住んでいる地域や性別、年齢や障がいの有無、社会的な地位など、様々な原因による不平等や社会的格差が長年、世界的な問題となっています。2015年9月の国連サミットで採択されたSDGsでは貧困や飢餓といった問題から、働きがいや経済成長、気候変動に至るまで、17の大きな目標と、それらを達成するための具体的な169のターゲットで構成されており、2016年から2030年の15年間で達成するために国連加盟193か国がすべての人が平和と豊かさを享受できるようにすることを目指す普遍的な行動を呼びかけています。
そういった取り組みの中で昨今、世の中では物事が平等であること、公平であることに非常に敏感になっています。社会的問題の解決、すべての人が平等にいきいきと日々を過ごすことのできる社会は目指すべき世の中であり、素晴らしいことであると思います。しかし、その一方で、現代の社会では、平等性や公平性を追い求め、他者に排他的になってしまう面があるように感じます。特に猛威をふるっている新型コロナウイルスに関連する対応をめぐっては、日々不安な情報が流れ、人々の心が疲弊する中で、「自分だけが苦しい思いをするのは嫌だ」「自分はこれだけ我慢しているのに…」と、批判的に、「平等」「公平」を求める意見が多く見受けられました。
今一度、それぞれの言葉の意味を調べてみました。「平等」とは「差別がなくみな一様に等しいこと。」、「公平」とは「すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。」だということです。「平等」な状態を生み出すためには、それぞれの状況に応じて待遇を変える等、「公平」な判断が求められるということになります。したがって、当事者間や第3者に求められるのは、まず「自分とは異なる人(行動様式や価値観など)がいる」ということを認め、次にその「異なる人」を理解して、互いに折り合える地点を模索することが必要であると言えるのではないでしょうか。
私たちは「自分にとっての普通、当たり前」にこだわって、それ以外のものを認めることが苦手です。仏教ではこの、いわば「見方のクセ」を「分別」といい、それにこだわることを「執着」といいます。平等な社会の実現には,根底に「他者との違いを認めること」が必要で、自分の「見方のクセ」「分別」を見直していかなければなりません。この内省の知を仏教では「知恵」といいます。知恵によって内省していくことは,自分の分別から自分自身を解放していくことでもあるので、結果的には自分の可能性や価値を見出すことにもなります。自分自身の可能性や価値を自覚し、そして他者の可能性や価値も同様に認めた先に「平等」な社会・世界が存在するのであると思います。(宗教部)
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