まず、自分に過ちがないか見つめることが大切ですよ」ということだと思います。
「自分中心に物事を見るのではなく、まず自分のことを見つめなおしてみる」これが、人間関係を円滑にする最大の秘訣かもしれません。(宗)
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