昨年11月22日、東本願寺報恩講で本学園高校3年生の篠原茉里(しのはらまり)さんが感話を行いました。以下はその概要です。
私が三年間を過ごした京都光華高等学校は、この東本願寺の関係学校です。私たちの学校では毎週「宗教」という授業があります。そこでは、自分自身の心を見つめたり、「いのち」のつながりについて考えたり、「私たちは大きな願いによって生かされ、見守られている」ということを学んだりしています。
『如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし』私は最初この「恩徳讃」の歌詞を聞いて、「どうして身を粉にしたり、骨をくだいてでも感謝しなければならないのかな」と不思議に思いました。
でも「宗教」の時間で学ぶうち、少しずつ分かってきたことがあります。それは親鸞聖人が悩みや苦しみの中から、「阿弥陀様」という大切な存在に出会えたということ、「阿弥陀様」とは、苦しいことや悲しいことの中に沈み込んでもがいているひとや、素直になれず、前向きに生きられない人も決して見捨てることなく見守ってくれている存在であるということです。私はここではっとさせられました。それは親鸞聖人が出会われた阿弥陀様とはまさに「親」そのものだということです。
素直になれずいつも反抗ばかりしている私を、時には優しく時には厳しく両親はいつも見守ってくれています。うまくいっている時や、輝いている時の私だけでなく、苦しんだり落ち込んだりしている時の私も、ちゃんと見て支えてくれています。 誰にも親があり、私の両親も、それぞれの両親から、その人達もさらにその親から‥‥というようにいのちを育まれ守られてきたのだと‥‥それはまさに無条件で「いのち」を与え、つないでいくリレーのようなものではないでしょうか。 そして親鸞聖人は、その一番もとにある、深く大きないのちを「阿弥陀様」という言葉で表されたのではないでしょうか?
「あなたは、あなたのいのちを輝かせながら精一杯生きていってくださいよ」阿弥陀様はおそらく私たちにそう呼びかけてくださっています。そして、親鸞聖人はその気持ちに応えて生きていくことを「恩徳讃」の歌詞に表されたのだと思います。 私にとって今、最も身近な親子の関係や家族の恩を見つめ直していく中で、目には見えないけれど大切にしなければならない大きな「いのち」を感じながら、これからの人生をしっかり歩んでいきたいと思います。私は光華で出会った「恩徳讃」からそのことを学びました。(宗教部)
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