『歎異抄』の第三条には
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。」
とあります。
生死の苦しみから離れようと心がけても、その道をさえぎる煩悩に溢れている私たちは、どんな行いをしてもその苦しみから離れることはできません。一言で煩悩と言ってもさまざまな煩悩があります。なかでも三毒として知られる「貪瞋痴(とんじんち)」の煩悩は、人間の欲と貪り、怒り憎しみ、そして本当のことをそのままみること、受け取ることができないことをいいます。親鸞聖人も仏教を学んでいく中で、自分が自分のことをいかに分かっていなかったかということを知り、自分の愚かさに気づいていきました。
そのような学びを経て、親鸞聖人は、自らのことを「愚禿釈親鸞」と名のり、その名のりのもとに生涯を送りました。「愚禿」とは、自らが愚かな凡夫として生きていることを確かめる言葉です。これは親鸞聖人自らも煩悩に溢れて生きている存在に他ならないことを表しているのでしょう。それは私たちと何も変わらない姿ではないでしょうか。ただし、私たちは、ことあるごとに自分たちが正しいことをした、善い人として生きていると思ってしまいます。そのような自分勝手な思い、煩悩にあふれる私たちを踏まえると、親鸞聖人の「愚禿」という名のりには、常に自らと真正面に向き合い、自らを偽らずに生きていこうとする親鸞自身の決意を感じることができるのではないでしょうか。
私たちも煩悩に溢れていることを自覚することが大事なのでしょう。ただそれは難しく、多くの人はその煩悩に向き合うこともなく過ごしています。しかし、その現実から目を離している限り、私たちが心の底から人間として生きていくことは難しいのではないかと思います。
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