世間を空なりと観ぜよ。中村元訳(『スッタニパータ』1119)
もともと無(非顕現(ひけんげん))であったところから、否、時間も空間も未だ存在しなかったところから、名(nama)と形(rupa)を通して、今、われわれが見るが如き可視的宇宙は顕現してきた。花には花という形があり、人には人という形がある。しかし、有名・有形なるものはすべて、その可変性と有限性ゆえに、いずれは過ぎ去る虚妄なるものである(同上757)。 さらに、名と形からなるこの現象世界(世間)は、遠くから眺めていると陽炎(かげろう)は存在するように見えるが、近づいてよく見るとどこにも存在しないように、われわれの散漫(さんまん)な心(散心=妄心)には、有りもしないのに有るかの如く見えている空なるものである(非有似有)。それは私(自我)についても言える。ところが、私には私という形(実体)が有るという我執(がしゅう)(見解)に囚われ、われわれは独り生死の世界(世間)を廻っているのだ。そこで釈尊は、自らの教義を「常によく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世間を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう」と纏(まと)めたのだ。 すると、われわれが辿(たど)るべきは、死すべきものから不死なるものへ、形あるもの(有為)から形なきもの(無為)へということになるが、そのためには心(妄心)を除き、世間は空なりと覚るのでなければならない。つまり、河川が大海に流れ込むように、有名・有形の世間に対する妄執を離れ、言葉も及ばず(無名)、形もなく(無形)、かつて一度も時間に触れたことのない非顕現なるもの(法身)と一味になる時、われわれはどこに存在するのでもないが(無我)、至るところに存在する(大我)。かくしてわれわれは、仏教が説く、存在するすべてのものに対して無縁の慈悲を注ぐことができるのだ。(可)
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