菩提樹下で成道を果たした後、釈尊は自らが到達した悟りの内容が深遠で他の人々に容易に理解できるものではないことに気づき、悟りの内容やそこへの道を人々に説き示すことに躊躇が生じたと仏典は伝えています。そこで、仏典は梵天を登場させて、説法を促す梵天と説法を躊躇する釈尊との対話という物語にして釈尊の説法決意への軌跡を描き出します(梵天勧請)。今月のことばは、説法を決意した瞬間の釈尊の宣言からの抜粋です(宮本啓一『仏教かく始まりき』p. 42,片山一良『パーリ仏典相応部有偈篇Ⅱ』p. 142)。
甘露とは、アムリタ(amṛta)「不死」を意味します。ここでいう不死とは、生物学的な意味ではなく、生死の恐れを越えたこと、すなわち釈尊を仏たらしめる悟りの境地を意味します。「耳ある者たち」に、生死流転の苦しみを脱し、寂静なる境地へと至る門が開かれた、つまり、その者たちに釈尊自身が生死流転の苦しみを乗り越えたその道を説き示す、という宣言から仏教の歴史は始まりました。では、「耳ある者たち」とはどのような人たちなのでしょうか。
説法を決意する直前、釈尊は梵天に促されて世間の人々を思い起こします。そして、そこに、釈尊の教えに出会うことでより善く生きることができる者たちがいることに気づきます。その者たちは「あの世と罪とに対して恐れを感じて暮らしている者」と言われています。
「あの世に対する恐れ」とは、自らが死を持って終わる人生を生きていると自覚していること、「罪に対する恐れ」とは、今の自分の行いが未来の自分に影響を与えると知っていることを意味します。どちらも当たり前の事実ですが、釈尊が説法を躊躇するほどに、わたしたちはしばしばこの事実を忘れ、時を空しく過ごし、善く生きることよりうまく生きることに夢中になってしまいます。
限りある人生をより善く生きたいと多くの人は望むことでしょう。そのとき、わたしたちは自分自身に「善い」とはどういうことかを問わなければなりません。そして、そのためには、自分が当たり前の事実をきちんと受け止められているかを確かめなければなりません。自分自身にこのようなことを問いかけ続けることで、わたしたちは、釈尊が切り開いた大いなる道からの声を聞く「耳ある者」でいられるのでしょう。(宗教部)
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