「と,世の生きとし生けるものすべてを自分自身だと考えて,それらを殺さず,また殺させないようにしなさい」と続きます。(『スッタニパータ』705偈,榎本文雄ほか『スッタニパータ 釈尊のことば』179頁,中村元『ブッダのことば』153頁)
「多様性」「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にします。確かにわたしたちの社会には様々な価値観,人生観,感性を持つ人がおり,それぞれの生き方というものがあります。
多様な価値や生き方を許容し,生活の中で「人それぞれであること」を理解していくことはとても大事なことです。そのため日常の様々な場面で多様性の尊重が謳われています。しかし,社会の中に溢れる「人それぞれ」という言葉に触れるとき,しばしば,他者を受容し共にあろうとする「温かさ」より,決してそれ以上に距離を縮めるつもりがない「よそよそしさ」を感じます。多様性を許容し「人それぞれ」に生きる社会とは,このように個人がバラバラに分断されて生きていくしかない社会なのでしょうか。
仏教説話に,飢えた虎に遭遇した菩薩(ぼさつ,ブッダとなる前の釈尊)の物語があります。この物語を手掛かりに考えてみましょう。
飢えてもう自分の子供さえ食べてしまいそうになっている虎,そこ出くわした人々。Aさんは何か食料がないかを探し,Bさんは虎が死ぬのを待って毛皮をはいで売り飛ばす算段をし,Cさんは見て見ぬふりをし,Dさんは自らの身体を食料として差し出そうとする….この中で「私もこのものたちと同じ」と思うのはどのキャラクターでしょうか。多くの人は,Dさんは無理でもせめてAさんでありたいと思うのではないでしょうか。しかしBさんかもしれない.あるいは,現実的にはCさんのようになってしまう人が大半かもしれません。ところで,この解説を読んでくださった中で,自分はこの虎であると思われた方はおられるでしょうか。
「私」がいま飢えずにいることは,必ずしも「私」の努力によるものではありません。生まれた時代,環境,出会った人々の巡り合わせがいまの「私」にしてくれているのであって,これから先何か大きな出来事があれば,「飢えて子供でさえ食べてしまいそうになる虎」のようになる可能性があります。それほどにわたしたちは「もろい」存在です。しかし,そのもろいわたしを忘れて,わたしたちは,今の自分を当然のものとして,わたしにとっての価値,わたしのモノサシを絶対のものと思ってしまいます。
この経典は,いまの自分に囚われ他者への想像力を失ったわたしが,その自分を振り返り内省し,他者への共感を取り戻す地平を教えてくれています。自分を振り返ることと,他者への共感なくして,多様性というのは成り立たないのかもしれません。(宗教部)
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